中国南北朝〜北朝公主編

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北魏

彭城公主(?〜?)

 

北魏献文帝拓跋弘の娘で、孝文帝元宏の妹(孝文帝の漢化政策より拓跋姓は元氏と改められた)
 
十八歳のとき南宋から降った劉昶の息子劉承諸に嫁いだ。二人は意気投合し仲睦まじく暮らしていたが、

結婚後3年目で劉承諸が死んでしまい二十一歳にして寡婦となる。喪中には夫の一族に対し孝行を尽くし、

喪が明けた後公主の喪中での態度や心がけが評判となり、結婚を求める者が後を絶たなかった。

当時北平公であった馮夙が皇室とのつながりを持とうと、彼女との婚姻を望むようになった。

馮夙の一族は名門で、先の皇太后である馮氏が出ていたが、馮夙自身はわき腹であった上、末弟であった為

出世は難しいと考えたのである。また彼の姉馮潤が孝文帝の寵愛を得て皇后となったことを利用して、

姉を通じて帝に彭城公主との婚姻を認めてもらうとした。皇帝自身は皇后から話を聞き、婚姻を公主に

持ちかけたが、公主自身が嫁がないと拒否し成立しなかった。

あせった馮夙は孝文帝が南討伐中に病に倒れている際、姉の協力により強引に妻にしようと計画を立てたが、

計画を知った公主は驚き、そのまま兄のいる陣営へ行き事の次第を兄に確認した。帝は公主を落ち着かせようと

したが、公主が馮皇后の身持ちの悪さを訴え、更に皇帝の帰りを阻止しようと呪いをしていること話すと

皇帝は怒り、病をおして帰京し、早速皇后と淫行に耽っていた者たちを処刑し、皇后を幽閉した。

ところが、兄が亡くなり皇太子の元恪が皇位に継ぐと、今度は皇帝の生母の一族である高肇が妻にと望んだ。

しかし高肇の狡猾さを見抜いていた公主はまたも拒否、その替わりに高平公主が高肇に嫁くこととなった。

公主はある日孝文帝時代の有能な官吏の張彝の美名を聞き、彼の元へなら、と考えるようになった。

しかし、これを知った高肇がことごとく邪魔をしたため、この婚儀は成立せず、公主は悲しみに暮れた。

その後、皇帝の命により大臣の王粛に嫁ぎ、一生を終えた。

 

明月公主(?〜534年?)

 

 北魏広平王元怦の娘で、北魏孝武帝元修の寵姫。

 孝武帝は荒淫の君主として知られ、皇室の婦女は言うに及ばず、異母姉妹や従姉妹達を嫁に出すことを許さず、

次々と宮中に召し出して愛妾としていた。明月公主も孝武帝の異母妹であったが、特に寵愛された。孝武帝は当時

実力者高歓(後の北斉神武帝)の長女を皇后としていたが、高歓を嫌っていた為夫婦仲は冷えていた。

534年孝武帝が高歓の専横に腹を立て、当時高歓と対立していた宇文泰を頼って、明月公主らと共に長安へ

脱出した。これにより高歓は別の皇帝を擁立し、北魏は東魏と西魏に分裂することになった。

 こうして長安に到着した明月公主ではあったが、宇文泰はかねてより彼女と孝武帝の乱交を嫌っており、

長安に着いてすぐ宇文泰によって殺されてしまった。

 

蘭陵公主(572604)

 

隋文帝・楊堅の五女で字は阿五。美しく聡明で読書を好んだ為、楊堅は5人いた娘たちの中で彼女を

一番可愛がった。また彼女自身も歴史上の列女・賢婦になりたいと考えるようになり、母の独狐皇后も常々

婦道を教えた為、彼女は善良な性格を養うこととなる。彼女が年頃になると、文帝は掌中の玉である彼女に良い夫を考え、

司徒の王諠の息子である王奉孝に嫁がせた。しかし数年も経たないうちに王奉孝は死亡してしまった為

僅か十代で寡婦となり、更に舅が不敬罪で死刑になった為、彼女はまた王宮に戻ることになる。

 年若く寡婦となった娘のために文帝は再婚先を物色しはじめた。候補として当時晋王だった楊広(後の煬帝)

押していた蕭瑒(晋王妃蕭氏の弟)と、太子親衛の柳述の2人が上がったが、結局文帝は柳述に再婚させた。

 「公主が降嫁する」ということで戦々恐々としていた(当時文帝の公主は驕慢だという噂があった)柳家の人々は

蘭陵公主の慎み深い姿を見て、日をおかずに蘭陵公主を尊敬するようになっていった。夫となった柳述も公主の態度や

人柄に好意を抱き、また公主自身も柳述を敬愛するようになり、その仲の良さや柳家の繁栄は都中の羨望の的となった。

 この再婚に不満をもっていた楊広は、604年帝位に就くと柳述をわざと辺境へ流し、公主と無理やり別れさせ、

別のところへ嫁がせようとした。しかし彼女は従わず、公主称号の返上と共に柳述のところへ行くことを願い出たが、

逆に楊広の怒りを買い認められなかった。この結末に打ちのめされた公主は結局失意のまま亡くなった。

彼女の葬儀に関しても楊広は冷淡に扱い、その冷酷さが朝野の者達の同情を誘ったという。

 

南陽公主(?〜?)

 

隋煬帝楊広の長女として生まれる。非常に美しく、優しく思いやりのある性格の為、周りの人々から愛された。

十四歳で許国公宇文述の息子宇文士及に嫁いでからも変わらず、結婚後も婦道を守り優しく慎み深い態度から、

都中の尊敬と敬愛を集めた。

 隋末の618年、夫の兄である宇文化及が煬帝(このとき孫の楊侑に帝位を譲っていた)を楊州で殺し、煬帝の皇后

蕭氏を利用し、煬帝の弟楊秀の子を立て自らは大丞相と称した。この事態に公主にはどうすることも出来ず、夫に

従う他なく、地方を流転することになる。公主は宇文一族に従っていたが、各地の戦乱の中で宇文一族は竇建徳に敗れ

捕虜となり、夫と離れ離れとなり息子の宇文禅師は殺されてしまった。彼女自身は尼になることを願い出て許された為、

そのまま出家してしまった。

 竇建徳が李淵、李世民率いる唐軍に敗れた後、公主は故郷である長安に戻ったが、そこでは先に唐に降っていた

宇文士及が役職を得て暮らしていた。宇文士及は公主に還俗をすすめ、また夫婦として復縁したいと申し出た。

しかし公主は「あなたと私の家は既に仇同士の家となり、今更そのように言われても夫婦にはなれない」と答えた。

それでも復縁を求める宇文士及に対し「必ず死ぬときが来ます。そのときにでもお会いできるならお会いしましょう」

と答え、復縁話をきっぱりと断った。宇文士及はただただ泣いてその場を去るしかなかった。

その後、南陽公主は長安内の寺院でひっそりと余生を過ごした。

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