◆ 後朝 ◆


 

――明日、父は戦いに行く。

妻戸を開け、高く上がった望月を眺めながら、殺生丸はぼんやりと考えた。
母を亡くした後、父が望んだ女は人間だった。その女との間に一子を儲けた後、父はこの館の対の棟にその親子を住まわせるようになっていた。
出撃を控えたこの夜、父はその親子と共に最後の夜を過ごしているのだろう。
最後の――そう考え、殺生丸は自嘲するように笑う。
おそらく、父がこの館に戻ることはもう無いだろう。人間の親子はそれを知らず、いつも通りに見送るのだろうが、この館に住まう殆ど全ての妖はそれを知っている。
父上はもう戻らない。竜骨精との戦いで、命を落とされる。

負けるとは思わない。だが、勝つこともない。人間と情を通わしたが故に、父上は変わってしまった。最強の大妖怪として存在するために絶対必要な冷酷非情さを失ってしまわれたのだ。
もともと妖としては陽気で情け深い父ではあったが、それとはまったく別の甘さ弱さを持った父は、あの竜骨精には勝てない。
それを承知で、父は1人で戦うとそう言った。自分でもここが潮時だとそう判断したのだろう。後は衰える一方の自分など、自分でも考えたくなかったに違いない。

殺生丸は息を付いて妻戸を後ろ手に閉めた。
自分が何をどう思おうと、父は知った事ではないのだろう。冷たい親子関係だったとは思わないが、父が弟に示すほど睦まじかった記憶はない。
いつもどこか余所余所しく――父は母が生きていた頃から自分に対してはどこか距離を置いていた。
それを寂しいと口に出して言うには、殺生丸は自尊心が高すぎた。
何一つ自分の想いを口にすることなく、自分と父は別れの時を迎える。
むしろ、その方がいいのかも知れない。
もやもやとした気分を抱えて、父の腕に抱かれて遊ぶ弟に浅ましい妬心を感じるくらいなら、最初から縁が薄い父子だったとそう言い聞かせて終わりにした方がいい。
眠気は感じないが、そのまま寝台に横になる。明日は臣下の1人のような顔で、父を見送ろう。情をしめされない哀れな息子としては絶対に別れまい。
そう、何度も何度も自分に言い聞かせて、目を閉じる。
だが――ふと感じた気配に目を開ける。妻戸を開け、周り廊下に立っているのは、間違いなく父。
殺生丸は身体を起こし、室内に入ってこない父の元へと足音を忍ばせて歩み寄った。

「父上――どうなされたのですか?」
殺生丸は父を見上げる。母に似たためか、殺生丸は父に比べて線が細い体つきをしている。彼にとって父は壁のように大きく見えた。
その父が、黙って殺生丸を見下ろしている。豪放な父らしくない表情に、殺生丸は首を傾げた。
「どうなされたのですか?」
父はゆっくりと両手をあげ、不思議そうに見ている息子の頬を包み込む。
僅かに目を見開いた殺生丸を、父は覆い被さるように抱きしめた。
「どうなされたのですか?」
殺生丸の声に驚きと焦りが混じった。父は抱きしめた腕を放さぬまま、軋むような声を唇から絞り出した。
「私は、今宵限り戻ることはないだろう」
察してはいた――だが、改めてはっきりと父の口から聞かされると、殺生丸の胸は締め付けられるように痛む。
――最後の夜なのだ――それがひしひしと身にしみて判った。
だが、それでどうして、今私の所へ?
疑問がわき上がる。それに答えるように、父は耳元で言う。
「……だから、最後にどうしても伝えたかった。……私は、そなたに対して、父としてはあってはならない感情を抱いていた」

聞いた言葉が理解できず、殺生丸は惚けた顔つきになる。父は少し体を離し、その息子の目を見ながらしっかりと言葉を続けた。
「そなたの母が存命だった頃から――私はこのような浅ましい感情を持っている事を誰にも知られたくなかった。だからそなたと距離を置き、そなたの母が亡くなった後、すぐに別の女を求めた。――その事事態は後悔してはいない。が…」
父は対の棟の方にちらりと目を向け、すぐに目の前の息子へと視線を戻す。

今頃、向こうの室内で、あの人間の女はまんじりともせずにいるのだろう。
ここへ来る前に父は最後の別れを女にしていた。間違いないく愛しいと思っていたと、そう伝えていた。その上で父はここへ来た。どうしても、最後にやり残したことがあるから、それを果たしたいと。
女は自分を不実だと思って憎むかも知れないが――だが、心残りはもうこれだけだった。
己の浅ましさ故におそらく寂しい想いをさせていた息子への侘び。
愛おし過ぎた故にただの一度も抱きしめた事のなかった息子を、どうしても最後に抱きしめてみたかった。

力強く抱きしめる腕に、殺生丸はそれを強く感じる。
そして父が最後に何を望み、ここへ来たか。
それを感じ取れないほど、殺生丸は鈍くはなかったし、本心を聞いた以上、それは殺生丸の望みでもあった。
だが、殺生丸はあえて両腕を突っぱり、父の身体を押しやる。
父が辛そうに眉を顰める。だが、強引にそれ以上を求めることはない。
殺生丸は乱れそうになる心と息を必死で整え、そして父を見つめた。
「父上は、――明日、どの時刻に出撃なされるのですか?」
突然の事務的な質問に、父はつられて考えもせずに答える。
「明日、早朝にはここを発つ」
「ならば――」

殺生丸は大きく息を付いた。声が乱れてはいけない。縋る様子を見せてはいけない。
これが最後ならば尚のこと――情に流されてはいけない。あとでより惨めになるような選択はしてはいけない。
「明日は、ここから、私の部屋からお発ち下さい」
胸が詰まりそうになる。苦しげにそう言ってのけた息子の真意を探るように、父はその頬を両手で包み込んだまま、じっと次の言葉を待った。
「もしも、今宵のうちに対の棟に戻られるとそう仰るのならば、今、お戻りになって下さい。私は――」
続く言葉が声にならず、殺生丸の唇は僅かに開いたまま震える。

ただ一時の快楽を得てそれで満足だというのであれば、触れずに帰って欲しい。
そんな物が欲しいのではない。そんな浅い想いではない。
ただの自己満足でも構わない。最後の時間を父は自分だけを思って過ごしていたのだと、そう思うことで寂しかった心がすべて癒される。
でも、もしも、本当に別れの最期の瞬間をあの新しい家族と過ごすというのであれば、自分は一生、惨めな敗北感を引きずって生きることになる。
それくらいなら――ただの父と子として別れたい。

殺生丸は父の袖を掴む。言葉にはならない、離れたくないという意志がそこに込められる。
父はそれを正しく察し、そっと息子に口付ける。長い長い間、ずっと触れたいと熱望して、叶わずにいた行為。
父は黙って口付けを受け入れた息子に、静かに答えた。
「朝まで共にいよう、最期の瞬間まで、そなたと共に」
殺生丸は僅かに顔を歪ませて目を伏せると、小さく頷いた。
その肩を抱き、父は室内に足を踏み入れ、そして妻戸を静かに閉める。
朝までの長くて短い夜を二人きりで過ごすために。


翌朝、武具を装備した父に、殺生丸は刀を両手で差しだした。
殺生丸は、昨夜、父が着ていた小袖を身に纏っている。
父がこの館で最後にくつろいだ夜に、その身につけていた着物。
反対側の廊下では対の棟から来た親子が、ひっそりと旅立ちの様子を見守っている。
殺生丸が纏う着物を見て、おそらく女は気が付いただろう。昨夜自分に別れを告げた後、夫がどこで過ごしたのか。
美しい顔をふせてすすり泣きをする女を、その幼い息子が一生懸命宥めている様子がはっきりと見えた。
殺生丸はなんの感慨もなくその親子の様子を見た後、父に顔を向ける。
父も同様だった。残していく人間の女と半妖の息子の行く末に僅かな悔悟の表情を見せたものの、すぐに毅然として差し出された刀をとった。

「……ご武運を」
殺生丸は掠れ声でようやくそれだけを言った。
もう、戻らないだろう父――でも、もしかしたら。
縋るような願いのこもる言葉に、父は一瞬だけ険しくて切ない顔つきになった。
だが、それも本当にほんの一瞬。
父は殺生丸に向け、朗らかな笑顔を見せる。
今まで、ただの一度も殺生丸には向けられたことがなかった、父の笑顔だ。

その笑顔につられ、殺生丸も僅かに笑みを浮かべた。
父にとっても、それは初めて見た殺生丸の笑顔。
帰っては来られない――判っていながら父は明るく言う。
「では、行ってくる」
誰にも知られることがない二人だけの符丁のように、父と殺生丸はもう一度だけ笑みをかわし、そして父は騎竜にまたがった。
一気に空に駆け上った竜は、そのまま雲を抜け、消えていく。
殺生丸は庭に立ち、父の消えた空を長い間ずっと見つめていた。

長い間の喪失は全て埋められた。
最後の夜――父はまさしく殺生丸1人だけの者だった。
最後に見せた父の笑顔を、殺生丸は永遠に忘れない。



 
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