◆ 帰り道 ◆


 
殺気立った大人達が町中を走り回っている。
「早く捕まえろ!」
「ああ、お侍様!あいつが逃げたら、わしは大損害です!早く捕まえてください!」
「半妖の小僧だ!化け物だぞ!」

どうやら、見せ物にされていた半妖の少年が逃げ出したらしい。
派手な袖無しを着た興行師らしい男が、腰に刀をつけた侍にペコペコと頭を下げている。
それから、やっぱり刀を持った荒くれ者っぽい風貌の男達。
見せ物小屋で働いてる人たちなのかな、とりんは思った。


りんは大きな町の市に来ていた。
例によって殺生丸は不在。りんは幾ばくかの小銭を邪見から貰い、人混みをブラブラと歩いていた。
どうやら祭りの日だったらしく、市には芸人達も集まり、そこ個々で賑やかな囃子が聞こえている。
りんは掘っ建て小屋が立ち並ぶ路地の端の方で重ねてあった筵に座り、買ってきたばかりの水飴を竹の匙で掬って舐めている。
「なんだか大変そう。早く帰ろうっと」
りんは1人ごちるとひょいと筵をめくり、その下に蹲ってた者に声を掛けた。
「みんな行っちゃったよ。逃げるなら速くした方がいいよ」
筵の下にいたのは、全身に毛を生やした生き物。爪がねじ曲がり、ボロボロの着物を着たみすぼらしい姿は、ぱっと見は人間に見えない。でもその瞳は黒く大きく、間違いなく人間の物。
りんは自分より少しだけ大きいくらいのその異形の生き物に竹筒に入った水飴を差しだした。
「舐める?」
追い回されている当人――半妖の少年はよほどお腹がすいていたのか、その甘い食べ物を一気に口の中に流しこんだ。

男達が躍起になって探し回っていたのは、この少年なのだと、りんは一目見てすぐに分かった。最初は大きな猿か何かだと思った。でも路地裏で怯えて震えている姿に、急いで筵をかぶせて隠してやると、少年は暴れることもなくその下に蹲った。りんが大人に知らせる気がないことが判ったのだろう。
大人達の気配が遠ざかったところで、少年は空になった筒をしつこく舐めながら、初めてりんの顔に目を向けた。
「おいしい?」
そういうりんの声には、少しばかり恨めしそうな響きがある。りん自身もそういつもいつも甘いものを口に出来るわけではない。空っぽになった竹筒を未練がましく見る目つきに、少年は慌てて空の入れ物をりんに押しつけた。
「ごめん。俺、こんなの食べたの初めてなんだ。それにすごく腹が空いてた」
「うん、そうだと思った」
りんは綺麗に舐めとられた筒の中身を見て、あっさりとそう言う。最初に渡したのは自分だ。あとで文句を言っても仕方がないと、さっさと気分を切り替えて少年の顔を見る。
「これからどうするの?」
少年は息を飲み込んだようだ。おどおどとした大きな目がいっそう不安げになる。何かを話しかけた少年の口を、いきなりりんは押さえた。
「し!戻ってきたみたい!」
大人達が引き返してくる物音に、りんはまた急いで筵を広げる。蹲った少年の上にかけると、りんはその上に腰を下ろして空になった筒を指で撫でつけ始めた。
例の派手な恰好の男が路地裏に一人居るりんを見て、居丈高に聞いた。
「おい、化け物を見なかったか?」
「化け物って?」
少年が筵の下でびくっと震えたのを感じながら、りんはことさら無邪気な風に訊きかけす。
「全身茶色の毛が生えている。長い爪がはえていて、お前みたいな小娘を引き裂いて喰うのが大好きなんだ」
「うわ、怖い。大きいの?」
少女が驚く様に男はますます調子に乗ると、両手を大きく広げて見せた。
「大きいとも。熊みたいだ。でも普段はお前みたいに小さい。化け物だから怒らせると化けるんだ」
「怖いね。そんな化け物、おじさん、よく捕まえられたね。でもどうしてそんな化け物を連れていたの?」
男はむっとして鼻の上に皺を寄せると、脅しつけるように言う。
「世の中にはそう言う化け物を見て喜ぶ旦那衆が大勢いらっしゃるんだ。お前みたいな小娘にはわからんだろうな。それで、お前は化け物を見てないんだな」
「うん、見てない」
「ちっ!」と舌打ちをして、男は行ってしまった。りんは筵を少しだけめくり、少年に「行っちゃったよ」と耳打ちをする。少年はコソコソと這い出してくると、「お前、わりと重たいな」と呟いた。

◆◆

「俺、おっ父とおっ母と三人で山で暮らしていたんだ」
追っ手から隠れながらなんとか町を抜け出した2人は、街道を避けて森の小道をこっそりと歩いていた。自分の異形の姿に怯えたそぶりもないりんの態度に安心したのか、少年はぽつりぽつりと自分の事を話し始めている。りんは黙って歩きながら、少年の顔をまじまじと眺めた。
「俺の顔、そんなに変か?」
「おっ父とおっ母とどっちに似たの?どっちとも似てるの?」
その質問に少年は子供らしくない苦笑いになった。「半妖」の意味を分かってないのだろうと思う。だからこんな事が言えるのだ。
「どっちとも似てない。でもおっ父とおっ母も違う顔をしてたから、みんな違っていいんだと思ってた。俺は、他の妖怪も人間も見たこと無かったし」
「ふーん」
妖怪、という言葉を聞いてもさほど驚いた様子のないりんに、少年は妙な気がする。見せ物になって人前に曝されるようになり、人間は「妖怪」に怖がるか、さもなければバカにして笑いものにするか、とにかく、少年は自分が人から蔑まれる存在なのだと思い知らされていた。まだ子供だから、知らないのだろうか?妖怪の存在を。
自分の事も、ただ少し変わった人間だと思ってるのだろうか。

「お前、俺が怖くないのか?」
「え?」
りんは少年の質問に首を傾げた。改めて顔をじろじろと見たあとで、考え込むように顔を顰める。
「あんた、あたしを食べようとする?」
「そんな事しない!」
「それじゃ、大きくなって踏みつぶすの?」
「そんな事しないって!俺は大きくもなれないし、人間も食べない」
「ふーん、じゃあ、りんと一緒だ。りんもあんたのこと食べないし、踏みつぶさない。あんたはりんのこと怖い?」
「怖くないよ。だってお前はちびっちゃい小娘じゃないか」
「ほらやっぱり。同じだね。そうだ、あたし、りんって言うんだよ。あんたは?」
あっさりという少女に、少年は拍子抜けした顔になった。
「ねえ、名前は?」
「名前…?」
聞いたことのない言葉を聞いたような顔つきになった少年に、りんは焦れて急かした。
「名前、教えてもいいでしょ」
「名前なんて、聞かれたこと無かった。びっくりした」
「え?」
驚いてりんは目を丸くした。少年は嫌そうな顔で、記憶をたぐるように話す。
「俺をあの男に渡したのは、多分、おっ母の『にいさん』とかってヤツだ。そいつは俺のこと化け物って呼んだし、あの男もそう呼んだし、見せ物するときは【半妖】って呼んでた」
「……おっ母のお兄さんがあんたを見せ物小屋に売ったの?」
初めて少女の顔が悲しそうになった。立ち止まったりんに、少年も足を止め、両親と別れたその日のことをゆっくりと思い出す。

「あの日、おっ父は狩りに行ってた。俺は小屋の周りで薪を拾ってたんだ。そうしたら、知らない臭いが一杯近付いてきて、俺は急いで帰った。そうしたら、おっ母がたくさんの連中に掴まってたんだ。助けようとしたんだけど、俺もすぐに掴まった」
「おっ父はどうしたの?」
少年の顔が泣きそうになった。
「おっ父はすぐに戻ってきた。俺とおっ母が掴まってるのを見て、助けようとしたんだ。そしたら、おっ父に向かってたくさんの矢が放たれた。何本も刺さって血まみれになったおっ父を見て、おっ母は暴れながら叫んだんだ。『殺される!逃げろ、逃げろ!』って。おっ父は山の奥に逃げた。おっ母は俺をぶら下げた男に向かって叫んだ。『にいさん、それはあたしの子だ、乱暴するな!』って。にいさんって呼ばれたヤツは、俺を見て化け物だって言った。その場で俺はあの見せ物小屋のヤツに渡されたんだ」
ついにボロボロと泣き出した少年に、りんは顔を覗き込みながら袂で顔を拭いてやる。
「でも、おっ父もおっ母も生きてるんでしょ」
「うん、でも…」
鼻をすすり上げて言いかけた刹那、少年の顔が緊張した。

「人の臭いだ。いっぱいいる、逃げなきゃ」
走りかけた道の先に、松明を掲げた数人の男達が現れる。待ち伏せされていたことに気がつき横道に逃げようとするが、そこにも伏せていた男達が現れ、少年は悔しさに顔を歪ませた。それでも気丈に顔を上げ、背後にりんを庇う。
武装した男達の間から、見せ物小屋の男が現れた。少年を見て可笑しそうに笑った。
「しつけの悪い化け物だ。帰ったら仕置きしてやる」
少年は歯を鳴らして獣じみた威嚇の声を上げた。黒い目が不気味に光る。一瞬男達が怯んだ隙に、少年はりんの手を引っ張って脇に逃れようとした。
「きゃ」
少年の勢いに引きずられ、りんの身体が草むらに転がる。一瞬引きかけた男達が一斉に襲いかかり、少年が暴れている間にあっさりとりんは掴まっていた。
1人になった少年に、男達は槍を突きつける。歯がみした少年は死にものぐるいで暴れ、押さえつけようとした男の足に噛みついた。ふらついた男が密集していた仲間達にぶつかり、松明が落ちる。灯りが小さくなった隙に少年は這うようにしてその場から逃れた。

少し離れた場所で見せ物小屋の男に抱えられた少女が見える。身体を低くして躍りかかろうとする少年に、男は背後の侍達に訴えた。
「なんという野蛮な化け物だ。少しぐらい傷つけても構いません。いや、いっそ皮を剥いで見せ物にした方が面倒がないくらいです」
言われた内容に少年はすくみ上がった。りんが叫ぶ。
「逃げて、殺される!逃げて!」
その声が血まみれの父に向かって叫んでいた母の物と重なった。
槍を持った男達は侍の後ろに下がり、侍は弓を構える。
全てがあの日の情景と重なった。弓を持ち、容赦なくたった1人に向けて矢を射る武士。逃げてと叫ぶ女の声。少年の頭の中がぐちゃぐちゃになった。

――何でこんな事になるんだ。俺が化け物だから?半妖だから?だから、傷つけられても当然だって、人間は思うんだ。俺が、化け物だから。

弓弦の音が高らかに鳴って矢が放たれる。地に落ちた松明の火が低く地を舐めるように照らし、蹲る小柄な少年の姿を浮き上がらせた。
「逃げて!」
りんの精一杯の叫びが辺りに響き渡った。
少年は矢が自分に向かって迫ってくるのを他人事のように見ていた。鏃が一瞬だけ鈍く光る。少年は目を瞑った。
次の瞬間、少年の鼻先を横からの衝撃が走り抜けた。まるで竜巻にぶつかったような勢いで少年は背後に転がる。転がったままで目を開けると、目の前に走る大地の亀裂。その向こう側に少年と男達の間に割ってはいるように立っている足が見えた。
ゆっくりと顔を上げ、少年は立っている人物の全身を見上げる
最初に目に入ったのは典雅な袴の裾と、ふわっとした毛の固まり。その上には長い銀髪。全身から感じる気配に、少年はこれが妖怪だと気が付いた。
ひくりと喉を鳴らし、少年は全身の毛が逆立つのを感じた。目の前に立つ妖怪から感じる妖気は、父とは桁違いに冷たく大きい。全身が冷え、ぶるぶると震えてくるのが判った。少年は逃げ出したいのを堪えてその場に留まると、前方を見据えた。
少女を抱えた男は突然目の前に現れた存在に青ざめ、侍の背後に隠れようとしている。侍達も緊張している。さっき少年に対峙していた時のようなふざけた気配は一掃され、新しい矢を番えようとする手つきが震えてもたついている。

長い銀髪の大妖は、そんな無様な人間の様子に気を止めるそぶりもなく、ゆっくりと手に持った剣を前にあげた。
そして、低い抑揚のない声が告げた。

「その小娘を置いて行け」

その一言がきっかけとなったのか、見せ物小屋の男は悲鳴を上げて少女を放り出した。
「あいた!」
地面に投げ出されたりんが恨めしそうな声を上げる。
「小、小娘は差し上げます。だから、わ、わしらはお助けを、お助け…」
男は少女を妖怪に差しだして自分の安全を図ろうというのだろうか。怯えて役に立たない田舎侍達を盾にするようにして、必死で声を振り絞った。大妖が足を一歩前に進める。
男達は悲鳴を上げ、我先にと逃げ去っていった。


◆◆

放り出されたりんがようやく立ち上がった。着物に付いた埃を払い、すりむいた掌につばを付けている。その少女に向かって大妖が歩いている事に気がつき、少年は跳ね上がった。
恐怖を忘れ、ゆっくりと歩を進める大妖の脇を駆け抜けると、少女の前に立ちふさがり、守るように両手を広げた。
「近付くな!りんをとって喰わせたりしないぞ!」
大妖が足を止めた。少年は初めて真っ正面からその顔を見上げることになった。
白い顔に金の瞳。ぞっとするほど整った、そして冷たい面差し。
表情もなく見下ろす瞳に毛が逆立つのを感じながらも、少年は気丈に相手を睨み付ける。ふと、少女が肩に手を掛けたのを感じた。

「殺生丸様はりんをとって喰ったりしないよ?」
きょとんとした口調に、少年は拍子抜けした風に少女を振り向いた。
「殺生丸様はりんを探しに来てくれたの。だから、大丈夫だよ」
そう言ってにこにこと笑う少女に、一気に身体から力が抜けたのか少年は惚けた顔でへたり込む。そしてようやく声を振り絞るようにして言った。
「お前、この妖怪を知ってるのか」
「うん、ずっと一緒に居るから」
何を当たり前のことを、と言わんばかりの少女に、少年は完全に緊張が解けて大の字にひっくり返る。りんは慌てて少年を上から覗き込んだ。
「急にどうしたの?どこかケガしたの?」
「ケガなんかしてない。お前があんまり、――あんまりバカみたいだから」
そう言うなり笑い出した少年に、りんは不服そうに頬を膨らました。
「りんがどうしてバカなの」
「バカだよ。人間のくせに。妖怪の顔を見てほっとしてるなんて。大丈夫だなんて言うなんて。本当にバカだよ」
笑いながらそう言い放つと、少年は身体を捩って顔を覆うと泣き出した。バカ呼ばわりされて腹を立てていたことも忘れ、りんはまた少年に心配げに言う。
「ねえ、本当にケガしてないの?」
「してないよ」
そう言いながら、少年は静かに泣き続けた。少女の小さい手が戸惑いがちに頭を撫でてくれる。


少年は両親のことを思いだしていた。人間と妖怪、姿は違っても優しくて仲が良くていつも幸せそうだった。あの頃、周りは優しい物でいっぱいだったのに、それは全部壊れて無くなったと思っていた。ここが人間の世界で、俺が化け物だから。生きていく場所なんてどこにもないと思っていた。優しい手の感触に、砕け散ったように見えていた世界がもう一度繋ぎ合わさっていくのを、少年は感じていた。

◆◆


「行くの?」
故郷の山に帰るという少年にりんはそう言った。少年はにこりと笑って頷く。
「おっ父はきっと逃げられたと思う。ケガが治ったら、きっとおっ母を迎えに行って、そして俺のことも探してると思う。だから、帰るよ」
「帰り道、判るの?」
半信半疑の顔でりんはなおも心配そうだ。途中でまた誰かに掴まったら、それにもしも2人とも死んでいたら――そう考えているのが手に取るように判り、少年は安心させるように力強く言う。
「判る。風の匂いを感じる。俺が住んでた山はあっちだって。おっ父とおっ母にあったら、もっともっと深い山の奥に行く。そうしてずっと一緒に暮らすんだ。おっ父とおっ母は俺を名前で呼んでくれるよ。『幸吉』って」
「ふうん、あんた、幸吉って言うんだ」
ようやく知った名前を、りんは口の中で確かめるように発音した。
「優しい感じの名前だね」
「うん」
誇らしげに少年は笑う。
「おっ父とおっ母が、一生懸命考えて付けてくれた名前だよ」
「さよなら、幸吉。気をつけて、元気でね」
「りんも――達者でな」
両親以外で初めて知った他人の名前。そして多分、最初で最後の、人間の友達の名前。くすぐったい思いでその名を呼んだ少年が、元気に笑いながら手を挙げて別れを告げる。
りんは何度も何度も手を振った。無事に少年が故郷に戻れるようにと願いを込めて、背伸びをして手を振り続けた。
少年の小さな身体が山の中に消えていく。完全にりんの視界から見えなくなる直前に、少年が手を挙げたのが判った。
「元気でね!」
それを見て叫んだ言葉が聞こえたのかどうかは判らない。でも幸吉の耳にはきっと聞こえたんだろうなと、りんは思った。


殺生丸が歩き出す気配がした。ずっと山の方を見ていたりんは急いで後を追う。並んで歩くために少し小走りになったりんは、殺生丸を見上げて礼を言った。
「殺生丸様。幸吉を助けてくれてありがとう」
「助けてなどおらぬ。あの小僧が私の後ろにいただけだ」
返事は素っ気なかった。りんの顔を見もしない。
りんはくすりと笑って殺生丸の袂を掴んだ。無言のままの殺生丸が、僅かに歩く速さを落としたような気がする。
りんは袂を握りしめ、その存在を確かめながらもう一度山の方を見た。その顔に大人びた表情が浮かぶ。
幸吉はきっと帰れるんだろうな、と確信めいた物を感じた。
大事な場所があるから、大事な人たちがいるから、帰る場所を知ってるから、きっと帰り着ける。そうりんは思う。
(だって、りんだって知ってるから、帰る場所)
りんはそっと殺生丸の顔を見上げた。

殺生丸様の側がりんの帰るところ。
もしも1人だって、きっと帰れる。
道の先にいると信じて辿っていけば、それが正しい帰り道。

りんだって帰り道を知ってるよ、幸吉――だから、あんたもきっと帰れるよ。

心の中でりんはそう呟いていた。



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