◆日常の風景◆


 
ある日、邪見はふと考えた。

「どうしてわしは、自分が喰うわけでもない野菜を抱えているのじゃ?」

すぐ横では人間の小娘が畑を掘り返して芋の蔓を引きずり出している。
「邪見様、ちゃんと見張っててね」
真っ黒になった手で顔を擦りながら、小娘が当たり前のようにそう要求する。
邪見はりんが取ってきた大根を抱えながら、今更ながらにその理不尽さに思いを馳せる。

「なんでわしが小娘の言いなりになって荷物を持って畑荒らしの見張りをせにゃならんのだー!」
「しーってば、邪見様!見つかっちゃうよ」
小娘にたしなめられ、邪見の不満は頂点にまで達した。それでも「見張り役」を命じられている立場上、邪見はぐっと堪えて座り込む。
「……はあ、なんでこのわしが…」
すっかり癖になってしまったため息を付く。と、目の前の土が盛り上がり、その下から土着の小妖怪がひょっこりと顔を出した。
蛙に似たその妖怪は、大根を抱えてため息を付いている邪見を見ると、さも可笑しそうに蛙そっくりの笑い声を上げる。
「ぎゃぎゃぎゃ、なんだそのしょぼくれ顔は。小娘の言いなりになって情けないやつじゃ。ほれ、見た目も性根もまるで干涸らびた蛙じゃ」
そう囃し立ててぎゃぎゃぎゃと耳障りな笑い声を上げる。
自分の足先ほどもない小妖にバカにされ、邪見は脅しつけるような大声を上げた。
「引っ込んでおれ!貴様ごときの小物にバカにされる謂われはないわ!」
次の瞬間、「誰じゃ!畑荒らしか!」と叫ぶ男の声が響いた。
火の点いた薪を持った男が、入り口の筵を跳ね上げて家から出てくる。
「誰じゃ!そこにいるのか!」
その大声に次々と他の家からも人が出てきた。りんが慌てて立ち上がる。
「もう、邪見様ったら!早く逃げよう!」
「お、おう」
騒ぎが大きくなり、りんと邪見は慌てて逃げ出した。


「あーあ、もうちょっと掘ってこれると思ったのに」
追ってから逃げ切ったところで、りんは歩きながら腕に抱えた芋の数を数えていた。
「邪見様があんな所で大声上げるからだよ」
「お前がぐずぐずしておるからじゃ!」
りんの非難に、邪見は不機嫌に言い返した。だがその手に抱えた大根を見て、りんは悲嘆の声を上げる。
「あーーーー、大根、折れてる」
「お?」
邪見が抱えていたものを見直す。もともと邪見の身長ほどもあった大根は、逃げてくる途中に引きずりでもしたのか、それとも一緒に抱えていた人頭杖とぶつかりでもしたのか、真ん中からぽっきりと折れて短くなっていた。
「ひどーい、りんの朝ご飯」
仏頂面になる娘に、邪見は慌てて言い訳をした。
「仕方あるまい。だいたい、お前は食い過ぎじゃ。毎日毎日朝晩喰わんとすぐに腹が減ったと喚きおって」
「だってお腹がすくんだもん!もういいよ、それもりんが持つ!」
りんはふくれっ面で大根をひったくると、芋と一緒に袂で包み込んだ。
そしてそのまま殺生丸が待つ場所へと歩いていく。
月が明るいので歩くのに難儀はしない。そのすたすたとした足取りに、邪見はいじけたように呟いた。
「……なんじゃい、勝手ばかり言いおって」

ため息を付き、邪見は重い足を引きずるように歩いていく。
(まったく、なんじゃというのじゃ…なんでこのわしが……)
りんが小川の側の斜面をひょいひょいと軽く駆け上っていくのを遠目で見ながら、邪見は岸辺にしゃがみ込んだ。
ちょろちょろと流れる水を眺めながら、邪見は疲れた顔で長く息を吐いた。
(……殺生丸様は変わってしまわれた…。そりゃ、もともと、お供を大事に気配りなぞするお方ではないが、あの小娘が来て以来、わしはなんだか報われない仕事ばかり押しつけられた気がするぞ…しかも、あのわしをぼこぼこにした法師は辺りをちょろちょろするし、それをまた容認されておられるし…)
どう考えても自分だけが苦労を背負い込み、ないがしろにされて貧乏くじを引いている気がする。
(これだけ真摯にお仕えしているのだから、もうちょっとわしにも気を配ってくださっても良いではないか…せめて、苦労を掛けるな、の一言くらいあればわしだって…)
泣き言しか頭に思い浮かばず、邪見は情けなく顔を歪ませながらまたため息を付いた。
そんな時に小川の向こう側の雑木林から賑やかな音が聞こえてくる。
(なんじゃ?)
邪見は立ち上がり、帰りたくない気分からその音がする方に向かっていった。


雑木林の中を陽気な小妖の一団が歩いていた。
小鬼やガマやイモリの化身。珍妙な布の切れ端を身体に巻き付け、人間が使う鍋釜などを頭に被り、木切れを叩いて音を立てて踊り歩いている。
その様子を木の陰から眺め、邪見は目をまん丸くした。
(なんじゃ、あやつらは…)
その邪見に気が付いた小鬼の一匹が仲間達に知らせたのか、一団は歌い踊りながら邪見が潜んでいる場所へとやってきた。
(な、何事じゃ)
慌てる邪見を取り囲み、小妖達は歌いながら踊り回る。
「お前も逃げてきたのじゃろ?我が儘な主から」
「逃げてきたのじゃろ?良いことなしの地から」
邪見は狼狽えた。
「なんじゃ、お前等!わしは逃げてなんぞおらぬわ」
「無理せんでもいい。お前もわし等と同じ顔をしておるわ」
「そう、同じ顔をしておるわ。毎日毎日ろくな事がない。気分次第でわし等をとってくらいそうな意地悪勝手の主に仕えるのは、もうこりごりじゃ、という顔をしておる」
小妖達は声を上げて笑うと邪見の手にしゃもじと長箸をもたせ、こうやって音を出すのだよ、と教えるように自分達もガンガン叩いて見せた。

「わしらは逃げてきたのじゃよ。この地のどこかにきっとわし等のような小妖でも面白可笑しく暮らせる地があるじゃろうと思うて」
「そうそう、みんなで探そうと思うて逃げてきたのじゃ」
小妖達は狼狽える邪見をおし包み、また歌い踊りながら行進を始めた。邪見は驚きながらも小妖達に囲まれているので逃げられない。
「お、お前等、わしをはなさんかい!わしは逃げてなんぞおらん!わしにはちゃーんと立派な主がおるわい!」
波に乗るように運ばれながら怒鳴る邪見に、小妖達は一斉に動きを止めた。
小鬼がその顔を覗き込み、不思議そうに訊く。
「お前は逃げてきたのではないのか?」
「そうか、逃げてきたのじゃないのか」
小妖達は包みを解いた。邪見がホッと息を付く傍らでひそひそと話し合い、そしてまた踊り出す。小鬼は言った。
「そうかい、それならわしらは先に行くよ。でも、一緒に来たくなったら後を追って来るがいいよ。どうせ我らはとるに足らない木っ端妖怪。主はわし等をゴミのように扱うよ」
一団を見送りながら、邪見は悲しく情けない気分になっていた。


小妖達に囲まれて思ったより遠くまで来てしまっていた。
ひょこひょこと歩く邪見が夜明かしの場所にたどり着いたのは、もう朝日も差す頃。
(殺生丸様は怒ってらっしゃるだろうか、それとも、ひょっとして…心配の欠片くらいはしてくれてるだろうか)
まさかそんな事はあるまい、と思いながら、邪見は殺生丸が居るはずの丘の上へと斜面を登っていく。
夜、寝るのか寝ないのかも判らない殺生丸は、昨夜畑荒らしに出かけたときと殆ど変わらない姿勢で木に持たれて座っていた。
その横では竜の上で眠りこけているりんの姿。
そういえば昨夜はりんを1人で帰してしまったことを思い出し、邪見はどきりとする。
(叱られるのかなーーー)
冷や汗をかきながら邪見は殺生丸の傍らへと戻った。
殺生丸が無言で邪見を見る。
ドキッとしながら、邪見は急いで言い訳を始めた。
「えええっと、夕べはその……変な妖怪達がうろついているのを見つけて、その様子を見に…」
これは別に嘘でもなんでもない。確かに変な小妖の一団はいたのだった。
だが邪見がしゃべり出してすぐ、殺生丸はなんの関心もないように顔を背けてしまう。その動作に、邪見の不満が爆発した。

「せ、せ、殺生丸様は、この邪見のことなど、まったく気に掛けてくださらないのですね!」
飛び出た目が涙目になる。邪見の大声にりんが寝ぼけ眼で身体を起こす。
殺生丸は冷ややかに突然態度が変わった従僕を見下ろした。
まずい、と思ったが、邪見の口は止まらなかった。
「せ、殺生丸様はその小娘が来られてからという物、わしを邪険にばかり扱われ、まるでいてもいなくても良いようなご様子!わ、わしのことなんぞ…」
「だから、どうした」
主の言葉は、まるで情のこもらないものだった。邪見の目から涙が吹きだした。
「や、やっぱり殺生丸様はわしが木っ端妖怪だから……本当にどうでも良いとお思いなのですね!」
それだけ叫んで邪見は人頭杖を投げ出し後ろを向くと、駆けだした。斜面を駆け下り、小川を超えて森の向こうに一目散に逃げるように走り去る。
りんが目を擦りながら呟いた。
「……邪見様、どうしたの…?」
殺生丸は答えなかった。



(はあ……やってしもうた…)
言うだけ言って恐怖に駆られ逃げ出した邪見は、さっき戻ってきたばかりの道をとぼとぼ歩いていた。
(夕べのあの連中の毒気に当てられたのかのう…殺生丸様にあんな無礼な口を利いてしまった…その場で引き裂かれないだけマシじゃ…きっと怒っておられよう…)
なんであんなに悲しくなったのか、なんで切れてしまったのか、今となっては後悔してもしきれない。
殺生丸が口数少ないのも表情がわからないも素っ気ないのも、もともと判っていることなのに。
「こうなったら、やっぱりわしもあの連中と一緒に行くしかないのかのう…。幸い、人頭杖はお返ししてきた。後を追いかけてくるなどという事はあるまい」
それはそれで悲しい…邪見はそう涙ながらに考え、無理矢理気分を切り替えた。
「ええい、いつまでくよくよしているのじゃ、わしは!良いように考えるのじゃ!きっとわしにもよい事がある!良いことがある場所があるはずじゃ!わしは今からそれを探しに旅立つのじゃ、何をしょぼくれることがある!」
そう自分を鼓舞すると、邪見はあえて胸を張り、反っくり返るようにして森の中を歩いた。でも歩いているうちに段々気分がしぼみ、いつのまにか背筋を丸めて身を隠しているような姿勢になる。
しかも変な胸騒ぎまでしてくる。
(なんじゃ、わしは……ドキドキしてきたぞ?)
原因がはっきりしないまま昨夜連中と別れた辺りを過ぎ、さらに匂いを追って森の奥へと行く。胸騒ぎが強くなり、邪見は自分が何に怯えていたのかはっきりと判った。森の端の草原へと抜ける手前にその惨状は広がっていた。

邪見と別れたあと、山犬か狼か、それとも熊に襲われたのか。辺りの草には小妖の様々な色の血が飛び散っている。そして獣にさんざん引きちぎられたあげくの、溶けかけた死骸が点々と小さな塊として落ちていた。
邪見は声もなくその惨劇の後を見つめた。
逃げ延びた者がいたのかどうかも分からない。昨夜陽気に踊りながら行進していた小妖達は、その影も形も見失われていた。
立ちすくんでいた邪見は、不意に聞こえた狼の遠吠えに身体を硬くして飛び上がった。
森の中に身を守る物も無く一人きりなのだと言うことが、急に身にしみて感じられてそこにいるのが怖くなった。
もう一度遠吠えが聞こえ、邪見は「ひっ」と悲鳴を上げるとその場から逃げ出していた。


どこをどう走って逃げたのか覚えていない。とにかく気が付くと日が暮れかかり、そしてどこかの小川の辺へとたどり着いていた。
邪見は水を掬って飲み、そして顔をクシャクシャにして頭を抱えた。
「はあ、…わしはどうすればよいのじゃ…当てもなく一人きりじゃ…」
心細さに身が縮む思いがした。自分達のような小妖が主の元を離れ、その辺を自由気ままにふらふらすることがどれだけ危険で無謀なことなのか、改めて考える。
「ああ…一族がいる地で大人しゅうしておれば良かった。地の底に潜り、隠れておれば良かった…」
今更愚痴ったところでどうしようもない。彼はもう隠れ場所を持っていない。
今までいろんな場所を旅しながらも、何も怖れることはなかったのは、文字通り殺生丸のお供だったからなのだと思い知る。

(人頭杖を預けていただいたのでわしは身を守れた。鬼や竜を使役できたのも、殺生丸様のご威光があればこそ、じゃ。わしは何を思い上がっていたのじゃ。殺生丸様に命を守っていただいておりながら、何を不満に思ったのじゃ…)
一度死んだ命を救っていただいたくせに、なにを見張り役にされたからと細かいことを愚痴愚痴と思い悩んだのかと、邪見は今更ながら自分の愚かしさを憎んだ。
「あんなご無礼を口走ったのじゃ…殺生丸様はきっとこの邪見に愛想を尽かしていなさる。それに、もう一日がくれる。殺生丸様はもういずれとも知れぬ場所に去ってしまわれたじゃろう…今更わしが探し当てたとて、今まで通りにお仕えさせてくれるはずがない…」
そう口にした言葉の意味に邪見は泣けてくる。
独りぼっちだ。
これからどうしたらいいのだ。
邪見は泣きながら思わず叫んでいた。
「殺生丸さまーーーー!この馬鹿な従僕をお許し下さいませーーーー!」

「何やってんの?」
突然後ろからの問いに、邪見は飛び上がった。
そこには草の上にしゃがんだりんが、きょとんとしている。
「お、お前!なんでここにいるのじゃ!」
心臓が飛び出しそうになって邪見は喚く。
「ここ、夕べ寝たところだよ?ほら、あの丘の上」
りんが斜面の上を指差す。そこには確かに昨夜ねぐらに選んだはずの木が見えた。
「へ?それではわしは逃げながら元の場所に戻ってきてしまったのか?」
「逃げるって何から?」
目を丸くしているりんにそう訪ねられ、邪見は慌てて取り繕った。
「い、いや、なんでもない。じゃが、お前はなんでここにいるのじゃ!とうに旅立ったのではなかったのか?」
「知らない。だって殺生丸様、ずっとここにいるもん」
「……ここに、まだお出でになる?」
顔を突き出すようにして聞く邪見の目を覗き込みながら、りんはきっぱりと頷いた。

「うん、いるよ。丘の上。邪見様を待ってたんじゃないの?」
その返事に、邪見は天にも昇る心地になった。
「待っているじゃと…?そう仰ったのか…?」
「言ってないけど、違うの?だってこれ、りんに持っていけっていったよ」
りんが差しだしたのは人頭杖。それを受け取り、邪見は呆然とした顔で聞き直す。
「これを、わしに持って行けと仰ったのか?」
「うん、りんがね、邪見様の独り言に気が付いて立ち上がったら、持っていけって」
にっこりと言うりんに、潤んだ邪見の目から涙が盛り上がった。
「それでは殺生丸様はこの愚かな従僕を許してくださったのか…殺生丸様…」
感極まった声でそう呟くと、邪見は急いで斜面を駆け上がり、竜の背に座っている殺生丸の元へと急いだ。
「殺生丸さまーーーー」
名前を呼びながらその足下へと一心に走る。
殺生丸が邪見の方に顔を向け、立ち上がる。「殺生丸様!一生お仕えいたします!」そう叫びながら、邪見は忠誠を誓った主の足に向かって飛び付く。だが――。

「遅い」

その一言と共に、邪見の顔面に見事な蹴りが入った。
蹴り飛ばされて目から火花が散る。くるくると視界が回り、邪見は草の上に仰向けにひっくり返った。
その横を主が通り過ぎる。邪見の頭上に降ってきたのは「行くぞ、手綱を取れ」という素っ気ない命令。
邪見が跳ね起きると、心得たりんが双頭竜にまたがり、邪見に向かって手を振っていた。
「邪見様、早く行こう」
殺生丸はとうに先に行き、銀の髪が揺れる背中だけが小さく見える。
「邪見様、おいてくよー」
りんは自分で手綱を持つと、竜に殺生丸の後を追わせている。邪見は慌てて駆けつけ、手綱をひったくった。
「勝手なことをするな!わしが持つわい!」
「えへへ、殺生丸様、やっぱり邪見様が帰るの待ってたんだね」
待っていたのは確からしいが、喜んでいいのか悪いのか。
さっきの殊勝な決意は忘れさり、邪見はまた涙ながらにため息を付いた。


――ああ、――やっぱりわしはないがしろにされているんじゃ無かろうか。

「邪見様、ため息多いね」
「誰のせいじゃと思うておる!」
邪見が喚き、りんが笑う。殺生丸は相変わらずの無口無表情。いつもと変わらない一日が今日も暮れようとしていた。

 
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