闇の王女
 
庭から聞こえてくる華やかな笑い声に、わたくしは思わず足を止めました。
そうっと回廊の柱の影からそちらを覗きますと、中庭に出されたテーブルで、母とアトレイア王女が何か楽しげに話をしております。
 
…どうしてでしょう…。
わたくしは息が止まりそうになりました。
母が、…母が笑っているのです。とても楽しそうに。
そして、同じテーブルでは、アトレイア王女がどこかはにかんだような笑みで、
それでもくつろいだように母と何かを話しております。
 
どうしてでしょう。
その姿は、まるで実の親子のようにわたくしの目に映りました。
母が、わたくしの前であのように笑ったことがあったのでしょうか。
あのように、優しく、慈愛に満ちた目で…。
わたくしは、…私は母を前にあのような顔で、話をしたことがあったのでしょうか。
 
わたくしは、よろけるようにその場から離れました。
心臓が激しく脈打っております。
なぜ…、なぜ、わたくしと母は、あのように話すことが出来なくなっていたのでしょう。
分かりません…、わかりませんが。
 
わたくしは苦しい心臓を押さえるように、自分の部屋へとたどり着きました。
脈打つ胸は、いまだ落ち着きません。
わたくしは椅子に崩れるように座り、そのままじっとしておりました。
わたくしはひょっとして、何かを間違えたのでしょうか。
わたくし次第で、母とはもっと違う関係が築けたというのでしょうか。
わたくしは、強い怯えに自分の身体を抱きしめました。
 
すると…、なぜ、こんな風に感じたのでしょう。
分かりませんが…、わたくしの部屋の奥の扉から続く寝室に、何かの気配を感じたのです。
何か、冷たく、怪しい、妖気のような。
 
わたくしは胸を押さえるように、寝室への扉を開けました。
誰もいないはず、そう言い聞かせて。
ですが、扉を開けたわたくしは目を疑いました。
わたくしの寝室で、わたくしのベッドの上で、激しく愛し合っている男女がいるのです。
 
男性の方は。
浅黒い肌に、太い腕。後ろからであっても見間違いようのないわたくしの婚約者です。
そして、その腕の中でみだらに身体を揺らせ、嬌声をあげている長い金髪の女性。
大きく頭を振った女性の髪が乱れ、その間から覗いた顔は。
 
『わたくし』
 
そんな筈はありません。わたくしがここにいるのです。
あそこに、あんな風に男に抱かれ、嬉しそうに喜んでいるふしだらな女が、わたくしである筈がありません。
「これは嘘です」
わたくしは叫んで、顔を両手で覆いました。
これは夢です。
こんな事は全て、嘘です。
 
「そう、これは嘘」
顔を覆ったままのわたくしの後ろで、楽しげな少年の声がいたしました。
 
「これは嘘。でたらめ。あなたの心の中だけに存在する光景。実際にはあり得ないこと」
これがわたくしの心の中に?
嘘です。わたくしはこんな淫らな事を考えてなどおりません。
 
「そうそう、そうやっていつも否定するんだよね。とても綺麗なお姫様。でも、本当は違うでしょう?」
違う?どう違うというのです。わたくしは…。
 
「本当はいつも思ってたでしょ?あの人に愛されたい。あの人の妻になりたい。あの人に抱かれたい」
嘘です。
わたくしはそんなことを望んでいません。
あの人は、血と酒の臭いをいつもさせている、汚らわしい男。
 
「でも、いつも気になってたでしょ?来て欲しいと思ってたでしょ?
追い返した後は、いつも寂しいって思ってたでしょ?」
 
違います。わたくしはそんなことを考えてなぞいません。あの人の事など…、なにも。
 
「そうそう、そうやっていつも否定してたね。酷い言葉を投げつけてたね。どうして、あんな事が言えたの?
婚約者だから?自分が何を言っても、いずれは自分の夫になるのだから?」
 
いいえ、いいえ。あの人と結婚など…。わたくしは…。
 
「そう言うのって、自信過剰って言わない?人の心って変わるんだよ?あんな態度をとってても嫌われない自信があったの?」
 
いいえ、わたくしはそんなことを考えてなど…。
 
「残念だったね。彼の心は離れちゃったんだ。だってそうでしょ?いつもいつもつんつんして、ちっとも優しくない人よりも、側にいて、力になってくれる人の方が好きって、誰だってそう思うでしょ?」
 
離れた…、あの人の心が?
 
「そう、あなたが自分の気持ちを否定して、彼を傷つけてた間に。彼はもっといい人を見つけちゃったんだ」
 
もっと…、いい人…。
 
「そう、嘘だと思うなら、目を開けてごらん?そこにあるのが真実。本当に本当のことだよ?」
 
わたくしは、なぜその声に従ったのでしょう。
わたくしは、操られるように顔を覆っていた手を下ろし、まっすぐに目を開けてベッドを見つめました。
 
そこには、先ほどと同じように、男女が2人縺れていました。
わたくしの許婚と…その腕の中で身をくねらせている青い髪の少女。
 
「そう、あれが本当なんだ」
 
わたくしの周囲の光景が粉々に壊れ、全てが幻のように消えてゆく…、そんな感覚でした。
 
「あなたが目を背けていたうちに無くした物、あれが真実なんだ」
 
少年の声がどこから聞こえているのか、わたくしにはもうどうでも良いことのように思えました。
粉々に砕け散った世界は、引きずられるように虚無の底へと落ちていったのです。
 
 
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