◆ 追儺(ついな)◆


 


何か失敗したとき、転んだとき。
「痛い」とか「どうしよう」とか思ったとき、決まって誰かが見ているような気がする。
見渡しても誰もいないのに、誰か知ってる人が側で見守ってくれてるような気がする。
探してみようと思ったことは何回かあるけれど、結局探さなかった。

――誰かが側にいたのなら、殺生丸様はもちろん邪見様だって気が付くはずだから。

りんはすぐ側でハラハラする気配を感じながら、立ち上がった。
パタパタと埃を叩き、別にどこも怪我をしていないことを確かめる。
転んだ弾みで散らばった木の実をぶつぶつ言いながら邪見様が集めてくれる。

「ほれ、まったく落ち着きのない小娘じゃ。今度は足元をちゃんと見て歩くのだぞ」
文句を言いながらも気遣ってくれる邪見に、りんはにっこりしながら礼を言った。
「うん、判った。ありがとう、邪見様」
「別に礼を言われるような事はしておらぬわい。ほれ、いくぞ」
照れくさそうな邪見は、そそくさと先を急ぐ。その後を追いながら、りんはちらりと背後を見た。さっきまで感じていた心配そうな気配は、もう着いてこない。


いつから感じるようになったんだろうか。
ふと、りんはそう思って記憶を遡ってみる。
殺生丸様達と一緒に旅をするようになってからだろうか。
楽しくて笑っていると、誰かが隣で笑ってるような気がしたり、怖いことが起きて胸がドキドキすると、一緒に誰かが心配がっていたり。
でも、その気配が自分に触れることはない。すぐ側で、でもずっと遠くにいるようでもあり、りんはよく分からない。


ある日、りんは一人で用を足すために森の中に入った。
一人といっても、少し先の洞窟には邪見がいて、熾した火の番をしている。
木の陰で小用をすませた後、りんはついでに水を汲んでいこうかと小川の淵に屈み込んだ。薄く張っている氷に穴を開け、そこに竹筒を入れる。水は冷たく、手の感覚が無くなりかけるが、慣れた仕事なので気にせずりんは筒が水で一杯になるのを待った。

(そういえば、年越しってもうしたんだっけ?)

人里から離れていたので、りんは大晦日がいつで正月がいつだったのか気が付いていなかった。ただ、夜中にいくつもの鐘の音を遠くに聞いた気がする。
両親が生きていた頃は、精一杯の一張羅を着て、家族で近くの小さなお社にお宮参りに行ったものだ。普段は貧しい村も、祭りの時だけは華やいだ雰囲気になる。
りんは社の前に篝火が焚かれ、その前で神楽舞が舞われるのを見るのが好きだった。
急に寂しさを感じて、水から上げた竹筒を傍らの雪溜まりに差し、りんは膝に腕を乗せてそこに顔を埋めた。
あの時、両親が用意してくれた精一杯の晴れ着より、今着ている着物は上物だ。冬の寒さを凌ぐために上に着ているのも藁で出来た蓑ではなく、真綿の入った着物を重ね着している。足には藁の雪靴も履いている。
独りぼっちになってからは祭りもなにも関係なく、その日一日を生きていくことしか考えてなかったし、殺生丸達と一緒に旅をするようになってからは、村の習慣や風習も全部関係のない暮らしになっていた。
(……りんは寂しくないよ。お祭りには行けないけど、殺生丸様や邪見様といろんな所へ行って、毎日、楽しいよ)

急になんでこんな事を考えているのかと、りんは不思議に感じた。
(寂しくないのに、なんで、こんなふうに寂しくなんて感じるんだろう…)
きっと今が幸せだからだ――と思う。
幸せで楽しいから、余計に思い出す。家族と一緒に居て、毎日忙しくて大変だったけれど、みんなで助け合って毎日を生きていた。

(みんな生きていれば良かったのに。みんな生きていて、そして殺生丸様達と一緒に居られたら、すごくいいのに)
むちゃくちゃな事を考えながら、りんはため息を一つ付いた。
こんな事を考えてもどうにもならない。それでも、ほんの僅かだけ、ふと恨み事が浮かぶ。

「……あの夜盗達が来なければ良かったんだ。あいつらさえ、いなきゃよかったんだ」
誰もいないと判っているからこそ、ぽつりと零れた言葉だった。
だがそう言った瞬間、すぐ側で、誰かが叫んだ。
『ダメだよ!、そんな事考えちゃ、ダメだ!』
りんはぱっと振り返った。その声に聞き覚えがあったからだ。
「にいちゃん?」
あの日、両親と共に死んだはずの兄の声だった。聞き間違えるはずがない。
「にいちゃん?いるの?」
りんは誰もいない木々の向こうにむかって叫んだ。
死んだはずなのに、声が聞こえた。そう思ったところで気が付いた。
「ねえ、りんの側にずっといてくれたの、兄ちゃんなの?」
りんは森をぐるっと見回すようにして、そう呼びかけた。
「ずっと感じてたよ、誰かが見ててくれたの。にいちゃんなの?りんの側にいてくれたのは、にいちゃんなの?」
お化けでもいいから、もう一度会いたくて、りんは必死で呼びかけた。
「ねえ、にいちゃん」
『……ダメだよ』
声が返った。でも、その声がどこから聞こえるのか判らない。りんは漏れそうになる嗚咽を堪え、耳をすませる。

『……探しちゃダメだ、兄ちゃんはりんに会えないんだ』
「…どうして?」
兄の声は泣いているように聞こえた。
「りんは兄ちゃんがお化けでも怖くないよ。だって、兄ちゃんだもん…」
泣き出したら声が出せなくなると思い、りんは涙が流れそうになるのを堪える。
「兄ちゃん…」
自分を恋しがる小さな妹の姿に、声だけの兄は苦しそうに答えた。

『兄ちゃんは、鬼になったんだよ』
「え?」
聞いた言葉が理解できず、りんはぽかんとなる。
『兄ちゃんはな、あの日、あいつ等を恨んだんだ。恨んで呪って、憎しみにまみれて死んだんだ。死んでも恨んで憎んで呪い続けて――兄ちゃんは鬼になっちまったんだよ』

りんは見えない兄の姿を追い求め、木の間を走り回った。
「鬼でもいいよ、出てきてよ、兄ちゃん」
『ダメなんだよ、りん』
寂しそうな兄の声が、すっと遠ざかる。立ちすくむりんの耳に、言い聞かせる兄の声がする。

『鬼は人に災いしかもたらさないんだ。兄ちゃんはりんのことが心配で、ずっと側で見ていたけど、ダメなんだ。兄ちゃんが側にいるから、お前には悪いことばかり起きる。鬼が近くにいたから、お前は幸せになれなかったんだ』
「りんは今は幸せだよ!」
咄嗟に叫ぶりんに、兄は詰まった声を出した。
『うん、判ってる。兄ちゃんには何も出来なかったけど、お前は今は幸せなんだ。いつまでも、兄ちゃんが側にいちゃいけないのに、いつまでもぐずぐずしてて、悪い目にばかりあわせてごめんな、りん』
「兄ちゃんは悪くないよ、りんは兄ちゃんのこと感じて、すごく嬉しかったよ…」
どれだけ言っても、兄がどこかへ消えてしまうのは判った。
今までずっと長い間――思い出せば、独りぼっちになった頃から感じていた筈の気配は薄れて消えつつある。

『りんは人を恨んじゃいけないよ』
遠くなっていく声が、最後にりんに語りかける。
『恨んで死んだら鬼になる。大事にしたい人にも、悪い事ばかり招いてしまう鬼になる。だから、恨んじゃダメだよ、りん』
ふっと雪を被った木々の間を動く影が見えた。まだ大人になりきらない少年の体つきのその影の頭頂には、ねじくれた角が生えている。
りんはその影にぎょっとして立ちすくむ。最後に声がした。

『りんは恨んじゃダメだよ。大事な人とずっと一緒に居たいなら――』

それきり気配は完全に消えてしまった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


悄然としたりんが洞窟に戻ると、何やら賑やかな声がする。
(殺生丸様が戻ってきたのかな、でもそれなら賑やかなのは変だな)などと考えながら奥に進むと、逃げまどう邪見にぶつかった。
「痛!どうしたの、邪見様」
「どうしたもこうしたも、あの生臭坊主が人の習わしじゃとか申しおって、わしに豆をぶつけよるのじゃ!」
「おや、りん、お帰りなさい」
きーきーとした邪見の声を遮って、にこやかな弥勒が顔を見せた。楽しげな弥勒はりんの様子がいつもと違うことに気が付かず、ニコニコしながら手に持った袋をりんに渡した。中を見ると、炒った大豆がたくさん詰まっている。
きょとんとしたりんが見返すと、弥勒は「今日は節分です。忘れていましたか?」と答えた。

「……節分?」
りんは首を傾げた。両親が生きていた頃、何かそんな事もしたのだろうか。覚えていない。
「春を前に、災い呼ぶ鬼を遠ざけ、福を招くという行事です。鬼役の者に、炒った豆をこうぶつけながら『鬼は外、福は内』と――」
「わわ!わしにぶつけるな!」
邪見が飛んできた豆を避けて右往左往する。弥勒はりんの顔を覗き込むと、「さ、りんもやってごらん」と促す。りんは豆を数個手に掴んだところで、不意にそれをぱっと地面に投げ出した。
「だめ!邪見様がどっかに行っちゃったら嫌!だから、だめ!」
そう叫ぶと、りんは小妖にしがみついた。驚いた邪見がよろよろとよろめく。
「だめだめ!どこにもいっちゃだめ!」
「りん、これは真似事ですから。本当に邪見殿がどこかに行くわけじゃないんですよ?」
普段は年よりも物わかりのいいりんの、駄々っ子めいた言葉に弥勒は本気で狼狽えた。急いで宥めにかかるが、りんは邪見にしがみついたまま、「だめ!」を繰り返すだけだ。弥勒は困り果てた顔になると、邪見を見て言った。
「仕方ありませんねぇ、では、鬼役は私が…」
「ダメ!弥勒様も行っちゃダメ!」
鬼役の変更を言いかけた弥勒にしがみつき、りんはまた首を振る。

「りん、何をそんなにムキになっておるのじゃ」
鬼役をやらされかけて腹を立てていたはずの邪見も、りんの様子があまりにもおかしいのに気が付き、宥めにかかった。
りんは弥勒の法衣にしがみついたまま、ただ首を振る。
弥勒と邪見は顔を見合わせた。
「りん…真似事じゃ。そんなにムキになるな」
そう言いかけた邪見は、洞窟の入り口付近の気配に、顔をそちらに向けた。
「あ、殺生丸様」
どこかへ行っていた殺生丸が、静かに戻ってきていたのだ。
弥勒がバツの悪そうな笑みを浮かべる。りんはその法衣から手を放すと、なにも言わずに殺生丸の袴にしがみついた。殺生丸はそんなりんをちらりと見下ろすと、無言で邪見達に目を向ける。コソコソと邪見が目を背けるのを見て、弥勒は腹をくくって説明を始めた。

「いえ、節分の行事を共にと思ってやってきたのですが、……何やら、それがりんには嫌だったらしくて…」
嫌がる理由が判らないので、言い訳がましい言い方になる。殺生丸は感心なさげに眉を潜めると、短く「余計な真似だったな」といった。
「……はあ…余計な真似でしたか…」
気を利かせたつもりだった弥勒はガッカリとなった。りんが楽しんでくれるとばかり思っていたからだ。ガッカリと項垂れた弥勒は、殺生丸の袴の布地に顔を押しつけたりんの、とぎれとぎれに呟く声を聞いた。

「……鬼だって、悪い事したい鬼だけじゃないよ…みんな追い払ったら、可哀想だよ…」

涙を堪えているような声だった。なぜそんな事を言いだしたのかは判らなかったが、弥勒は真面目な顔になると、りんの側に膝をついて目の高さを合わせた。
「…そうですね。鬼だから、人だから、妖怪だから、と一口に決めつける事がどれだけ愚かしいか、よく知っていたつもりだったのですがね。お前の言うとおりです。鬼とて、人に災いをもたらす者だけではない筈ですね」
顔を上げたりんに、弥勒はにこっと笑いかけた。
「豆まきは止めましょう。でもせっかくですから、豆は食べちゃいましょうね。本当は年の数だけ食べるのですが、この際ですからね。全部食べちゃっていいですよ」
弥勒は、りんが投げ捨てたのとは別の包みを懐から出すと、その中身を見せた。
一粒それを掴み、りんはぽそりと言う。
「…ごめんなさい、弥勒様」
「謝る事はないですよ。私が忘れかけていたことを、思い出させてくれて、礼を言わなければいけないところです」
にっこりと言ってから立ち上がり、弥勒は無言の殺生丸に愛想笑いを見せた。

「りんを苛めた訳じゃないですから、怒らないでくださいね」
「…怒ってなどおらぬ」
「そうですか?何やら、非常に冷たい目で睨まれている気が、先程からしているのですが」
「貴様の気のせいだろう」
素っ気ない殺生丸に、弥勒は懲りない笑顔になる。
ぽりぽりと炒り豆をかみ始めたりんに、邪見が拾い集めた豆を渡した。
「これはもう食えんのか?」
「洗えば食べられるよ、ありがとう」
豆を受け取って礼を言うりんに、照れくさいのか邪見は背中を向ける。
「別に、礼などいらぬわ。お前はいつもいつもすーぐに腹が減ったと喚くからのう。食い物を持たせておけば静かになって、こっちがありがたいわ」
憎まれ口を叩く邪見に、りんは小さく笑みを浮かべた。

みんな優しい。みんな、りんを気遣ってくれる。無言の殺生丸も、にこにこと微笑みかけてくれる弥勒も、憎まれ口を叩きながらあれこれと世話を焼いてくれる邪見も、みんながりんを包み込んでくれている。
何気ない遣り取りに、りんはそれを痛いほど感じた。


(りんは誰も憎まないよ)

そうりんは思った。

――殺生丸様も、邪見様も、弥勒様も、みんなりんを心配してくれるから。みんな大好きでずっと一緒に居たいから。

(だからりんは誰も恨まない。りんは絶対に鬼にならないから)

だから、兄ちゃん。安心して――。

心の中でそう呼びかけ、りんは豆を口に入れる。
僅かに塩の味がした。




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