◆ 雨の日語り ◆


 
軒先から落ちた雨水が真下の水たまりに落ちて音を立てる。
しんとした社の中に大きく響くその音を聞いていると、りんは物寂しくなってきた。1人での留守番。
雨が強いから仕方がないのだろうとは思うが、殺生丸は邪見と双頭竜だけを連れてどこかへ行ってしまった。 古い社は塗られた色がすっかり禿げてしまってはいるが、造りがしっかりしているせいか雨漏りひとつせず、待っているには丁度いい場所ではあるが、規則正しい雨音はそれだけで気持ちを寂しくさせる。
りんは膝を抱えて隅っこに座り込んだ。

家族がみんな死んで殺生丸に助けられるまで、りんは橋の下のあばら屋で1人で暮らしていた。それで当たり前だと思っていたから、雨も風も平気だったし、寒くたって寂しいと感じたことはなかったのにと、りんは自分が随分甘えん坊になってしまったような気がして、ますます不安な気分になってくる。
膝に顔を埋めて「寂しくない、寂しくない」と何度も自分に言い聞かせた。

待っていれば必ず帰ってくるから。
殺生丸様も邪見様も竜も、必ず帰ってくるから。

降り続ける雨の音。水たまりが水滴を弾く音。
聞こえるのがそれだけなのは寂しい。ほんのかすかな気配でもいいから、自分以外の生き物の存在を感じたい。
そう願うりんの気持ちが通じたように、ぱたんと扉が開いた。

「りん……ですか?」

そう言って中を覗き込む男が誰だかわかって、りんはぱっと顔を上げた。
「法師様だー、どうしてここにいるの判ったの?」
雨を避けて弥勒が中にはいると、駆け寄ってきたりんが嬉しそうに笑う。
「カンと言えば、カンですけどね。実はこの辺から双頭の竜が飛び立つのを見たという里の者に、確かめてきてくれと頼まれたのですよ」
弥勒も勘が当たってご満悦なのか、懐から出した干杏を気前よくりんに上げた。
「殺生丸様達はね、どこかにお出かけしてるの。雨が降ってるからって、りんはお留守番なんだって」
もごもごと甘い干杏をしゃぶりながら、りんはそう訴えた。なんとなく恨めしそうな口調になるのは、子供だから仕方がない、と弥勒は微笑ましく頷いてやる。
「そうですか、ずっと言いつけを守っていたりんは偉かったですね。殺殿達が戻るまで私がいますから、時間つぶしにあやとりでもしますか?」
そう言いながら、弥勒は手っ甲の内側に巻き込んでいた紐を取り出した。

数色の絹糸を編んで作ったらしいそれは、花びらを編み込んだように鮮やかで綺麗な色合いだった。りんはそれを見てぱっと顔を輝かせた。
「うわ、綺麗な色」
「女の子はやっぱり好きですね、こういうのが。さて、りんからやりますか?」
紐を渡されたりんは、戸惑ったような顔をした。
「おや、どうしました?」
「分かんない、これ、どうやるの?」
「りんはあやとりは初めてでしたか」
「ううん、おっ母に前ちょっとだけ教わったんだけど…忘れちゃった…」
紐を握りしめたまま項垂れるりんに、弥勒は優しく笑いかけた。
「おやおや、それは仕方ないですね。邪見のあの指ではあやとりして遊ぶのは無理でしょうし」
そう言って弥勒は手早く紐に指を通し、ぱっと花のような形を作ってみせる。「わあ」と歓声を上げるりんに気をよくしたのか、次々と違う形を組み上げ、そしてりんに受け取り方を丁寧に教えてやる。
真剣な顔で紐に小さな指を通し、りんは一本の紐が作る繊細な形に夢中になった。

「弥勒様、すごいね。こういうの、誰に教わったの?先生いるの?」
無邪気なりんの質問に、弥勒は一瞬だけ苦笑気味になり、それから懐かしげな目を紐に向けた。
「昔、立ち寄ったお屋敷に体の弱いお姫様が居ましてね。その方から教わったんです」
「お姫様?」
りんの目が興味しんしんに光る。身を乗り出したりんは熱心な口調で訊いた。
「弥勒様、本当のお姫様にあった事あるの?綺麗だった?優しかった?」
「……綺麗と言えば綺麗でしたが、りんとあまり変わらない年頃の子供でしたからね…」
口説こうにも口説けなかった、と言外に匂わした弥勒の返事には気付かず、りんはぷっと頬を膨らませた。
「りんと同じ年頃だと、綺麗じゃないの?」
「ああ、そう言う訳ではないんですよ。赤ん坊で年寄りでも、綺麗な人は綺麗です、はい」
言い訳をしておいてから、弥勒は息を付いた。
「そのお姫様のことを聞きたいですか?」
「うん」
りんは目を輝かせて頷く。好奇心旺盛な子供に微笑みながら、弥勒は記憶を確かめるようにゆっくりと話しだした。

「数年前の話です。旅の途中、宿を頼んだお屋敷の姫君でした。体が弱くて寝たきりが多くて退屈しているというので、泊める代わりに旅先で出会った珍しい話などいろいろして欲しいと、その家のお館様に頼まれました」
「うんうん」
りんが先を促すように首を振る。
「年頃よりも小さくて痩せた姫君でしたが、透けるように白い肌と見事な黒髪の対比が実に美しい、愛らしい姫君でした。その姫君があやとりの名手だったのですよ。1人で家の中にばかりいるから、自然に色々と覚えてしまったらしいのです。二人であやとり遊びをしながら、私が旅の話をするのが、その屋敷に留まっている間の日課になっていました」
「仲良しさんだったんだ」
からかうようにりんが言うと、苦笑しながらも弥勒は素直に頷いた。
「そうですね、私を兄のように慕ってくれていまして。本当に愛らしくて素直な姫君でした。10日ほど滞在して、旅立つときにその紐をくれたのです」
そう言ってから、弥勒はぽつりとつけたした。
「半年ほど後にもう一度立ち寄る機会があったのですが、姫君は亡くなられた後でした。……形見になってしまいましたね」
笑っていたりんの顔が痛ましげになる。それを見て弥勒は失言したかと顔を顰めた。

「余計な事まで言ってしまいましたね。りんが気にするような事ではありませんよ」
慰めるように頭を撫でてやると、りんは首を傾げて弥勒を見上げ、そして躊躇いがちに問う。
「弥勒様、そのお姫様のこと好きだったの…?」
ずっと紐を持ち歩いているし、教わったあやとりもずっと覚えている。どうでも良い、ただの通りすがりに出会っただけの人ではないと思ったのだ。
弥勒は目を細めると、少し寂しげな笑い方をした。
「……どうでしょうね…優しい、良い姫君でしたから。ずっと側にいて、笑わせてあげられたらいい、などと考えたりもしましたけど」
旅を止めたら後は自分の死を待つだけなのが判っていた以上それは出来ない事だと承知してはいても、ひどく旅立ちがたい気分になったことを覚えている。泣きながら、それでも手を振って旅の無事を願ってくれた少女の笑顔が、鮮やかに思い出された。
紐に目を落としたまま考えに沈んでしまった弥勒を、りんは心配げに見やる。が、ふと気が付いて顔を上げたりんは、嬉しそうに笑った。
「あ、殺生丸様、お帰りなさい!」
「え?」
弥勒も弾かれたように顔を上げる。背後には殺生丸が立っていたのだ。

いつものように自分を黙って見るだけの殺生丸に、弥勒は不意に焦りだした。
(ひょっとして、今の話を聞かれたんじゃねーか?)
りんに「お姫様を好きだったの?」と聞かれて、否定しなかった所を聞かれていたら、どう思うだろう?惚れっぽい調子のいい奴だと思われないだろうか。そう考えて改めて見上げると、立ったまま自分を見下ろす殺生丸の視線がどこか余所余所しい。
弥勒は急いで誤魔化すように言った。
「今りんにあやとりを教えてまして。それから、ちょっと思い出話など。いえ、本当にもう昔の話で……」
「……そうか」
たいして興味も無さそうに殺生丸は答える。
そのあっさりと流す加減に、弥勒はますます焦った。
(…やっぱり怒ってねーか?いや、普段からこんなもんだ。昔話にどうこう口を挟む質じゃねえし。いや、やっぱり普段よりもちょっと冷たくないだろうか。別に形見をずっと身につけてたからって、それでどうという問題では…いや、でも)
いつの間にか弥勒は立ち上がり、無表情の殺生丸の気を取り結ぼうとでもいうのか、身振り手振りも大げさに日常話とか犬夜叉の失敗談などを山のように尾ひれを付けてしゃべり出した。
殺生丸は僅かに眉を潜める。

(こやつは、なぜこんなにも夢中で話し続けているのだろう?)

弥勒は焦っていたが、実のところ殺生丸は何の話も聞いていなかった。弥勒が紐を持っているのは見ても、それがどこで手に入れたのかなども当然知らないし、りんの「お姫様が好きだったの?」という問いかけも聞いてはいない。だから、なぜ弥勒が必死になってあれこれ話題を散らすように話をしているのかさっぱり判らなかったし、その話の内容自体も殆ど聞いてはいなかった。ただ、焦る弥勒の表情が普段の落ち着いているときよりも面白かったので、止めもせずに黙って向かい合っていたのだった。
それも知らずに弥勒は、それこそ言わなくても良い事、――手相を見てやったついでに女の尻を触って殴られたなどという事まで話してしまっていたが、それでもやっぱり聞き流している殺生丸の前では何の問題にもならなかった。


どうでも良いことを喋り続ける男と、止めさせもせずに黙って喋らせておく殺生丸に、邪見は不思議そうに首を捻る。
「五月蠅い男じゃ。殺生丸様はなぜ黙らせないのだろうか」
「えーっとね、きっと弥勒様が喋ってるのを見てるのが好きなんだよ」
りんの言葉に邪見は心の底から呆れたため息を付く。
「そんな筈があるまい。まったく、考えの浅い小娘じゃ」
「そうかなぁ、違うかなぁ」
「違うに決まっておる。きっと殺生丸様はあやつを叩き出す瞬間を探っておられるのじゃ!」
鼻息荒くそう言いきる邪見に、りんは少し首を傾げた。
「そうかなぁ…りんには、殺生丸様が面白がってるように見えるんだけど」
「そんな訳があるかぁ」
「でも、どうでもいいや。弥勒様、元気になったし。また、あやとり教えてもらおうっと」
りんはくすりと笑った。
外ではまだ雨が降り続き、水たまりが水滴を弾く音もする。
でも、もうそれは寂しそうに聞こえたりはしなかった。




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