◆ 日常の風景 2 ◆


 
ある日邪見はふと思った。
優しい木洩れ日と、さわさわという葉擦れの音に満たされた赤子の寝所のように心地よい森の空間。
そこで岩に腰を下ろした主は目を瞑っている。
そのまま、ぴくりとも動かない。

(もしや、眠っておられるのか…?)
邪見はそろりそろりと近付き、下からすくい上げるように主の顔を盗み見る。
瞬時にケリがとび、目を開けた殺生丸は不機嫌そうに地べたに張った従僕を見下ろした。
(やっぱり、眠っていたわけではないのか…)
目の前でちかちかする星を涙ながらに見ながら、邪見はそう思った。


そもそも、殺生丸はあまり眠らない。
少なくとも、邪見は見たことがない。
邪見が深夜うとうとしている時に殺生丸も眠っているのかも知れないが、邪見がふと主に目を向けた時は大抵目を開けている。
それはそれでおかしく思ったことはなかった。
殺生丸は自分とは違う大きな妖力の持ち主で、その力がどれ程なのか少なくとも邪見には底が見えない。
本人が平気でいるのに、休養を取ることを勧めたりする訳もない。
邪見の知る主は、傷ついた時以外には休まない。
それが当たり前だったのが、この所、その睡眠をとるとらないを気にするようになったのは、さっき見たように目を閉じている姿がたびたび見受けられるようになったからだ。

邪見は草むらに座り、首を捻る。
「うーむ…どういう事であろう。もしも今まで夜半に僅かなりとも休憩を取っていたとして、それが上手くいかなくなった故に日中にお休みになるのじゃろうか」
だとしたら考えられるとしたら、夜っぴて起きておられる?ひょっとして毎夜?
なんのために?
よもや……。
「りんのためか?」
「りんがどうかしたの?」
隣から聞こえた声に、邪見は器用に座ったまま飛び上がった。
「お前!こっそりと近付くのは止めぬか」
「こっそりとなんかじゃないよ、声かけたのに、気がつかなかったんだよ」
りんは不服そうに言うと、邪見の首にすぽっと花輪をかけた。
「りんがね、編んだんだよ」
にこっと笑うりんに、邪見は花を両手でいじくりながら低く「そうか」と答えた。
満足そうなりんを見ながら邪見は思う。
この娘は夜になると寝る、とにかく寝る。寝台代わりにしている竜の背から落としでもしない限り、大抵は目が覚めない。
敵に襲われたらひとたまりもないじゃろう、と思うほどに熟睡する。
ひょっとして殺生丸が夜番をするのは、この小娘が深夜に危険に遭わないように、という気遣いかも知れぬと思い、邪見はそこでまた唸る。
「うーむ、まさか、あの殺生丸様にかぎって…」
首を捻るついでに身体も傾く。隣でそれをじっと見ていたりんもつられて身体を傾ける。

「うーむ」
今度は逆方向に傾く。りんも一緒に傾く。

「うーむ」
また逆方向に身体が傾く。りんもつき合って身体を傾ける。

「こら!お前まで一緒になってふらふらすること無いわ!」
「きゃあ」
怒鳴る邪見に、りんはちっとも怖がっていない声で真似事の悲鳴を上げると、きゃっきゃっと笑いながら走って行ってしまった。
「馬鹿者が!わしはお前と遊んでるわけではないわい!」
りんが逃げて行った方に向かって怒鳴った後、邪見は息を付きつつ頭を掻いた。
「まったく、いちいち考えるのも馬鹿馬鹿しいことじゃ。そもそも殺生丸様が近くにおられるのに襲ってくる獣や妖怪など存在しない。存在しない危険のために殺生丸様が番をする筈などないし、昼日中に居眠りをされるはずもない。何か考え事でもなさっていたのだろう。あの馴れ馴れしい法師をどうやったら遠ざけられるか、等と考えておられるのならば小気味もいいのじゃが……さて、わしが思いつくような事を考えておられるのかどうか」
滅多な予測を口にして蹴られるのもごめんじゃ…邪見はそう口の中で呟いた。


殺生丸は涼しげな木陰に1人座っている。
りんは楽しそうに1人笑いながらその足下に駆け寄ると、その膝に手を掛け、少し背伸びをする恰好で保護者の顔を見上げる。
「ねえねえ、殺生丸様。邪見様がね、殺生丸様が休むとか休まないとかって唸ってたよ」
殺生丸は横目でりんを見下ろした。
言外に視線だけで聞き返す殺生丸に、りんは首を捻りながら言う。
「よく分からないけど、夜に寝ないから、昼に寝るのかなーとか…やっぱりよくわかんない」
勝手にそれだけ言うと、りんはまた邪見の元へと走って行ってしまった
どうやら、川で魚を捕る手伝いを頼んでいるらしく、「なんでわしが」等と言う邪見の声が聞こえる。
それを聞きながら、殺生丸は誰にも見せたことのないあくびを小さく漏らした。

殺生丸がいつ寝るか、それとも寝ないのか。
本来ならば取り立てて定期的な睡眠は必要ない。
気が向けば休むし、疲れを感じたら眠る。それで大丈夫だったのだが、最近は確かにその習慣が崩れつつある。というよりもむしろ一定周期に定まりつつある、といった方がいい。

その理由の一つは確かに人間の少女、りんにある。
この娘は定期的に食べ、眠り、そしてそれ以外にも休養を必要とする。
そうしなければ、人間の子供の脆い身体はあっという間に倒れてしまう。
自分自身の調子ではなく、人間のりんに併せた日常習慣が出来上がりつつあるのは間違いない。
そしてもう一つの大きな理由。

最近、彼はある山寺で夜から朝まで眠る日が増えてきた。
それに慣れてきた身体は、以前よりも多くの睡眠を必要とするようになってきたらしい。
別に以前同様に何日も眠らずに行動することも可能なのだが、取り立ててすることもない今のような状態の時はつい眠くなる、という時がある。
別段その事自体は今更否定する気もないのだが、だからといってわざわざ従僕の小妖に知らせてやる気もない。
すでに日常的に馴染んだりんと邪見の騒ぐ声を遠くに聞きながら、殺生丸は目を閉じて穏やかな微睡みを楽しむことにした。


かくして、数日後にまた目を瞑っている主の姿を見た邪見は考えるのである。
「もしや、殺生丸様は居眠りをしておられるのか?」と。



 
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