◆ 鬼面 ◆


 
霧の向こうから女の歌声。
殺生丸はその霧の中を歩いている。
眼前に現れたのは、古い茅葺きの屋敷。
開け放たれた土間にしつらえられた竈にも、板の間に切り抜かれた囲炉裏にも、火の気はない。
置き去りにされた鍋には、細い蜘蛛の巣が埃のようにまとわりつく。
殺生丸は中に上がり込むと、破れかけの襖を大きく開け放った。
そこに人の気配はない。
歌声が聞こえるのはさらに奥。
無言のまま殺生丸は屋敷の奥へと足を踏み入れた。

女のか細い歌声は途切れることなく続く。
みすぼらしい部屋を抜け、渡り廊下を進んで母屋へ抜ける。
そちらは最初に入った場所とは明らかに作りが違う、貴人のために用意された部屋。
香を焚きしめた畳の部屋に打ち掛けを着た女が座り、手鞠を弄びながら童女のように歌い続ける。

「お前がこの家の主か」
唐突に殺生丸は聞いた。
見知らぬ男の声に驚く風も見せず、女は鞠を手元で弾ませる。

『わたくしがこの家の主でございます』
女は殺生丸を見ずに答える。
油を塗った黒髪が艶やかに揺れる。

「召使いはすべて去ったか」
『はい、誰も此処にはおりませぬ。わたくし1人が住まいております』
女は鞠を両手で包むと、膝を巡らして殺生丸を見上げた。
『何故に此処へ参られましたか?』
「貴様の知ったことではない」
傲慢な響きの答えに、女はそれ以上の傲慢さを感じさせる笑みを見せた。
『あなた様など、誰も呼んではおりませぬのに』
「私も呼ばれた覚えはない」
『ならば、立ち去りなさい。ここはわたくしの館です。卑しい妖怪づれが参って良い場所ではない』
女は殺生丸に興味を失ったのか横を向き、また低い声で歌いながら鞠で遊び始めた。

『ひとつふたつは母様に、みっつよっつは父様に、いつつむつは兄様に、捧げてもろうて過ごしましょう』
「すべて自分の物にしているのであろうに」
女は動きを止め、暗い目で鞠を口元に当てた。
『まだそこにおられる?お前などに用はないのに』
「私も貴様に用があるのではない」
『それならば、速やかに立ち去りなさい。ここはわたくしの屋敷』
「そうは行かぬ」
殺生丸は静かに女の正面に立った。
「貴様の使うその鞠、何で出来ておる?」
鞠を抱えた女が上目で殺生丸を見る。
『嫌な男。男は嫌い。乱暴で怖い』
女はいきなり鞠を殺生丸に投げつけた。易々と避けた殺生丸の脇を飛んだ鞠が庭に落ちる。
「投げ捨てても構わぬか。代わりはいくらでもあると見える」
揶揄する殺生丸に、女は軽蔑するように口元を歪ませた。
『むろん、代わりなどいくらでもあるとも。見るがいい、その庭を。この部屋を』
地から障気が立ち上る。
煙立つような黒い禍々しい気に、白く丸い物がいくつも浮き上がる。
黒い眼下がぽっかりと空いた髑髏が、辺り一面に敷き詰められていた。
殺生丸は女を見下ろし、口元だけで笑った。
「ようも食い散らかしたものだ」
『それ以外なんの役に立つ?下賤の者など』
にいと笑う女の赤い唇から白い牙が伸びた。
額と頬骨がべきべきと音を立ててせり出し、押し出された眼球がギロリと動く。
変形した額からはさらに二本の角が伸び、女の白い顔は毒々しい鬼面へと変わった。

女は歪んだ口を横に広げ、軋んだ金属的な声を上げた。
『最初に喰ろうた男は卑しい性根そのままの臭い肉をしていた。庭に投げ捨てておいたら、山犬や烏がしきりにつついておったわ』
「お前の母や父はどこへ行った」
殺生丸の問いに、女は傷ついた目で押し黙った。
「お前は元は人間であったようだな」
『……妖怪ごときがわたくしの素性を忖度するというのか』
「別に語る必要はない」
殺生丸は腰の剣をすらりと抜いた。
その禍々しい光に、鬼面の女は怯えたように腕を上げ、袂で顔を隠す。
「刃で斬って捨てられたか」
『母様も父様も兄様も。供と信じていた侍達に裏切られ、殺され、すべてを剥がれて地に埋められた。その庭の隅に』
庭の一画にひときわ濃い障気を漂わせている場所がある。土の色さえ変色し、ぐずぐずとした腐敗臭を放っていた。
『わたくしは下賤の者達にさんざん辱められ、その上ですべてを剥がれてうち捨てられた。痛む体を動かすことも出来ず横たわるわたくしの肌着まで、男達ははぎ取った。あの笑い声、忘れるものか』
女の怨念の声に散らばった髑髏のいくつかが震え、そこから真新しい血が流れ出す。ひゅうひゅうと空気が漏れる音がまるで悲鳴のように屋敷中に広がり、女は哄笑をあげた。
『それ、そやつらが我らを裏切った連中の末路よ。我が一族につかえし者の分際で、我らが都を追われて落ち延び、そしてそやつらを束ねていた頭が亡くなると同時に手のひらを返した、卑しき者達の哀れな姿よ』
髑髏が上げる苦しげな音が一生強くなり、辺り一面が血に染まる。

「あの髑髏どもは生きているのか」
『生きておるとも。死なせはせぬ。あそこでああやって、己達がしでかした事の罰を受け続けるのだ』
「あやつらだけではあるまい」
殺生丸は笑う女を蔑むように言う。
「そこに落ちているのは、子供の骨だ」
女はにいっと笑うと、小さい髑髏をひとつ両手に捧げ持った。
『それがどうしたというのだ』
何事もなかったように言い放つ。
『下賤の者の子だ。里に行けばいくらでもいる』
女は鬼面を喜色に染め、殺生丸を見返した。
『喰ろうてやらねば、増えるだけであろう』
そう放言した女の目の前で光の筋が走る。
女ははっとする間もなく消し飛んだ己の右肩から先に、惚けた表情をした。
『なぜそなたがわたくしを傷つける』
殺生丸が手に持つ剣を見ながら、不思議そうに女は言った。
『わたくしは、そなたに行けと言った』
女の眉間に、ひたと剣が突きつけられる。
「私は私の用でこの場にいる」
鬼女の濁った白目がぎょろりと殺生丸を睨み付けた。大妖の言う言葉が理解できないと、心底思っている目だ。
『ここはわたくしの館です』
「今はもう違う」
冷酷な言葉に女は怯えた顔になった。剣を避け、後ろ手をついて、じりじりと遠ざかろうとする。殺生丸が一歩踏み出すと、女は悲鳴を上げた。それに共鳴するように、辺り一面の髑髏も一斉に叫び出す。
不吉な声に埋め尽くされた室内で、女はひときわ甲高い声を上げると、豪華な真紅の袂を広げて己の身を庇うような動作を見せる。
その身体の中心に衝撃が走った。
闘鬼神の放った白い光に包まれ目を見開いた女の顔が、元のままの若い女のものに変わる。殺生丸は一度縦に振りきった剣を翻すと、真横に一閃させた。
十字の衝撃に身体を貫かれた女の姿もろとも古い屋敷は吹き散らされる。衝撃波がもたらした光の消えた後には、渺々と風の鳴る立ち枯れの草原だけが残されていた。


殺生丸は人の気配の感じられないその場に、1人佇んでいた。
朝露に洗われる草原の一ヶ所で動く物がある。
殺生丸が視線だけでその様子を見ると、石で囲われた穴から小さな手が這い出てきた。
「あれ、邪見様!お屋根が無くなってる!」
甲高い少女の声に続き、これも甲高い小妖の声。
「アホ!元々屋根なんぞ無かったであろうに!」
「えー、だって、板が渡してあって、屋根みたいだったのに」
「ありゃ、ただの床板の残骸じゃ!」
そう言いながら先に穴から出てきた小妖が、主の姿に仰天した。
「あ、これは殺生丸様!お戻りになってらしたのですか!」
「え、殺生丸様いるの?」
はしゃいだ少女がぴょんと顔を覗かせた。急いで外に出ると、嬉しそうに笑いながら殺生丸の袴に飛び付く。 そのさらに後ろからは窮屈そうに双頭竜の頭が覗く。入り口の割りに奥は広い洞穴になっているようだった。 邪見は手綱を引っ張って竜を外へ出してやると、主に言い訳するように言った。

「この穴は隠し部屋であったらしく、奥は広くしつらえてあり、雨風も入り込まぬよう、戸板も渡してございました。昨夜は屋敷跡もあったのですが、一体夜の間に嵐でもあったのかどうか…」
そこまで言い差したところで、邪見は主の咎めるような目つきに気がつき冷や汗を浮かばせた。
(別になんの危険もないどころか、安全なねぐらを苦労して探したのに、なんでこんな目で見られねばならぬのじゃ)
泣き言混じりの邪見の考えを読んだのか、殺生丸は素っ気なく言った。
「いくぞ」
踵を返して歩き出す殺生丸の後を、りんと邪見はいつものように小走りでついていく。
その2人を振り向きもせず歩く殺生丸は、草の間に見えた物に目を留めた。

うち捨てられた一個の白い髑髏。真ん中から二つに割れ、縺れる髪に絡まるように転がっている。長い年月に曝されながらも残る黒髪は、女の怨念の深さを表すように生々しい艶を保っていた。
殺生丸は足を止め少しの間だけそれを眺めていたが、すぐに興味を無くしたように歩き出した。小妖の喚く声と、少女の楽しげな声がそれに続き、やがて野は無人となる。

吹き渡る風に割れた髑髏がかたかたと揺れた。
風に乗るすすり泣くようなその音は、聞く者が誰もいない草原を覆い尽くすように鳴り続けていた。





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