2002. 5. 8
山刀伐峠〜境田峠 |
2002. 5. 2(水)・ソロ |
この日は午後から時間が空いたので、前から行きたかった尾花沢市の山刀伐峠に行く。 この峠は尾花沢市と最上町を結ぶ峠で、松尾芭蕉が「奥の細道」で最上から尾花沢へと越えた道だ。
とてもキツイ峠越えだったと語れられている。俳人の彼が一句残す余裕もなかった峠でもある。
現在では立派なトンネルでスルッと越えられるが、トンネルが出来る前の旧道(車道)、そして芭蕉が通った旧旧道(歩道)と、
今も静かなこの場所に、道は残っている。
最上町側に車を置いて峠を越えようと思ったが、入り口にロープが張ってあり通行止めの立て看板が...。
仕方なく尾花沢側を往復することにする。
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芭蕉は山刀伐峠を越える前、最上町の境田峠(宮城県側では中山峠と呼ぶ)を越えて宮城県から山形県入っている。
ついでだからと、県境の境田峠まで行くことにした。
山刀伐峠(最上町側)から北に進み、自覚大師が発見したと言われる赤倉温泉脇を通って国道47号線のT字路に出る。
東へ右折すると長く緩やかな峠への登りとなり県境を向かえる...のだが、
途中、47号線沿いに旧道らしき橋と道を見つけたので、すかさずそっちの道に入っていった。
旧道は二股に分かれ、標識も看板もない。
右かな?と進んでいくと、やがて道は細くなり林にブチ当たった。
先に道らしき跡があったので、じてんこを担いで倒木を越えぐんぐん登ったと思ったら道が消えていました...(T.T)
二股を左に行けば良かったのかもしれないが、ショックが大きかったので
橋まで戻りおとなしく国道を走ることにした。
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「封人の家」とは国境を守る役人の家のことで、
仙台領と接する当時の境田村の庄屋(有路家)宅で芭蕉が泊まったと言われている。
代々この村の庄屋だったこの家は、いわゆる役屋(村役場)としての性格をもち、さらに問屋や宿泊の機能を備えており、家の約3分の1は土間と馬屋になっている。
昔、最上町は小国(おぐに)と言う地名で山形県内で随一の馬産地であった。”小国駒”と呼ばれた軍馬で、
江戸や越前地方に移出されていたようだ。
芭蕉は境田峠に来る前、尿前の関で伊達藩の密偵ではないかと疑われて大変なめにあっている。
当時、諸国をぶらぶらしながら俳句を詠む僧衣姿の二人組は、関所の人でなくても怪しく思った事だろう(笑)。
ましてや仙台で絵描き「加右衛門」から貰った松島・塩竃の絵図面を持っていたから尚更...。
何とか関所を抜け、ここ境田峠に来た時には風雨が激しく暗くなったので、
役人さんに泊めてくれと頼んだのだろう....。
で、寝たのが馬屋だった。二泊三日の滞在で奥の細道には次のように綴ってある。。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。
蚤虱 馬の尿する 枕もと
(のみしらみ うまのしとする まくらもと)
尿前の関でのトラブル。風雨の中の境田峠。三日間、馬屋での格闘・・・・。
早く尾花沢にいる清風に会いたかったのではなかろうか。
すっかりコンディションを落として、峠ではペース配分を間違えたために、
山刀伐峠が”難所”となってしまったように思える。
帰りに尾花沢市内にある”芭蕉・清風歴史資料館”に立ち寄ろうと思ったが、休館日でした。
ちゃんちゃん。
「封人の家」を拝館する前までは、何で芭蕉を馬屋なんかに泊めたのかな?と思っていたが、 | |
馬産地ならではのこと。何となく判る気がした。 | |
山刀伐峠は思ったよりハードではなかった(旧道)。次回は最上町側からも行ってみたい。 | |
歩きでの旧旧道や、冬場スノーシューでのトレッキングも楽しそうだ。 | |
国道47号線の旧道では道の選択を誤ってしまった。やはり地図は持っていこう。 | |
ちなみに2万5000図は、羽前赤倉 | |
山刀伐峠旧道沿いに、不法投棄のゴミが目立った。静かな峠道だけに残念。 |
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