◆ 雛送り ◆


 
美しい笛の音が聞こえてくる。
森の奥から聞こえてくる綺麗な音は、どう聞いても何かの調べを奏でる楽器の音。
(うわ、綺麗な音だな…)
祭囃子くらいしか聴いたことの無いりんは、その流れるような曲調に惹き付けられ、何も考えずに音のする方へと走り出した。

「りん、こら、お前どこへ行くのじゃ!」
両手に採ったばかりの木の実を抱えた邪見が怒鳴るが、りんの耳には笛の音しかきこえていない。音のする方へと走っていくと、不意に眼前が桃色に染まった。
文字通り、桃源郷のように一面に咲く桃の花。
甘い香りを胸一杯に吸い込んでいるうちにりんは笛の音が途絶えたことに気が付いた。
「あれ?聞こえない…」
耳を澄ましながらきょろきょろと桃の木の合間を歩いていく。
すると突然、詰問する少女の固い声がした。

「あなた、誰?どうしてわたくしの庭にいるの?」
桃の木の合間から現れたのは、りんと同じくらいの年頃の少女。
綺麗に切りそろえた髪は両耳の横の部分だけを綺麗な紐で結び、後ろは腰を過ぎるほどに長い。着ている物は紅色の地に桃や梅の花を染め抜いた絹物。帯には銀糸の刺繍まである。
どう見てもかなり高貴な身分の少女で、りんはポカンと口を開けてそのなりを眺めた。
少女の方はりんを見ると、幼い高慢さで見下げるように言う。
「お前、汚い恰好をしているわね」
ぼうっと見とれていたりんはその言葉に我に返ると、むっとして言い返した。
「汚くなんか無いもん、殺生丸様がくれたんだから!」
りんの着物は確かに少女の物ほど豪華ではないが、それまでりんが着ていた物と比べたらお姫様になったかと思えるくらいの上物だ。
旅の間に埃で汚れたりはするが、だからといってバカにされる謂われはないと思う。

「殺生丸様?」
少女は眉根を顰め、手にしていた笛を胸元に持ち上げた。
「あ、その笛!」
りんの声に少女は眉を潜めたままで不審げに言う。
「笛がどうかしたの?これはわたくしの物よ」
「うん、さっきまで聞こえていたの、その笛の音だよね。すごく綺麗だったから、誰が吹いているのかと思って来たの!」
あっさりと称賛の顔つきになったりんに、少女は気をよくしたのか初めてにっこりと笑った。
「わたくしの笛の音を聞いてきてくれたの。だったら早くそう言ってくれれば良かったのに」
少女は親しげに言うと、驚いているりんの側に来てその手を取った。
「嬉しいわ。わたくしの笛の音、聞いてくれる人が居なくてつまらなかったの。よかったらわたくしのお屋敷にきてちょうだい。丁度、雛のお祝いをしていたのよ」
「雛のお祝い?」
「そうよ、お祝い。知らない?」
「知らない」
りんは戸惑った顔つきで首を振った。少女はなおにっこりとする。
「だったら見せてあげるわ。わたくしのお人形。父上様が最高の職人に作らせた物なの。とても綺麗なのよ」

綺麗なお人形。
りんはそんな物は見たことがなかった。
目をキラキラさせて何度も頷くりんに、少女は自慢そうに微笑む。
「とても綺麗なの、きっとびっくりするから」


桃の木の間を少女に手を引かれて歩いているうちに、りんは夢見心地になっていた。
少女の手は柔らかくて傷一つなく真っ白。辺り一体は甘い香りに包まれ、桃色の霧に覆われたような心地がする。ぼうっとしながら招かれたのは、豪奢な館。
顔が映りそうな程磨き込まれた廊下に、りんは上がるのを躊躇った程だ。
「いいのよ、上がってちょうだい」
少女は鷹揚に言って草履を脱いだ。それからりんの素足を見て少し困った顔をした。
「本当なら足を洗う湯を持たせるところだけど、今は端女(はしため)が留守にしているの。そのまま上がってよくてよ」

そう言ってすたすたと廊下の奥へと歩いていく少女の後を、りんは慌てて追いかける。
長い廊下に綺麗に整えられた中庭。真新しい畳に香でも焚いているのか屋敷中に立ちこめる甘い香り。
りんはどこに迷い込んだのかと目をきょろきょろさせる。
「こっちよ、そんなにきょろきょろしてお行儀が悪いわねぇ」
(行儀なんて知らないもん、邪見様より細かいなぁ)
りんは少女の言い方に口を尖らせながらも、少女の後を追って座敷にはいる。
「わあ…」
りんは室内を見てポカンと口を開けた。
綺麗な絵が描かれた襖が何枚も連なる広い座敷に、色とりどりの組み紐を何本も飾りつけた几帳が置かれ、その傍らにある格子をかぶせた香炉からは香の煙が立ち上る。
部屋に入ってすぐの場所には漆塗りの大きな唐櫃と、衣桁にかけられた地紋のはいった白い豪華な打ち掛け。その真ん中に、雛人形は毛氈を強いた台の上にきちんと置かれていた。
人形は木彫りで表面は滑らかに磨かれ、緋色や金、銀もふんだんに使った絵の具で綺麗に彩色されている。
少女はその人形を手に取ると、にこっと笑った。

「どう?綺麗でしょ?頭の飾りは本物の玉を使っているのよ」
「うわあ、綺麗…」
りんは反感も忘れて少女の隣に行くと、ぼうっと人形に見入った。
「あれ?この人形、笛を持ってるの?」
「そうよ、よく気が付いたわね」
少女が自慢げに言う。木彫りの人形は扇の変わりに少女が持っているのと同じ笛を手にしていた。
「これはね、父上様がわたくしの似姿を作らせたの。わたくしのお嫁入り道具の一つなのよ」
ちらりと少女が掛けてある打ち掛けに目をやった。りんは目敏く察し、にこっと笑うと言った。
「あ、あれ着てお嫁さんに行くんだ!すごーい」
「そうよ、人形も本当ならお内裏様や官女達も並ぶはずだったんだけど、まだ出来てこないの。でも良いわ、これが最初に届いたから」
少女は自分に似た雛人形がよほど自慢なのか、しっかりと抱きしめたまま言った。
「ねえ、お前。さっき『殺生丸様に貰った』って言ったわよね。殺生丸様って誰?」

唐突な質問にりんはきょとんとする。
「殺生丸様は、殺生丸様だよ」
「違うわよ。お前の主なの?って聞いているの。お前は下々の生まれだから、許婚のお方なんかじゃないわよね。それとも、その『殺生丸様』も下賤なの?」
「違うよ!殺生丸様はすごく偉くて綺麗だもん!」
「じゃあ、主なのね。ご身分は?」
りんはぐっと言葉に詰まった。
「身分なんて、知らない…」
「まあ、お前は仕えている主の身分も知らないの?それとも、召使いに身分を語れないほど小さなお家の出なのかしら?」
人形を抱いた少女は、驕慢に笑った。人形と同じく紅を引いた唇が、りんをバカにするように窄められる。
「違うよ!殺生丸様はりんを連れて歩いてくれるけど、りんは殺生丸様の召使いじゃないもん。それに殺生丸様に身分なんて関係ないよ。殺生丸様は誰よりも綺麗で強いんだから!」
握り拳にぎゅっと力を入れ、りんは少女を睨み付けるとそう断言した。
少女が不愉快そうに眉を顰める。

「誰よりも綺麗ですって?それなら、わたくしよりも綺麗なの?」
「綺麗だよ!比べ物にならないもん!」
考える間もなく即答したりんを、少女は傷ついた顔で睨み付けた。
「嘘よ!父上様はわたくしが一番綺麗だと仰ってたわ!」
「綺麗だよ!でも、殺生丸様はもっと綺麗だもの」
りんは急にこの少女にも人形にも興味を失い、帰ろうと立ち上がった。
少女がりんの腕を掴む。振り返ると、少女は綺麗な幼い顔にねっとりとした笑みを浮かべてりんを見ている。
「ふうん、そんなに綺麗なの。だったら、ここに連れてきてわたくしに会わせてよ」
「会わせてどうするの」
りんはその笑顔が薄気味悪くなった。自分と同じくらいの年頃なのに、その笑い方は以前に村で見かけたことがある浮かれ女に似ている。
「決まっているでしょ?父上様にお願いして、わたくしの嫁入り支度の一つとしてお供に加えていただくの。身分がないのでしょ?出世させてあげる。当然、お前もその『殺生丸様』と一緒にわたくしに仕えるのよ」
りんは呆れかえった。殺生丸を「出世させてあげる」なんて、この少女はなんて物知らずなんだろう。いくらお姫様でも、こんなのイヤだな、とりんは思った。

「あたし、帰る」
しらけたりんはそれだけ言って少女から顔を背けた。少女はりんの腕を浮かんでいた手に力を込めて引き留めた。
「どうして喜ばないの?わたくしに仕えたら、もっと綺麗な着物を上げる。お前にだって人形を作ってあげるのに」
「いらない」
「どうしてよ!下賤の出のくせに!わたくしがせっかく親切に申し出てあげてるのに!どうして喜ばないのよ!」
癇癪を起こして喚きだした少女に、りんは憤然として言い返した。
「なんでそんな事ばっかり言うの!偉そうな事ばっかり言ってるのと、みんなに嫌われるんだから!」
「なんて無礼なことを言うの!誰もわたくしを嫌いになんかならない!わたくしは誰よりも綺麗で可愛いから、きっと誰よりも幸せになれるって、そう父上様が仰ったんだから!お前なんか、父上様にお願いしてお仕置きして貰うんだから!」
少女は顔をクシャクシャにして喚き散らす。
その様子にりんは怖くなった。ぱっと少女の手を振り解き、廊下に向かって駆け出す。だがその瞬間、辺り一面が火に包まれた。

煙に咳き込みながらりんが少女の方を向くと、そこには誰もいない。柱を伝って天井まで伸びた炎が、白い打ち掛けを端から燃やしている。
一瞬の間に何がおきたのか判らず、りんは忙しなく逃げられる場所を探した。
その目の端に、畳の上に転がっている人形が目に入った。炎に炙られ、染料がちりちりと縮んで剥がれていく。
りんは咄嗟に人形を抱き上げると、大きな声で叫んだ。
「ねえ、どこに行っちゃったの?ねえ!――名前、分かんないよ!お姫様、どこへ行ったの?」
乱暴な音を立てて襖が開く。その向こうから部屋に入ってきたのは、返り血を浴びて血刀をひっさげた侍。ぎょろりと血走った目で室内を見回し、人形を抱いて立ちすくむりんを睨んだ。
「ここにおられたか、姫君。終わりです」
りんは首を振った。
「あたし、お姫様じゃないよ」
侍はりんの言葉など聞きもせずに刀を両手で持ち直すと、頭上に高く構えた。
「お覚悟!」

ひゅっと刀が風を切って振り下ろされる音がする。
りんは思わず悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
だが刀は一向にりんの上に落ちてこない。りんはおそるおそる顔を上げる。
侍は刀を振り下ろしかけた恰好で止まっていた。
りんは目を丸くしたまま、ゆっくりと立ち上がる。侍は紙に描かれていた人のように背景ごと斜めに切り裂かれており、そこから二つに分かれてちりちりと丸まって端から黒く変色していく。
目の前の光景がどんどん縮まって消えていく向こう側に、剣を手にした銀の髪の妖が見えた。
「殺生丸様!」
りんはその袴に飛び付いた。


「こら!りん!また勝手な事をしおって!」
邪見の怒鳴り声に、りんはしっかりと掴まっていた袴から手を放して顔を上げた。
そこはさっきまで食べる物を探していた森の中。あの屋敷も炎もない。
「あれ?」
きょとんとしているりんを、邪見は口から泡をとばして叱りつける。
「まったく、勝手に離れるなと、あれほど言っておいたではないか!って、お前、何を持っているのじゃ?」
邪見がりんの手元を見る。りんの手には、すすで薄汚れ、半分焦げた人形が抱かれていた。
「あ、これ……」
りんは小さく呟くと、困惑した顔で辺りを見回した。

「ねえ、桃の花は?すごく咲いてたんだよ。それから、笛の音が聞こえてたよね」
「何を寝ぼけておるのじゃ。笛を吹く者など居らぬ。それに桃は里では咲いておる場所もあろうが、この山ではまだじゃ」
邪見が呆れた風に言うと、りんは眉を顰めて殺生丸と邪見の顔を見ながら人形を差し出す。
「だって、桃が咲いてたんだよ。それから大きなお屋敷があって、綺麗なお姫様みたいな子がこの人形を見せてくれたの。……もっと新しくて綺麗だったけど」
「はあ、これは結構な細工じゃな。元はよい物だったのかもしれんが、ここまで汚れてしまってはどうにもならん。おおかた、どこかの火事にでも遭った館から持ち出された物じゃろうが、売り物にならんとて捨てられたのじゃろう」
「捨てられちゃったのか」
りんは焼けこげた人形を見ながら呟く。
それまで黙ってこの様子を見ていた殺生丸が、不意に声を発した。
「この近くに沢がある。そこに人形を流すがいい」
「え?」
りんが驚いて見上げると、殺生丸は付け足すように言う。
「人形はひとがたゆえに、持ち主の災いや念を受け入れる呪具となる事もある。水に流して祓え」
「そうじゃ、何やら縁起が悪そうな人形じゃ。川に流してしまえ」
邪見も一緒になって言うので、りんは困った顔をしながらも渋々頷いた。

前を行く殺生丸の後をついて沢に下り、水際にしゃがみ込むと袖で汚れた人形の顔を拭いてやる。すすで黒くなった部分をふき取ると、染料の焦げた目の下が涙で滲んでいるように見えた。炎に包まれた屋敷、焦げてしまった花嫁の着物、そして振り下ろされた刀。あれは本当にあった事なんだ、とりんは思う。
水際の浅い場所に人形を入れると、人形はしばらくその浅瀬でたゆたっていたが、やがてゆっくりと本流に向かって流れていった。
流れに乗り、沈んだり浮いたりしながら流れていく人形を見つめながら、りんは呟く。
「あの子、お嫁さんになれなかったんだ」
「はあ?何を言っておるのじゃ?」
聞き返す邪見に答えず、りんはしゃがんだ膝の上に腕を組み、顔を半分埋めるようにしてしょんぼりと言う。
「綺麗で可愛くても、幸せになれなかったんだ。もっと優しくすれば良かった」
「だから、さっきから何を言うておるのじゃ」
苛立ち混ざりの邪見に答えず、りんは重苦しい顔のままで人形が流れていった先をずっと見つめていた。


山道を歩きながらも、りんはずっと暗い顔つきをしている。
最初は知らないふりだった邪見も徐々に気になってきたのか、無言の殺生丸を憚る素振りを見せながらりんの横に来た。
「なんじゃ、まだくよくよと考え込んでおるのか?」
「うーん、…そうじゃなくて」
りんは思い切った風に言う。
「人形、やっぱり綺麗だったなと思って」
「はあ?」
頓狂な声を出す邪見に構わず、りんは続けてしゃべり出した。

「りんも人形欲しいなあ、あんなに立派なのじゃなくても良いから」
「何を考えておるかと思えば、お前というヤツはまったく…」
邪見はつくづく呆れたといいたげに大きなため息を付く。りんは1人でぶつぶつ言いながら、やがて思いついたことにぱっと顔を明るくした。
「弥勒様にお願いしたら、人形、探してくれないかな!」
「何?あの法師じゃと?」
邪見がまた頓狂な声を出す。それに気がつき、殺生丸は足を止めると振り返った。
りんがその傍らに走り寄り、無邪気にはしゃぎながら袂を掴んで言う。
「ねえ、殺生丸様!弥勒様、また遊びに来ないかな。ねえ、近くにいるのかな」
「お前はそんな事なんで殺生丸様に聞くのじゃ!」
「ええ?だって弥勒様って殺生丸様と仲良しなんじゃないの?」
本気でそんな事を言うりんに殺生丸は僅かに困惑の表情を浮かべ、邪見はそれを見て目が飛び出るほどに驚いた。

「お、お、お前はーーーー!よりによってなぜそんな事を言うのじゃ!」
「え?違うの?」
「五月蠅い五月蠅い!人間の男のことなど、口にするな!あやつはこのわしをぼこぼこにしたのじゃぞ!」
「えー、だって…」
不満そうなりんに、邪見は勢い余って「人形なら、わしが探してきてやるわい!」と口走った。
言ってしまってからはっとなるがもう遅く、りんは目をキラキラさせて満面の笑顔になる。
「ほんと?ほんとに探してきてくれるの?」
「あー…あ、あれは言葉の綾というものでー…殺生丸様?」
邪見はりんに詰め寄られ、救いを求めるように主を見る。だが殺生丸は冷たく邪見を見下ろすと、一言だけ言った。
「自分で言い出したことであろう」
つれない言葉に邪見は青ざめ、りんは万歳して邪見に抱きつく。
「わーい、わーい、邪見様、ありがとう!あたし、待ってるからね!」
「待ってるからって…とほほ…」
喜ぶりんと、そのりんに振り回されながらため息を付く邪見に構わず、殺生丸は1人で先に歩き出した。


『殺生丸様と弥勒様は仲良しじゃないの?』
なんの含みもないはずのりんの言葉が、いつまでも耳に残る。
「……りんにはその様に見えているのか…」
殺生丸は、ため息混じりにそう呟く。
「仲良しなのか…この私と、たかが人間の法師ごときが…」
思いに沈む殺生丸の背後からは、りんが無邪気にはしゃぐ声だけがいつまでも聞こえていた。




 
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