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南宋
会稽公主(?〜?)
南宋高祖・劉裕の娘で、名は興弟。母親は臧愛親(高祖皇后)。成長してからは振威将軍徐逵之に嫁いだ。
正妻の娘であるが早くに母を失ったこともあり、非常にしっかりとした性格に育った。父帝からの信頼も厚く
帝は宮中の事務は全て会稽公主に任せ、その期待に答えていった。また彼女は腹違いの兄弟たちとも仲がよく、
特に異母弟の劉義隆(後の文帝)と仲が良かった。
劉義隆が即位した後も、出征の際には公主に宮中の監督をさせた。しかし自分の思う通りにいかないと
泣いて不満を訴え、文帝を困らせることもあったが、父帝のときと同様にしっかりと宮中を守っていった。
公主は徐逵之との間に息子をもうけるが、その息子徐湛之が時の大臣であり友人の劉湛の犯した罪に
連座させられ死罪にされそうになった。これを知った公主はすぐ文帝の下に赴き、持参した錦の袋を示した。
その錦の袋には、父劉裕がまだ貧しかった頃に、公主の母臧愛親が手ずから縫い上げた衣服であった。
それを見せながら「私たち兄弟は本来貧乏であったのに(身分が高くなり)飽食するようになると、
私の息子まで殺そうとするとは」と涙ながらに訴えた。これを見た文帝は心動かされ、徐湛之は無事を得た。
その後も弟帝を内側から補佐し、人々から敬愛されながらも、宮中の皇位争いに巻き込まれるなど
苦労の絶えない一生を送った。
山陰公主(446〜465)
南宋孝武帝劉駿の長女で、母は王憲嫄。同母弟に前廃帝の劉子業と豫章王の劉子尚がいる。
父劉駿は本来なら皇帝に継げる立場ではなかったが、453年時の皇太子劉劭が文帝を殺害した為、
皇太子軍を破って即位劉劭らを次々と殺していった。即位の際、母の王憲嫄が皇后に立てられ、弟の子業が
454年に皇太子に立てられた為、山陰公主は皇太子の同母姉、唯一の嫡出公主としてその身分を鼻にかける
ようになり、段々と驕慢になっていった。
公主は贅沢を好み、着る物や装飾品などに贅を凝らし、また大の男好きで、ある日劉子業と談笑していた時
「あなたと私は男女の違いこそあれ、同じ父母から生まれた子供なのに、あなたは大勢の嬪妃たちがいるのに
私にはただ附馬一人(夫の何戢のこと)だけ。どうしてこんなに隔たりが大きいのか」と嘆いた。姉の訴えを聞いた
子業はすぐに30人の美男子を選び、姉のもとにはべるよう命じたという。
子業が464年弟の即位と共に長公主となったことにより行動は更にエスカレートし、公主は弟と共に入宮し
自分達の都合のいいように政治を操っていった。更に二人で共謀し帝の補佐にあたっていた叔父の江夏王劉義恭や、
柳元景、顔師伯らの有能な政治家を次々と殺害し、姑母にあたる新蔡公主(劉英媚・文帝の第十女)に一目ぼれした
子業の為に新蔡公主の夫を殺し、強引に彼女を入宮させ謝氏に改姓させるなど、倫理や常識を逸脱した振る舞いを
平気でやっていった。
465年、このような宮中の乱れを察した叔父劉ケ(後の明帝)らによって、子業は殺害、山陰公主も帝と一緒に
政治を乱した罪を問われ、毒酒を送られ自害させられた。
陳
楽昌公主(572〜?)
陳の宣帝陳頊の娘で後主陳叔宝の妹。才色兼備の公主として青年貴族達の憧れの的となり、公主を娶りたいと
言う者が後を絶たなかった。彼女は兄叔宝と仲が良く、幼い頃から太子宮に遊びに行ったりしているうちに、
太子舎人(皇太子の側に使える文官)であった徐徳言に好意を抱くようになり、彼も公主に好意を持っていた為、
密かに相思相愛の仲となった。この時は徐徳言の身分が低かった為、公主の夫としては不釣合いと言う声もあり
成就はならなかったが、叔宝が徐徳言の人柄を愛していたこともあり、叔宝が帝位に就くと彼らの結婚は認められ、
徐徳言も公主の夫として相応しい位ということで、後に駙馬都尉に封じられた。
しかし時代は南朝末期、北方では隋が明日にでも陳を征伐しようかという勢いであった。徐徳言は公主に
「あなたの能力や容貌をもってすれば、国が滅びてもきっと生き延びられることが出来るだろう」と話し、
鏡を二つに割り、その破片をお互いが持つことで、正月の十五日に再会するための目印とした。やがて陳は滅亡、
徐徳言は約束の正月十五日に半分の鏡を持ってやって来たが、樂昌公主は現れず公主が持っているはずの鏡が
市にいた老人が持っていたことを不思議に思った徐徳言は、老人に鏡の由来を聞いた。そこで楽昌公主が
後主ら他の皇族と共に隋の大興城(今の長安)に連れ去られ、陳征伐軍で功を立てた楊素の妾として与えられた為、
約束を守れなくなってしまったので、せめて鏡だけは夫の下にと老人に手渡したことを知った。
徐徳言は涙を流し、
鏡与人倶去 鏡帰人不帰 鏡は人と共に去り 鏡は帰ったが人は帰らなかった
無復嫦娥影 空留明月輝 復(ふた)たび嫦娥の影は無く 空しく明月の如き輝きを留めている
という詩を残しその場を去っていった。
一方樂昌公主は楊素に寵愛されながら徐徳言を忘れられずにいたが、ある日徐徳言の詠んだ詩の存在を知り、
悲嘆に暮れる毎日を送っていた。公主の悩みを知った楊素は部下に命じ徐徳言を探し出し、彼に公主と再び夫婦に
なるように言った。楊素の計らいに感謝した二人は、そのまま徐徳言の故郷に行き名前を隠し子宝にも恵まれ
慎ましやかに一生を過ごした。
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