◆ 花散る里 ◆


 

あれはもうだいぶ昔のこと。
空を行く殺生丸に声をかけてきた者。
そこはめったに人の訪れることのない深山の中腹、深い森の奥。
その者は白い手で殺生丸を招いた。

どうぞ一時ここでお過ごし下さいませ――と。


「えー、それって女の人?」
今を盛りと咲き乱れる桜の木の下で、りんはすこし拗ねた顔で声を上げた。
対する邪見は優越感丸出しの顔でにやっと笑う。
「そうじゃ、それも絶世の美女じゃ。その美女がのう…こう白い手をあげて、殺生丸様を呼ぶのじゃ。『酒(ささ)など一献差し上げましょうぞ』と色っぽく…」
「ほう、面白い話をしておりますなあ」
棘のある声が背後から聞こえ、邪見は飛び上がった。
そこにいたのは弥勒法師。りん同様、いや、りん以上に不機嫌な不満顔で、口元にだけ引きつった笑みを浮かべ邪見を見下ろしている。
こそそっと逃げ出しそうな小妖を鷲掴みにすると、凄みのある顔で迫る。
「もうちっと詳しく話を聞かせてもらおうかい。色っぽい女がどうしたって?」
「殺生丸様がね、その人のとこに会いに行ったって言うんだよ」
りんは弥勒に言いつけ口調で言う。震えて縮こまる邪見に、弥勒はさらに凶悪な笑顔を向けた。
「ほー、殺殿はその色っぽい女の所へ行きましたか。お前もりんもおいて1人で会いに行きましたか。つーか、てめえ、従僕なら止めやがれ」
「なんで止めなきゃならんのじゃー!」
「俺が腹立つからに決まってんだろーが!気がきかねえやつだな」
「なんで貴様に気を利かせなきゃならんのじゃ!嫌なら自分で言うがよかろう」
「んな事した俺が心の狭い男みたいじゃないか」
「実際そうではないか!」
「やかましい、気を利かせやがれ!」
「りんも嫌だー!知らない女の人の所へ行っちゃう何てー!」
りんと弥勒に両側からぎゃんぎゃんと喚かれ、邪見を耳をふさぐと怒鳴った。
「たわけ共が!殺生丸様が会いに行かれたのは、桜じゃ!年古た桜の精じゃ!」


◆◆◆



『ようこそ、お出でくださいました』
初めてあったときと変わらずその女――桜の精霊は美しかった。
真珠の光沢の単に緋の袴。紅薄様の褂(うちき)の背に流れるのは濡れ濡れとした黒髪。眉を引き鉄漿(かね)をつけた面の怪しさ。
桜の精は殺生丸に嫣然と微笑みながら、なよやかに口元を扇で隠す。

『少しお変わりになりましたか?』
「いや」
表情を変えない殺生丸の顔をしげしげと眺め、桜の精はまた微笑む。
『今宵来てくださってようございました。……明日はもうありますまいから』
「咲き終わりか」
『はい…いずれは…と思ってはおりましたが…』
桜の精は己の本体たる木を見上げた。
それはこの山で一番の古木。
屋根のように大きく張った枝には、銀色に底光りして見える花が見事に咲き乱れている。僅かな風に乗った花びらは辺り一面を不可思議な色合いに染める。
それを見つめながら、桜精は静かに言った。
『もう限界…寿命でございます』


◆◆◆



「花見ならここですればいいじゃないですか」
持参の竹筒の酒を飲みながら、弥勒は邪見に絡む。
「馬鹿者!こんな若木など殺生丸様が愛でるには品格が足らぬ!今殺生丸様が行かれた桜は、それこそわざわざと足を運ぶだけの価値がある。それほどの名木じゃ」
「えー、それならりんも見たい!なんで置いてくのかな」
弥勒の土産のぼた餅をやけくそ気味に頬張りながら、りんはふくれっ面で言った。
「たわけ者が。お前なんぞが目にするには百年早いわ」
邪見は弥勒からひったくった竹筒をあおった。小さい体なので酒の周りが早い。
焼けた石なみに真っ赤になりながら、邪見はしみじみと思い返しながら言う。
「ああ…わしも目に焼き付いてはなれんわい。桜の精に誘われて行った先の花の見事さよ。大きさといい枝振りといい、10年20年ではとてもああはならん。それになによりあの花びらの色の美しさ。まるで殺生丸様の御髪のごとく月の光を浴びて銀色に輝いていた。長く生きているが、未だにあれほどの美しい花は見たこと無いわい」
うっとりと言う邪見に弥勒はますます不機嫌になった。
「で、桜の精は美女なのですね」
「むろんじゃ、絶世の美女じゃ。むろん殺生丸様には劣るが…お二人が並ぶ姿はまさしく優雅優美幽玄の極み。寿命が百年は延びようかというほどの目出度きお姿であった…」
そう言ってから弥勒とりんを眺め、邪見は長いため息を付く。
「……ああ、それなのに…なぜに今年わしはこんな人間の小娘と生臭坊主なんぞ眺めてなければならぬのじゃ。せっかく伸びた寿命も縮んでしまいそうじゃ」
「安心しなさい!確実に縮めて差し上げます!」
「ます!」
気持ちよく好き勝手なことを抜かしていた邪見に、弥勒とりんはやるかたない憤懣をぶつけるように躍りかかった。
「うっひゃあああ、何をするのじゃ!」
裏返った邪見の悲鳴が桜の森に響き渡った。


◆◆◆



「もう気は済んだのか」
寿命です――と静かに告げた桜精に、殺生丸は問う。桜精は僅かに目を細める。
『なんと仰いました?』
「美しさを尊ぶ花の精が老醜を曝してまで無理に長らえていたのだ。それなりの理由があったのであろう」
『……やはりお変わりになられましたような…昨年までの貴方様であれば、わたくしの本性の事情など気にも留められませんでしたでしょうに』
桜精は舞い散る己の花びらを見上げながら、寂しげに微笑んだ。
『やはりこれも時の定め…石よりも変わらぬとお見受けした貴方様でさえ変わられるだけの時間が流れたのです。認めずばなりますまい――わたくしが今までおりましたのは、遙か昔に約束を交わした人間の若者を待つため…。もはや生きている筈もない男を待つためだけでした』
桜精は里の方に目を向ける。共にその方向に目をやる殺生丸に気が付き、桜精は白い指をまっすぐ西へと向けた。
『その若者は西より参りました。都よりこの里へ参った受領の供侍でございます。里人でさえたどり着いたことのない我が元へ、その侍は幾日もかけて参りました。里人よりわたくしの事を聞き、どうしても一目見たかったと…たどり着けたら死んでも良かったと、わたくしを見上げながらその若者は言いました』
両手を胸元に当て、桜精は遙か昔のその瞬間を思い出して目を瞑る。
『美しいと――そうその若者は言ったのです。都で見たいくつもの花よりも宝よりも何よりも美しいと――そう言ってその若者は毎年花の時期となるとわたくしの元へ通って参りました』
思い出に心を奪われたのか、桜精は殺生丸の事を忘れたようにはらはらと涙をこぼす。胸元に当てられた白い両手が震えていた。
『ある秋の日……その若者は花のないわたくしの元を訪れました。そして都へ戻らねばならぬと、そう告げました。主と共に都へ戻り、そして戦に出ねばならぬと』

春になると訪れ、人に話すように桜の木に親しげに話しかけてきた若者。いつしか桜精にとってもそれは何より待ち遠しい一時になっていた。一年のうちのたった一夜、桜の花に魅入られた若者の称賛の目が、言葉が、桜精の心を捉える。その若者は最後の別れの日、何度も繰り返し言ったのだ。必ず戻ってくる、もう一度この花を見るために必ず戻ってくるから、その時まで美しい花を咲かせ続けていてくれと。

『美しい花をと――必ず戻ってくるからとそう言った若者がその後どうなったのか、つまびらかになる事はありませんでした。それ以来、誰かがわたくしの花を愛でることも、美しいとそう口にすることもございませんでした。あの日、あなた様が我が樹上を行き過ぎようとなさった時まで…』
桜精はようやく殺生丸の方を向いた。
『もう誰を待ちこがれているかも忘れてしまいそうな程に長い時間をただ1人で過ごしてきたわたくしにとって、あなた様が訪なってくださる事はとても嬉しいことでした。そしてよりはっきりとわたくしに知らしめました。わたくしが何のために寿命を過ぎても時を止めて生きながらえてきたのか――あの若者を待つためだったと』


◆◆◆



「そもそもそなた等はわしを邪険にしすぎなのじゃ。大体にして殺生丸様からして、わしをどうでもいいように扱いなさる。こんなにも誠心誠意お仕えしているわしなのに」
「はいはい、判ったからもう愚痴は止めなさい」
「五月蠅い、わしはまだまだ言いたいことがあるのじゃ!」
完全に酔っぱらった邪見は竹筒をあおり、そして不機嫌に放った。
「もう空じゃ!」
「殆どお前1人で飲んだじゃないですか。まったくもう」
「ほんろにもう〜」
ろれつの回らない声が邪見がいるのとは逆方向から聞こえる。弥勒が驚いてみると、りんが小振りの壷を口に当て、中身をごくごくと飲んでいる。
「りん、何を飲んでるんですかー!」
弥勒は顔色を変えてそれをひったくった。りんが飲んでいたのは、弥勒が殺生丸と飲み交わそうかと隠し持っていた極上の酒。口当たりは酔いが、かなり強い。
「あのれ〜〜喉が渇いたの〜それでね〜〜」
「飲んじゃったんですか、りん。これは酒ですよ」
真っ赤な顔でふらふらしているりんに弥勒は慌てて水を飲ませる。その隙に酒の匂いをかぎつけた邪見が壷に口を付けた。
「ぷは、これはまた良い酒じゃ」
「あ、邪見!てめえ、どさくさ紛れに何を飲んでる!」
「弥勒様〜〜なんだかふらふらするの〜〜〜」
「りん、動かないで水を飲んで休んでなさい」
弥勒がりんの介抱をしている間に、邪見はまた酒を飲んでは機嫌良く息を吐く。
「はーこれはさっきのとは比べ物にならん程によい酒じゃ〜〜〜」
「当たり前ですよ、高かったんですから」
弥勒がようやく酒壷を取り返したときは、中身が半分以上減っている。
「てめえ、飲み過ぎだっての!」
いい気分で酔っぱらっている邪見は、弥勒の泣き言混じりの怒鳴り声にも知らん顔をしている。
「はあ、いい気分じゃ〜〜〜」
「何がいい気分だ、まったく…殺殿としっとりと花見酒としゃれ込むつもりだったのに」
がっかりと意気消沈している弥勒を見て、邪見は気分よさげにけらけらと笑っていた。


◆◆◆



一面に雨のように降る花。
桜精は今は晴れ晴れとした表情で花霞に煙る空を見る。
『わたくしはあの若者を待っておりました。一年、二年、そして十年二十年と年月が流れる中、あの者が迷うことなくわたくしの元へたどり着けるようにと枝を伸ばし、花を咲かせ、この山のどこより見ても判るように大きく大きくと、そう願い続けてどれだけの年を生きてきたのか。人の寿命などとうに尽きているほどの時が流れたと承知しながらも、ずっと待ち続けておりましたが、もう認めなければなりますまいのう…あの若者がわたくしの元へ戻ることは、けしてないのだと』
「故に寿命を認めるのか」
静かな声に桜精は少しばかり驚いたようだ。
そして微笑む。
『はい、あなた様が変わるほどの時が流れたのです。誤魔化しようの無い時が』
だまって自分を見つめる金の瞳を眩しげに見返し、桜精は柔らかに言う。
『貴方様は何かを探して長い旅をしておられると、そう仰っていた。…捜し物をお見つけになられたのですね』
答えない殺生丸に、桜精は懐かしげな顔になった。
『満ち足りたお顔をしておられます。あの日、あの若者が初めてわたくしの前に現れた時と同じような、とても満足そうなお顔』
殺生丸がその言葉を否定するように眉を顰めるのを見て、桜精は初めて小さく声を上げて笑った。
『その様なお顔をされるなど初めて知りました。わたくしが知っている貴方様は、わたくしの声など耳に入っているかどうかも判らぬ程に、冷たく無表情でございましたから』
ひとしきり童女のようにくつくつと笑ったあと、桜精はきちんと裾を整えて座り両手をついた。
『おさらばにございます』
「来年はもう咲かぬのだな」
『はい、咲きませぬ』
桜精はもう残す思いもないのか、はっきりと答えた。その様子に、殺生丸の静かな面には逆に僅かに痛ましげな表情が浮かぶ。
「……残念な事だ」
その言葉に桜精は瞬間的に顔を上げた。そしてそれが殺生丸の本心からの言葉だと気が付いたのか、微笑む顔に一筋だけ涙がこぼれる。
『惜しまれて散るは華の誉れにございます』
桜精は深々と頭を下げる。
『醜き屍はどうぞご覧になりませぬように』
突風に桜の花びらが舞い、視界が完全に桜色に染まる中、薄氷が弾け飛ぶような音が響く。
風が止み、激しく舞っていた花びらが穏やかに舞い降り始める中、完全に空洞化していた幹は咲き誇る自らの花に押しつぶされるように砕け散っており、そうして千年を生きた桜の木はその寿命を終えた。


◆◆◆



夜の闇の中を舞う花びら。昼に見るよりも白く目に映る。
弥勒は酒壷の最後の一滴を舐め取り、残念そうにため息を付いた。
「あーあ、結局全部飲まれちまった。ちっこい身体のどこに入ったんだか」
弥勒はさんざんに酒を飲み、日頃の鬱憤を好きなだけ喚き散らしたあげくに全身を真っ赤にして高いびきをかいている小妖を眺め、さらにその隣でやはり赤い顔でくうくうと寝ている少女を眺めて、またため息を付く。
「はあ…邪見はともかく、りんまで酔い潰したなんて知ったら、殺殿怒るだろうな…」
情けない顔で額を押さえる弥勒は、残念ながら酔っぱらうほど酒にありつけなかった。いっそ自分も前後不覚に酔っぱらって寝こけていられれば…などと現実逃避気味のことを考えてみる。が、すぐに思い直してぶつぶつと愚痴る。
「それもこれも、殺殿がいないから。せっかくの花の時期だというのに、1人だけで抜け駆けして名木観賞などに行かれるから、残された者が不満をこぼして酔っぱらいたくなるのです」
言い終わってから背後の気配に気が付いた。ぱっと上半身をねじ向けてみると、思った通りそこに立つのは待ちかねていた筈の大妖。繰り言を聞かれたかと誤魔化し笑いを浮かべた弥勒は、殺生丸が冷たい目で寝こけているりんと邪見を見ていることに気が付いた。
「……酒を飲ませたのか」
抑揚のない言葉に弥勒は冷や汗を感じ、言い訳するのももどかしく頭を下げた。
「申し訳ありません」
殊勝に謝る弥勒を殺生丸は曖昧な顔をする。そのままふいと背を向けた。
「殺殿、怒ってますか?」
おそるおそる機嫌を窺うように弥勒はその隣に立った。
殺生丸は桜を見上げている。まだ若く幹も細い桜の木々はせいいっぱいに枝を伸ばし、瑞々しい花を一杯に咲かせていた。

「この桜は来年も咲くな」
独り言のように言う殺生丸に、弥勒は相好を崩した。
「来年にはもっと大きく枝を伸ばし、見事な花を咲かせましょう。その時はぜひご一緒に花見などいたしましょう」
ニコニコという弥勒に殺生丸は僅かな苛立ちを覚えた。
「人間の身で一年先の約定をするなど、随分と思い上がったことを」
低く吐き捨てるような言葉に、弥勒は一瞬目を見張った。それから苦笑いをして頭を掻く。
「それはまあ、確かに。来年の桜の頃、ゆっくりと華を愛でていられるかどうかなど今の時点では判りませんからなぁ」
喧嘩腰にも聞こえる言葉に怒るでもなく笑う男の顔を、殺生丸は見返す。
「ですから、約束いたします。もしもこの身が、来年の桜の咲く頃、殺殿の元を訪ねることが叶わぬようになっていたとしましたら、その時は――魂だけになっても必ずお訪ねいたしましょう。迷うことなく必ず、殺殿の元へ参りますゆえ」

「迷うことなく、必ず」
その言葉に殺生丸は唇を歪める。

「魂だけになっても、迷うことなく?」
「はい」
にっこりと答えてから、弥勒は殺生丸が疑っているのかと重ねて言う。
「冗談ごとではございません。必ず、参ります。例えこの身がどうなっていたとしても、です。約束を果たすために必ず参ります」
「迷わずに来る――か」
殺生丸は桜を見上げながらぼんやりと言った。
夜空に映える白い花は、名残の雪のようにゆっくりと花びらを地に注ぐ。
花散る里に立つ銀髪の妖の姿を、弥勒は夢のように美しいと思う。

「迷わずに、――私の元へ来るか」

不思議な感慨に囚われ、殺生丸はただ花を見つめる。
傍らには黙って添う男の匂い。

桜の花びらは一面を白く染めながら、いつまでも舞い続けていた。




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