12月10日
敗者には、語るべきなにもない。
これは、分野に限らず勝負ごとの鉄則だと、俺は思う。
と思っていたので12月8日は1行で済ませてみました。
いや、ただ単に書く気力が無かっただけとも言える。
KO負けだからね。古今東西、誰も文句をつけられない敗北。
格闘技のKO、ギブアップ。将棋、囲碁の投了。スプリント、マラソンの先着。
俺は、顔を叩かれながら自分の体が下がっていくのをはっきりと感じていた。明確に、体が動かずに、自分が敗北したことを自覚した。
スタンディング・ダウンと言うヤツだ。片方が、全く反撃せずに滅多打ちになった時、たいていの格闘技ではレフェリーが試合を止める。
よく、レフェリーに止められて食ってかかる選手がいるが、あれはどうか?
近くで見てれば、殴られてるヤツが戦意を失っているか、それとも反撃の機会を伺って粘っているのか、それくらいの違いは判るだろう、と俺は思う。自分がスタンディングダウンをした実感から、それは切に思う。
よしんば、奇跡的に逆転したとしても、一時でも戦意を失えば、それは敗北者であろう。
人は、己の敗北に謙虚であってほしいと思う。ルール上勝っても、敗北する時はあると思っている。
しかし、ルール上敗北したら、それは絶対に勝利ではありえないとも、俺は考える。
ああ、だから負けていることが多い。勝負と云うのは、負けることが多い。俺が勝負に弱いということ以上に、だから、負けることが、とにかく多いのだ。
くそ、次は勝ちたい。
勝つために負けたと、そう思いたい。
だったら負けを教訓とできるよう努力してみろよ、だと!?

はい、その通りです。

12月8日
1回戦で負けました。
12月7日
明日、アマチュアシュートボクシングの大会に出場する。
シュートボクシングってのは、投げワザありのキックボクシングのようなルール。
グローブとスネあて。アマチュアだとヘッドギアもつけるので結構安全。
オープントーナメントなので、俺のように普段グローブもつけてないような奴も参加できるんだ。
以前もでたことあるんだけどね。
申込してから、当日のリングに立つまで緊張しっぱなしで、実に消耗した。
あれから7年。
1週間前に申し込んだ時はイヤな緊張が続いていたんだが、数日前、急にリラックスが始まった。
これが、俺の人間的成長なのか?と考えている。
7年前とは、やはり違うようだ。

11月3日
今日の徒然肉は長くなりそうだ。
なんとなれば、これはネタではなく、マジな話だからな。長い上に面白く無いかも知らん。

今日は、夕暮れから宵の口にかけて30分ほど板橋区下赤塚を彷徨った。

20年ぶりに降りる、この東武東上線の成増より一駅池袋よりの駅。俺のお袋の実家があったのだ。

弟の出産とか、夏休みとか、よく泊まったものだ。
俺が幼稚園の時に死んだじいさんに手を引かれて、近くのプールのある公園に連れて行かれたことを憶えている。
本好きの伯父の蔵書も魅力だった。俺の読書の原体験の一つでもある。

その伯父が雪山で遭難したのは、俺が小学生の頃だ。
結局生きて見つかったんだが、捜索費用がかさみ、家を売ることとなった。

余談だが、遭難ってのは、生きてても死んでても、山ではバカ高い費用を請求され、海ではまるっきりの只ということらしい。
父方の叔父は釣りの最中に満潮で岩場に取り残されて自衛隊のヘリに釣り上げられたが、ただに1円も請求されなかった、ということだ。
遭難するなら、海に限るぜ、みんな!

閑話休題。
以来20年間訪れることの無かった街を、ふと何気なく訊ねたのだが・・・・そこはしかし、俺の知らない町並みだった。
懐かしいお袋の実家を探そうにも、記憶の取っ掛りとなるような風景自体が作りかえられている。
お袋に電話して住所を確認するが、なんと、住居表示変更で町名そのものが変っていては仕方が無い。
古そうな店を見つけては、その店の旧番地を教えてもらい、少しづつ範囲を狭めていったのだが、一向に知っている景色に巡り合わないので止めました。
生まれてから、同じ街に住み続けている俺には、「昔住んでいた懐かしい町並みとノスタルジー」ってのを味わったことが無い。その擬似体験がしてみたかったのかもしれない。
少なくともその家に付随する記憶は、俺のルーツの1つであるのに間違いはないからね。

ルーツと言えば、そのもズバリ「ルーツ」という小説がある。アメリカの作家アレックス・ヘイリーが、自分の祖先の足跡を探し出し、その人生をひとつの物語にまとめたものだ。
テレビドラマにもなり、大ヒットを呼んだ。
なんだか、その後日本でも家系図を作るのが流行ったそうな。
今でも作るやついるけど。いったい何がしたいんだ?
「あなたの先祖はサムライでした」とか言ってもらって、なにか得るものがあるのか、と問い詰めたい。
“血”の繋がりとか言うヤツに重きを置かない俺は、そう思うのだよ。
アレックス・ヘイリーが安易に自分の血縁のルーツを探っていたのではないことは、作品を見れば判ることだ。
彼は、黒人としてアメリカ社会に生きる自分の、魂のルーツを探したのだ。それを、アフリカから奴隷として連れてこられた先祖クンタ・キンテに見つけたのだ、と俺は思う。

俺などは、自分のルーツを探せといわれても、血縁を遡るということはしないだろう。
今のこの俺の魂が形作られるのに必須であった影響の元を辿っていくことになる。
例えば、俺の魂の一部は江戸川乱歩、山田風太郎の師弟から、直接、間接に少なからず受け継がれている。
この流れは遡っていくと、水滸伝、西遊記などの中国古典の伝奇長編を最も大きな源流として見る事になると、俺は思っている。
俺は、孫悟空の末裔とは、言えるかもしれん。

そして、血の繋がりは抜きにしても、俺の魂の成り立ちで大きな影響を与えたものに、母と父がある。
その2人に影響を与えたものは、では果たして何か?と言う話になると、「俺は人の影響は受けていない、オリジナルなんだ」と嘯く親父は脇においておくとして、お袋はその父親、つまり俺の祖父の名を挙げて憚らない。
それは、ありかと思う。
前述のとおり血縁に重要性を認めたくない俺としては、気質が子孫に遺伝する(“犯罪者の子供は犯罪者予備軍”という、ローンブローゾの説だ)などということは否定するが、家風が伝わっていく、というのは納得できるからだ。

と、いうわけで、板橋区下赤塚には俺の魂のルーツがある。
かもしれない。
また、近いうちに探しに行こうと思ってはいる。
今、住んでいる人には迷惑だろうけどね。

古い徒然肉

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