◆ 月のない夜だから ◆


 
「いた!」
小石でも踏んだのか、りんが小さな声を上げる。

「きゃ!」
今度は木の根に蹴躓いたらしい。転びそうになってよろよろしている。

「こりゃ、りん!落ち着いて歩かぬか!」
「落ち着いてるよー。でも、真っ暗なんだもの」
今夜は月が無い。
朔の日のその次の夜。
限りなく細い月に雲が厚くかかり、ただでさえ木が多い茂る森の中は、人の目ではろくに視界が利かない。
りんはさっきから躓いたりぶつかったりと大騒ぎしている。

「まったく、なんでこんな夜中にお前と二人で歩きなどしてなくてはならぬのだ」
「だってーーー、……干し柿食べる?」
「いらぬわ!」
りんが機嫌を取るようにして差しだした干し柿に、邪見は目もくれない。
元を正せばこの干し柿!
里の農家の軒下に干された干し柿をこっそり盗みに行ったりんに、邪見はつき合わされたのだ。
「だって、明るい時に行ったら見つかっちゃうもん」
りんはけろりとして言った。
時々、りんは甘いものが無性に恋しくなる。
そんな時に見かけた干し柿に、りんは我慢が出来なかったのだ。
つき合わされた邪見は良い面の皮である。
竜を待たせてある山の洞窟まで、暗い道をとぼとぼと歩く羽目になった。

「まったく、なんでわしがつき合わなきゃならんのだ」
「だって、いつも見張っててくれるじゃない」
りんは凱旋気分なのか懐の干し柿にホクホク顔で、いつもより歩き方が元気だ。
「まったく、殺生丸様ときたら、なんでわしとこの小娘を一緒に残されるのやら……今まではいつもお連れ下さったのに……」
「邪見様、また文句言ってる」
呆れ顔のりんを邪見はきっと睨む。
もっとも妖怪の邪見にはりんの顔が見えるが、人間のりんには邪見の顔はよく見えない。睨まれたところで怖くも何ともない。
邪見はしみじみとため息を付いた。
「はああ……なんでわしがこんな目に…」
「邪見様、ため息ばっかり」
他人事のようなりんの言葉に、邪見は本気で腹がたってきた。
「元々はおまえなんぞを拾ったせいじゃ!お前が来て以来、わしは余計な仕事ばかり増えるし、殺生丸様は妙な人間の男なんぞお側に寄せ付けるし、わしは置いてきぼりにされるし、ろくな事がない!みんな、お前のせいじゃ!お前なんぞ、とっとと捨て置いていけばなんにも面倒ごとはおきんかったのじゃ!」
怒りのままに怒鳴り散らしてから、邪見ははっとして口をつぐむ。
隣で立ち止まったりんは、黙って邪見を見下ろしている。
その唇が文句を言いたげに僅かに尖りかけたが、りんは一言も言わずに唇をきゅっとかんで歩き出した。

「り、りん……?」
邪見はさすが言い過ぎたかと思う。お喋りなりんの口が止まってしまったことに、邪見はなんとも言えない不安を覚えて後を追った。
りんは張り出した枝に髪や頬を叩かれながら、足早に森の中を歩いている。
この様子では、曲がる場所も気が付かずに進んでしまいそうだ。
「りん、こりゃ、りん!」
急ぎ足で横に並び、邪見はりんを見上げる。
りんは唇をかんだまま、ろくに見えもしない暗い道の先を見据えている。
「りん?……こりゃ、怒ったのか?」
「怒ってなんか無いもん!」
言い捨てた口調に、邪見はどきりとした。
「こりゃ…泣いておるのか?」
「泣いてないもん!慣れてるもん!」
りんはずんずんと歩いていく。
「こ、こりゃ、りん!」
慌てて後を追う邪見の前で、りんは急に小さな悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

「痛い」
涙声で言いながら、りんは自分の髪を引っ張る。
急いで邪見が見ると枝に髪が絡まり、頭皮ごと引っ張られた状態になっていた。
ぎゅうぎゅうと髪ごと枝を引っ張るりんに、邪見は宥めるような声を出す。
「こりゃ、りん。引っ張ってもどうにもならん。大人しゅうしておれ。やれやれ……」
手間がかかる娘じゃ――そう口の中でこぼし、邪見は絡まった枝をほどいていく。
枝には細かいトゲが生えており、それにしっかりと髪が絡みついてなかなか解けない。
「やれやれ、これはまたしっかりと絡んだものじゃ。痛かろうに」
「痛くないもん」
「強情な娘じゃ、さっき痛いと言うておったではないか」
呆れた邪見に、りんは「痛くない!」と言い張った。
「やれやれ」
小さい手で一本一本髪をほどきながら、邪見はしゃがみ込んで俯いているりんの顔をちらりと覗く。
目にした表情に、邪見はまたどきりとした。
りんはよほど痛いのか、目をしっかりと瞑り、唇も固く噛みしめて顔を歪ませている。
時折、唇と瞼がひくひくと動く。嗚咽を堪えているのだろうか。
邪見は、いくら腹が立ったとはいえ、子供相手にないがしろにするような事を口にしたことを心底後悔し始めた。

(この娘は、こうやって「泣く」事を覚えたのじゃろうか…いつも声を出さないで、涙も見せないで泣いておったのじゃろうか)
りんがどんな素性かは知らぬが、どう見ても水飲み百姓以上の生活をしていたように見えなかった。親兄弟もなく口も利けないとあっては、人間の里でどんな暮らしをしていたのか邪見にも見当は付く。
邪魔者じゃと言われ、それにふさわしい扱いをされてきたのだろう。
(むごい事を言ってしまったようじゃ)
邪見はしょんぼりしながら、絡まった髪の最後の一本をほどいてやった。
「ほれ、もう痛くないじゃろう」
「うん……ありがとう」
りんは自分の頭を撫でながら、掠れ声でぽそりと礼を言う。
俯いたまま立ち上がり、着物の裾についた土を形だけ払うりんが、邪見は急に不憫になった。
(何を言っても堪えない娘じゃと思うて、調子に乗った事を言ってしまったのう…まあ
どうせ殺生丸様が戻れば、また元の調子のいい娘に戻るじゃろう)
そう思ったところで、肝心の主がいつ戻るか分からないことを思いだした。
元々、どこへ行くとも、何しに行くとも説明することのない主だが、最近はそれこそ前触れなしでどこかへ行ってしまうことが増えた。
それでも最初のうちは長くても一昼夜程度の留守だったのが、段々に留守の時間が延びて時には2、3日も戻らないことがある。
(そんなに長い間、ひょっとしてこの娘はがっかりしたままなのか?そんなのでは鬱陶しいではないか!)
そう考えてから、実はそれが本心ではないことに邪見は気が付いた。
(そうではない……わしが気になるのじゃ。この娘がしょぼくれた顔で小さくなっているのを、わしが見るに忍びないのじゃ)



パタパタと土を払うりんの横で邪見は少しの間うろうろしていたが、やがて思い切ったように傍らに近付き、その腕をさわった。
自分の手の辺りでひらひらする邪見の長い袂に、りんは首を傾げる。
「何か落としたの?あたし、拾ってないよ?」
「そうではないわい!」
照れ隠しのように邪険に言った後、やっぱり照れ隠しのように邪見は早口で言った。
「お前1人で歩かせると、危なっかしくてしょうがないわい。だから、わしが手を繋いで連れて行ってやると言っておるのじゃ!早く掴まぬか!」
りんはきょとんとしている。
邪見はあたふたとした口調でそんなりんを急かした。

「ほれ、早くわしの袖を掴め!早う、ねぐらに戻るぞ」
戸惑いながらりんが袖ごと邪見の小さな手を取る。
しっかりと掴んだ子供の手の体温を感じ、邪見は我しらず親心のような物を感じた。
ほんのりとした気分のままに口調を柔らかげにし、労るような事を言う。
「暗いゆえ、足下に気をつけよ」
邪見の袖を掴み、とぼとぼとついてくるりんが不思議そうに言った。
「……ねえ、どうして手を繋いでくれるの?」
「いやいや、別にお前が心配なわけではないぞ。はぐれたら探しに行くのが面倒ではないか」
思わず素っ気ないことを口にして、邪見はまたりんがしょんぼりしたのではないかとおそるおそるその顔を見た。
りんははっきりしない顔で、闇の中で光る邪見の目だけを見ている。

「あたしがはぐれたら、邪見様は探しに来てくれる?」
どこか縋るような口調だ。邪見はまた変なことを口走らないようにと、慎重に考え考えしながら答えた。
「さ、探しに行くに決まっているではないか。……お前は……その……わしと同じく殺生丸様の連れなのじゃから」
どもりながらの邪見に、りんは大人びた顔で泣き笑いの表情になった。
「りんも一緒でいいの?」
「一緒におるじゃろうが、ほら、今も」
邪見は布越しにりんの手を掴んだ。
りんはその手をきゅっと握り返すと、「あたしがはぐれたら、探しに来てくれる?」ともう一度訊いた。

「行ってやるとも」
邪見は顔を道の先に向け、手を引いたりんの前を歩きながら言う。
「見つかるまで探してやるわ」
後ろでりんが鼻を鳴らす音が聞こえた。
「泣いておるのか?」
振り向かずに邪見が訊くと、りんは涙声で「泣いていない」と答える。
「ふん、強情な娘じゃ」
そう言う小妖の声には温かさが滲む。
りんは繋いだ手に力を込めながら、もう一つの手で顔をこすり、声をくぐもらせながら小さく小さく呟いた。
「……ありがとう、邪見様」
「ふん、しおらしげな事を……」
憎まれ口を叩きながらも、邪見は気が晴れていくのを感じた。
(わしはひょっとして嬉しがっているのかのう。何も嬉しいことなどありはしないのに)
でもやっぱり気分は晴れやかで、胸の中は温かいものが一杯に満ちている。
りんはもう何も喋らず、邪見の後ろで時折鼻をすする音が聞こえる。

月のない夜でよかった。
そう邪見は思った。

りんは泣き顔を明るい場所に晒さなくて良かったし、わしはこんな変に浮かれた顔をしているのをりんに見られなくてすむ。

それにこうやって手を繋いで歩いていてもおかしくない。
月のない夜は足下が暗くて危ないし、小さな子供は迷子になるかも知れない。
だから手を繋いで一緒に歩く。
ちゃんとした理由があるから、わしはこの小娘に向かって手を差し出すことが出来る。
月のない夜だから――。

雲の隙間から顔を見せた細い月は、森をゆく二人の邪魔にならないよう、足下だけを薄く照らしていた。



 
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