sec2:馬車にのったモッツァレッラ 初顔合わせ
 時刻はすでに1900時。とっぷりと日も暮れ、いい年をした大人がアニメイトなんかで三時間も過ごしてしまったという敗北感が我々をさいなむ。
 うちひしがれた我々の足はいつのまにか、いつもの場所に向かっていた。池袋区民会館前。嗚呼、我々はこの地に呪縛されているのだろうか?
「そうだ、ダメ元で今日はアソコにいってみようよ」
 すの字がいった。
「そうだな、土曜日なら開いているはずだ」
 "アソコ"とは、池袋区民会館前から歩いて1分の距離にあるイタリア料理店のことである。我々がこの地を踏みしめてから十余年、目前を歩いたことは数えきれないほどあるが、中に入ったことはおろか開店しているのを一度も見たことのない幻の店である。
 その店は一見、パブのようにしか見えないアングラな空気が漂よっており、雑誌か何かで紹介されるまで我々はその店の前を素通りすぎるだけだった。
 なにしろその店の周りにはいかがわしい匂いのする店ばかりがある。ソープランドや個室ビデオ屋、あるいは風俗の店募集中のテナント、そんなのばっかりなのだ。
 そもそも店の名前からして怪しい。その名も「馬車にのったモッツァレッラ」だ。イタリア人的にはOKかもしれないが、日本人には「長靴を履いたネコ」ぐらい不条理な名前である。
 まあ、その話は横に置いておくとして、店は地下にあるのだが、そこに降りていく階段は人ひとりがどうにか通るのがやっとというくらいに狭い。しかも階段の途中に食材の入ったダンボールが野積みにされている。
「フランスとイタリアの新聞だ……」
 杉並が呟く。野積みにされたダンボールの緩衝材に外国の新聞が使われているのをめざとく見つけたのだ。
「杉並ィ……」
 ブルースがグッと親指をたてる。いい予感がした。この店の食材はおそらく現地直輸入の本物だ。
 そしてたてつけの悪いドアをくぐると、薄暗い店内に客が充満していた。ここは大人の大人による大人のための店だ。そんな雰囲気が漂っている。
 我々はやけに人なつっこい店の主人らしきおばちゃんに誘導され、店の奥に通された。
「ハイ、メニューはこれとこれとこれ、どれも美味しいよ」
 ワインと食い物とオススメの料理を並べたメニューが三つ並べられた。そのうちの一つは「グリとグラ」という絵本にメニューをはっつけたお洒落なものだった。
 ブルースは煙草をくわえ、ふんぞりかえる。この男、はじめて入る料理屋では必ずこんな不遜な態度をとる。料理人として一家言のあるブルースにとって、この瞬間はまさに「さあ、俺の相手はどんなタフなヤツなんだ?」という道場破りにも似た男らしい気分なのだろう。もっとも、店にとってはタダの嫌なヤツだが。
「ワインはこれでいいね、料理はこれとこれとこれ」
 前菜を中心に適当に注文するとしばらく間が空いた。狭い店に客がたくさん来ているのだから当たり前ではあるのだが、この店、食事が来るまでかなり焦らされる。さんざん待たされてようやく1品目がワインと一緒に来た。
「はい、おまたせ〜」
「おおっ、これが枝付き干しぶどうか!」
「ってまんまやん」
 くわしくは写真をごらんいただきたい。枝付き干しぶどうはまあ、枝のついたままの干しぶどうなのだ。だが、枝から干しぶどうをもぎとる作業がけっこう面白く、また干しぶどう自体も美味しい。これをツマミに赤ワインとしてはあっさりめのワインを一緒に飲むと食欲が増した。
 2品目は「たこサラダ」。一見、普通のタコサラダに見えるが、これがくせ者である。オリーブオイルのたっぷりのったサラダにこれまたたっぷりと粗挽き胡椒がのっている。この胡椒のおかげでただのイタリアンサラダが味の陰影の濃い別の料理に変身しているのだ。
 この店、できる……。ブルースの小馬鹿にしていた表情が徐々に変わりつつあった。
 そして3品目、サンダニエレの生ハムとサラミのトスカーナ風が来た。肉というよりはねっちょりした脂味を食べさせる料理だが、中に入っている大粒の黒胡椒がベタベタ感をうち消した逸品である。
 次に出てきたのはルコラとトマト、そして牛舌の塩釜である。どちらも計算された料理であり、ここらあたりから、三人の箸使いに遠慮が消えていく。
 そしてあらかた頼んだものを食べ尽くした我々は次の注文と新しいワインを頼んだ。第二ラウンドの始まりである。
 ちなみにここまでの料理に対するブルースの評価は「なかなかやるじゃねえか」だった。
 第二ラウンドはいきなりボディへのストレートパンチで始まった。アマロネ(AMARONE)という渋みの強い、非常にクセのあるワインを飲む。ルコラとトマト、牛舌の塩釜、いずれも薄味でこのワインには役不足である。
 さて、ここまで冷たいモノばかり食べてきてそろそろ暖かいモノを食べたいなと思っているとやってきたのが「馬車にのったモッツァレッラ」だった。店名にまでなっている料理だ。よっぽどの自信作なのだろう。
「な、なんだこれは……?!」
「こ、この味は……」
 我々は絶句する。
 何かの生地の上に純白のモッツァレッラ(この発音がイタリアっぽい)がのっているだけの淡泊で上品な料理なのだが、この生地がくせものだった。白くて柔らかくて抵抗感もない。いったいこれはなんなのだ?
「と、豆腐か……」
「いや、豆腐じゃない。豆腐ほど中身が詰まってない」
「じゃあ、なんなんだ……?」
 屈辱感を笑顔で隠しながらブルースが店のおばちゃんにタネを聞くと、食パンを牛乳に浸したものだという。新しい味覚である。
 そして次に来たのがチーズの盛り合わせである。この店ではふつうのチーズとくさいチーズという分類がされているが、これがまたどちらを頼んでも後悔しない。吟味しつくされたチーズを食べることが出来る。
 そして何よりも驚きだったのが、このチーズとアマロネのマッチングである。このチーズのために生まれてきたのかというくらいハマっているのだ。
 チーズを食べ、ワインを飲み、チーズを食べ、ワインを飲む。我々は無口になった。
 この日、私はソムリエというおせっかいなものが何故この世に存在するのかわかったような気がした。この時、ワインとチーズは一体になり、別の何かに昇華していた。
 あとはもう蛇足である。パスタもピザもそれぞれうまかったが、我々はすでに満足していたのだ。会計は一人7千円強。あの至福のあとでは、決して高くない値段だ。
 帰り道、我々は寒空の下でジャズをやっているにーちゃんたちにあった。美食と音楽は人類の最大の幸福であろう。そんなコトを考えた。

ススム
モドル