目次に戻るにはこちら。
北魏
文成帝皇后 馮氏(442〜490)
秦州、雍州刺史馮郎の娘で、母は王氏。長楽信都(現在の河北省)の出身。
父はもと漢人であったが、祖父と伯父は五胡十国の国の一つ、北燕の国王であった。
その後北魏に国を滅ぼされ父を殺された後、姑母が太武帝拓跋Zの昭儀であったため、姑母を頼り後宮に入った。
十四歳で文成帝の貴人となり、後に皇后に立てられた。文成帝が亡くなった時はあまりの悲しみに火中に身投げしたが、
救出され奇跡的に一命を取り留めた。皇太后となった後、即位した献文帝(実の子ではない)をよく補佐し、また事前に
謀反の芽を摘み取るなど、政治的手腕は抜群であった。
467年に拓跋宏(孝文帝)が産まれ、その養育の為一旦は政治の世界から離れるが、献文帝が当時彼女の寵愛していた
李奕を殺害した為、献文帝を毒殺し自分の養育していた拓跋宏を即位させ、太皇太后として政務に復活した。
彼女は北魏時代の代表的な政策である俸制禄、三長制、均田制を発布するなど政治的手腕を発揮したものの、
手腕を発揮したものの、早くに夫と死に別れたことから、お気に入りの家臣をはべらし、また南斉からの使者が
あまりにも美男子だった為、自分の宮殿に留めさせたこともあった。
490年に病死。文明太皇太后(史称だと文明皇后)と称される。
孝文帝皇后 馮氏(476〜500?)
太師馮煕の娘で、長楽信都(現在の河北省)の出身。名は清。北魏文成帝皇后馮氏の姪であり、
また彼女の母親は景穆太子拓跋晃の娘博陵公主である為、北魏皇室とは深いつながりがあった。
文明皇太后は臨終の際、既に孝文帝に嫁いでいた馮清を皇后にするように遺言した。490年に皇帝が洛陽遷都を強行した際も、
皇太后が亡くなると、3年間の喪の後に18歳で皇后に立てられた。
皇帝となった元宏とは大変仲が良く、皇帝が南征伐を行った時には留守を任される程信用され、馮皇后は率先して
六宮の人間を洛陽に率いて皇帝を安心させるなど、皇帝の考えには理解を示した。
しかし彼女の姉である馮潤も元宏に嫁いでおり、かねてより皇后位を狙っていた馮潤の企みにより皇帝の寵愛を失い、
497年に皇后位を廃され庶人に落とされた。廃后後も馮清は貞操を守り、出家し瑶光寺の尼となりそのまま寺中で死亡した。
史上では廃皇后と称される。
孝文帝皇后 馮氏(469〜499)
太師馮煕の娘で、長楽信都(現在の河北省)の出身。名は潤。馮清の姉にあたる。483年に14歳で入宮し貴人に立てられた。
皇帝に寵愛されたが3年後喀血をするなどの病を得た。文明皇太后は病気が皇帝に伝染するのを恐れた為、
孝文帝が馮貴人のもとに行くのを禁止し、その後病気静養の為、彼女は一時的に出家した。ところが、療養している間に
知り合った高菩薩と通じるようになった。
その後病気が完治し、後宮に戻った後も皇帝の寵愛は変わらなかったが、同じ孝文帝に嫁いでいた馮清が1年半前に
皇后に立てられたことを知り、妹に対して非常に強い憎しみを覚えるようになっていった。馮潤は妹を陥れる為、
高菩薩から媚薬を入手し、それを肌身離さず身に付け皇帝の心を捉えることに成功、そうしておいて妹を陥れるような讒言を
繰り返したことにより、とうとう妹を皇后位から追い落とすことに成功、念願の皇后に立てられた。
皇后に立てられた後も高菩薩と何度が通じ、孝文帝が南討伐で留守にした際も、高菩薩を後宮に引き入れ淫行に耽っていた。
孝文帝が軍中で病に倒れていたときでさえも、高菩薩を側から離さなかったという。また皇帝がいない時を狙い、
自分の異母弟である馮夙と孝文帝の異母妹である彭城公主との婚儀を強引に決行しようとしたが、彭城公主に逃げられ、
更に公主の口により孝文帝に自分達の淫行を知られてしまう羽目になる。
孝文帝は最初信じることが出来なかったが、途中で軍を引き返し馮潤に事実を問い詰められるが、馮潤は事実を隠蔽し
決して淫行を認めようとはしなかった。孝文帝は病気の身をおして戻ってきた為、病気が更に悪化しこれ以上の詮索が出来なく
なっていたが、弟王に命じ淫行にかかわった高菩薩を殺害させた。また、馮潤に対して皇后位のまま幽閉させ、
自分の臨終の際には彼女に服毒自殺させるよう命じた。
孝文帝の死後遺命を執行する為、孝文帝の弟王達が馮潤に服毒自殺するように命令したが、彼女が拒否した為、
屈強の者に彼女を押さえつけさせ強引に毒を飲ませ、中毒死させた。幽閉されたことにより、史上では幽皇后と称される。
宣武帝皇后 胡氏(493〜528)
北魏司徒胡国珍の娘で、母は皇甫氏。安定臨(現在の甘粛省)の出身。最初は承華世婦(後宮官位で二十七世婦の一つ)として
後宮に入り、そこで見初められ元詬(後の孝明帝)を産み、充華(後宮官位の一つで九嬪の末位。世婦より位は上)へと昇進した。
その頃北魏では「殺母立子」(皇子が立太子すると産みの母は死を賜うこと)の風習があり、後宮の多くの妃達が産む時は公主を
希望し、また自分の産んだ子が皇太子に立てられないように願っていた。しかし、胡氏のみ「皇帝に一人も皇子がいないのに、
何故殺されることを恐れるのか?このままでは王朝が滅びます」と力説し、身ごもった時も周りが堕胎を勧めるのを全て拒絶した。
果たして胡氏は男子を産みその子が皇太子に立てられたが、皇帝自身この風習を快く思わなかったことから廃止された為、
胡氏は一命を取り留めた。
515年に宣武帝が亡くなり元詬が即位すると、皇太妃に立てられた(皇太后は別に立てられた)が、太后に対し無実の罪をなすりつけ
殺害、新たに皇太后に立てられると、幼い皇帝に代わり政務を執った。彼女の政治的才能はあるにはあったが、
仏教に心酔しており壮麗な寺を次々建築させたりした。
また夫亡き後、清河王元懌(げんえき)に迫り淫欲に耽るなどの乱交をはたらき、その為臣下から非難を受け、全ての権力を剥奪され
一時軟禁された。その後邪魔な臣下を殺害して復権し、異を唱える者は殺害、自分の寵愛する者を重用するなど
専横を振るうようになっていった。
これを嫌悪した元詬と対立するようになり、遂に528年胡氏は皇帝を毒殺、別の公子(実は公主であったのをわざと「公子」として公布)
を立てた。しかし皇帝が毒殺される直前に出した密詔を受けた将爾朱英に首都洛陽に突入され、胡氏は幼主とともに捕らわれた。
その後出家して命を請うたが河に沈められ殺された。
孝庄帝皇后 爾朱氏(511?〜556)
北魏驃騎将軍爾朱英の娘で、名は英娥。
爾朱氏は最初孝明帝元詡の妃嬪であり、528年に孝明帝が死ぬと出家していたが、父親の爾朱英が元子攸を皇帝に冊立させると
自身の権力固めをする為、彼女を還俗させて皇后に立てた。皇帝の冊立に父親の力があったことを知っていた彼女は、
日頃からそのことを持ち出したため、夫婦仲は最悪であった。
530年爾朱英の弟の爾朱兆が孝荘帝に殺害されると、爾朱英配下の武将であった高歓が洛陽に攻め入り
孝庄帝らを殺害した時、爾朱氏は他の妃達と共に高歓に捕らえられ、そのまま高歓の妻となり、高浟を産んだ。
547年高歓が亡くなると息子の高浟が彭城王に封ぜられ、それにより爾朱氏も彭城太妃(太妃は親王の母親に与えられる称号)と
称された。
556年義理の息子の高洋(550年に北斉を建国し、初代皇帝となっていた)に関係を迫られたが、これを拒絶した為殺されてしまった。
孝武帝皇后 高氏(515?〜?)
北魏大丞相高歓の長女で、母親は婁昭君。
532年高歓により冊立された孝武帝元修の皇后として後宮に入ったが、孝武帝が高歓を嫌っていたことと、彼の寵愛が異母妹の
明月公主にあった為、夫婦仲は甚だ悪かった。孝武帝自身荒淫で、自分の異母姉妹、従姉妹など身内の女性を全て自分の後宮に
入れてしまい、他のところに嫁に出さなかった。
534年かねてから高歓に不満をもっていた孝武帝は、明月公主たちと共に長安の宇文泰のもとに出弄した為、高歓は
元善見を帝にし(孝静帝)、都を鄴(ギョウ)に移した。これにより北魏は鄴(ギョウ)と長安の東西に分裂し、それぞれ東魏・西魏と
称されるようになった。ちなみに長安に逃げた孝武帝と明月公主だったが、宇文泰が彼らの爛れた生活を嫌い、
まず明月公主を殺した。これにより孝武帝は宇文泰を憎むようになったので、ついに孝武帝は宇文泰に毒殺された。
この知らせを受けた東魏では、孝静帝は高氏に喪に服すように言ったが、彼女にその気は全く無かったらしく、
既に洒落者で有名だった彭城王元韶を見初めており、それを知った高歓により、元韶の元に改嫁し、彭城王妃となった。
東魏孝静帝皇后 高氏(524?〜?)
北魏大丞相高歓の次女で、母親は婁昭君(?)。
537年孝静帝は高歓の次女の高氏を皇后にしようとしたが、帝がこのとき14歳、彼女もまだ14歳であった為、
幼すぎると言う理由で辞退された。539年になってようやく高氏は皇后に冊立された。
550年彼女の弟高洋により北斉が建国されると、孝静帝は廃され中山王に降格させられた後、翌年毒殺された。
孝静帝が中山王に降格させられたことで彼女も中山王妃となったが、孝静帝の死後、北斉尚書左僕である楊遵彦(楊愔)に改嫁した。
西魏文皇帝皇后 乙弗氏(508〜538)
北魏エン州刺史乙弗(王襄)の娘で、母親は北魏孝文帝の娘の淮陽公主。河南洛陽の出身。
523年16歳のときに元宝炬(後の文皇帝)と結婚し、530年元宝炬が南陽王に封爵されると王妃に立てられた(二人は孝文帝の
孫同士、つまり従兄妹関係にあたる)。
535年に元宝炬が即位すると、乙弗氏は皇后に立てられた。彼女は礼節をわきまえ、華美な食事をせず、
豪華な衣服や装飾品を一切身につけなかった。また、夫婦仲も大変良く十余年の間に12人の子をもうけたが、殆どの子が
夭折してしまったが、長子の元欽と次子の元戌は無事に成長していった。
535年に北魏が東西に分裂した後は、西魏の国力は大いに削がれてしまった。これをみた柔然は東西の矛盾を突き
勢力を拡大させようと考え、まず東魏には可汗の妻に蘭陵公主(孝文帝の娘)を娶り和親を結び、柔然と東魏が組んで西魏を攻撃、
西魏はこの戦争に敗北し、柔然と和親を結ぶこととなった。
その際の条件に「可汗の娘の郁久閭を妃として納め、更に皇后に立てる」という項目があった。
「これが守れないようなら、再び西魏を攻める」と言われた為、仲の良い乙弗氏を廃后させるに忍びなかった皇帝は悩んだが、
皇帝の悩みを察した乙弗氏は国家の利益が一番と、自ら皇后位を辞退した。こうして、538年乙弗氏は廃后の後出家、
代わりに郁久閭氏が皇后に立てられた。
更に、皇帝の乙弗氏への未練を断たせる為、彼女を長安に遠ざけ、次男の元戌を秦州刺史として一緒に付き添わせた。
妻との離別の際、皇帝はたいそう傷つき、一人部屋の中で乙弗氏の髪の毛が伸びたら来乙弗氏を皇后に復活させると
叫んだ。これを聞いた家来が郁久閭氏に密告した為、郁久閭氏はすぐに父に報告し、柔然の軍を城下に派遣させ
乙弗氏に死を賜るように迫った。このため城下には柔然軍が押し寄せ、今にも戦闘が起きる状況となってしまった。
これを見た皇帝は「柔然は一女子のために百万の軍を送り込み、禍を除けと要求してきている。朕は将校達に何の面目が
立とうか」と嘆き、この騒ぎを収める為秦州にいる乙弗氏に自殺を命じた。
自殺に際し乙弗氏は使いに「私は皇帝の健やかであらせられることと、天下が落ち着くことを望みます。死んでも
恨みません」と言い残し、31歳で服毒自殺した。後に文皇后と謚される。
西魏文皇帝皇后 郁久閭氏(525〜540)
柔然可汗阿那瑰の長女で、538年西魏文皇帝元宝炬の皇后となった。
538年の講和の際、父の阿那瑰が長女の郁久閭氏を皇后にすることをの望んだ為、皇帝に乙弗皇后を廃后させるよう迫り、
希望通り郁久閭氏を皇后とさせることに成功した。
その後、皇帝と乙弗氏の縁が切れていないことを知った郁久閭氏は、父に柔然軍を城下に進めるよう依頼した。
その騒ぎを収めるため乙弗氏は服毒自殺したが、郁久閭氏は良心の呵責に悩ませられるようになり、
毎夜乙弗氏の夢を見るようになった。
540年郁久閭は出産を迎えたが、そのときも乙弗氏の夢を見て神経が張り詰めたせいか、難産となり
そのまま亡くなってしまった。わずか16歳であった。
上に戻るにはこちら。
北斉
文宣帝皇后 李氏(528年?〜584年?)
北斉の名門士族趙郡李氏である李希宗の娘で、名は祖娥。文宣帝高洋がまだ太原郡公であったときに
夫人となり、545年に高殷(後の北斉廃帝)を産み、また高紹徳(後の太原王)も産んだ。549年に高洋が斉王に封じられると、
斉王妃となった。
550年に高洋が孝静帝を廃して北斉を建国、皇帝と称したが、李氏を皇后とすることに反対する人たちが出てきた。
反対勢力の中心は宗室の高徳正ら鮮卑人であり、北斉は鮮卑族の建立した国であるから、その国の皇后が漢人であっては
ならないというのが理由であった。これに対し楊愔ら漢人官僚は漢魏の故事、正妃が皇后となるべきだと反論した。
結局彼女が男子を産んでいること、李氏自身が皇后にふさわしい容徳であることということで、そのまま皇后となった。
高洋は皇帝となってから段々と好色な面を表すようになり、高氏、元氏宗室の女子に対し乱交を行い、
更に左右侍従と宗室女子を集め乱交パーティーを開かせ、彼はその様子を見ながら一人悦に入っていたという。
また、後宮の宮嬪らを鞭で次々と殺していった程狂暴であったが、李皇后にだけは礼をもって接し、彼女を尊敬して
自ら「可賀敬皇后」と呼んでいたという。
559年に高洋が亡くなり皇太子高殷が即位すると、李皇后は皇太后と称されるようになったが、翌年高洋の弟高演(孝昭帝)が
高殷を廃し皇帝と称した為、彼女は「昭信皇后」と呼ばれるようになり、昭信宮に住むようになった。
560年高演が亡くなり皇太弟高湛(武成帝)が即位したが、武成帝は非常に荒淫で知られており、正妻の胡皇后の宮で
一晩を過ごした後、昭信宮に闖入し李氏と関係を持とうとした。李氏はこれを拒絶したが、拒絶を受け激怒した
武成帝が「もし言うことを聞かなければ、お前の子供を殺す」と脅した為、この要求に屈してしまった。
その後武成帝は度々昭信宮に訪れるようになった。
ある日息子の高紹徳が会いにやってきたが、彼女は会おうとしなかった。高紹徳は「母上はお腹が大きいから(妊娠しているから)、
私に会ってくださらないのだ」と言い、これを聞いた李氏は自分の身の上を恥じ、その後女の子を出産したが、
李氏は人に顔見せできないと、女の子を溺死させてしまった。
これを聞いた武成帝は大変怒り「お前は私の娘を殺した!私がお前の子供を殺さないで何になろう!」と彼女の宮に乗り込み
李氏の目の前で高紹徳を殺してしまった。悲しむ李氏を見て更に怒りを覚えた武成帝は、左右の者に命じ、彼女を裸にし鞭で打ち、
弱った彼女を袋に押し込み池に落としてしまった。武成帝が去った後、宮女たちが慌てて袋を引き上げ、
李氏を救出し何とか一命を取り留めた。心身ともに弱った李氏はその後出家してしまった。
北斉が滅んだ後李氏は関中に送られたが、隋朝が興ると彼女は故郷の趙郡に帰され、そこで死去した。
文宣帝昭儀 段氏(531?〜?)
北斉武威王段栄の娘で、段韶は兄にあたる。
段氏は才色兼備の女性で、548年ごろに高洋の妾となったが、結婚初夜段韶の妻元氏は夫婦の寝室に入り、
高洋をさんざんからかった為、これを音にもった高洋は段韶に「(今度会ったら)お前の夫人を殺してやる」と息巻いた。
これを聞いた元氏は恐れおののき、高洋の母親である婁氏のところへ逃げこんだ為、事なきを経た。
550年高洋が皇帝を称したとき、段氏を皇后に立てるようにと出張した人がいた。段氏の父親段栄は、高洋の父高歓と
義兄弟にあたる間柄(段栄は婁氏の妹を妻としていた)だったので、婁皇太后は大姨に当たるというのがその理由であった。
その為段氏と李氏は熾烈な争いを繰り返していたが、高洋の心は李氏に傾いており、更に李氏はもともと斉王妃であったこと、
既に二人の息子を産んでいたこともあり、結局李氏が皇后に、段氏は皇后の次の位である昭儀に甘んじることになった。
559年文宣帝が亡くなり段氏は寡婦となったが、565年高洋の甥であたる高緯が即位すると、録尚書の唐邑と再婚した。
文宣帝嬪 薛氏(生卒不明)
もとは娼妓の家の娘で、14〜5歳の頃清河王高岳の家に歌妓として入る予定であったが、芸妓としての
才と美貌により、文宣帝に召され寵愛された。これを聞いた薛氏の姉は妹を探そうと入宮したが、彼女も文宣帝に愛された。
高岳は文宣帝の堂叔であった為、薛氏を独占しようとして遂に彼女を嬪とした。
しかし、その後も高岳と薛嬪の関係を疑った文宣帝は、高岳に自殺を命じ、薛嬪の姉も鋸で体を切り刻むと
いった残酷な方法で殺害した。このとき薛嬪は文宣帝の子供を身ごもっていたが、文宣帝は遂に彼女も殺して
しまった。ちなみに、文宣帝は薛嬪を殺した後、彼女の骨を使って琵琶を作らせるという変態振りを発揮している。
孝昭帝皇后 元氏(535?〜?)
山東の人で、北斉開府の元蛮の娘で、548年頃に高演(後の孝昭帝)に嫁ぐ。550年高洋が帝を称し、高演が
常山王に封ぜられると元氏を王妃として立てた。557年頃に「歩六孤」の姓を賜り、常山王妃歩六孤氏と
称されるようになる。560年高演が文宣帝の息子の高殷を廃して帝を称したとき、元氏が皇后に冊立された。
その翌年孝昭帝が亡くなり、帝の弟の高湛が帝位に昇ったが(武成帝)、孝昭帝の柩を運ぶ際、武成帝は元氏が
万病に効く妙薬を持っているということを聞き、内侍を元氏の屋敷に向かわせて薬を探させた。しかし、元氏が
薬を出さなかった為、武成帝は彼女をさんざん罵り、彼女と彼女の家族との関係を断ってしまった。これにより
彼女の父の元蛮も罷免されてしまった。
577年北斉が滅亡した際、元氏は北周の宮中に入れられたが、当時北周の宰相であった楊堅が彼女の身の上に
同情したため、後に原籍の山東に帰され、そこで死去した。
武成帝皇后 胡氏(537?〜589?)
安定(現在の甘粛省定西県)の人で、胡延之の娘で、高湛(武成帝)が長広郡王に封ぜられた552年頃、
胡氏は王妃に立てられた。557年に高緯(後の後主)を産み、561年高湛が即位すると皇后に立てられ、
高緯もその翌年皇太子に立てられた。その後、和士開らの甘言にのせられ堕落していった高湛が、歓楽を
し尽くす為に565年に皇太子に位を譲り太上皇となった為、胡皇后は皇太后に封じられた。
胡氏は美貌の持ち主であったが、一方で淫蕩であった。最初高湛の寵臣である和士開と遊びを通じて
淫らな関係となった。568年に高湛が死亡した頃、この二人の関係はますます頻繁となっていった。
この関係を苦々しく思った趙郡王高睿、司空婁定遠らが後主に諫言したが、胡皇太后に罪が及ぶことを
恐れた後主は決心できなかった。
胡皇太后は人心を把握する目的で宴席を開いた際、高睿が皇太后に「和士開は先帝を篭絡した悪人である」
云々と奏上したため、胡皇太后の怒りを買ったが、その後強気な態度を崩さなかった高睿らの活動により
和士開は一時外に飛ばされることとなった。その際高睿は婁定遠に対し、和士開を絶対に宮中に入れては
ならないと言ったが、和士開は二人の美女と珍品財宝で婁定遠を買収、まんまと皇太后と会うことに成功する。
このとき和士開は皇太后に邪魔者の削除についての計画を持ちかけ、皇太后はその計を用いて、婁定遠を
放逐させ、高睿の殺害を行った。一方和士開は準陽王に封ぜられ、引き続き胡皇太后との関係を続けていった。
しかし、胡皇太后と和士開の仲を苦々しく思った琅琊王高ゲンが皇太后の妹婿馮子宗と和士開の不仲を利用、
後主が妃達と戯れているときに奏上するよう馮子宗に忠告、馮子宗はそのとおりに奏上した。後主は遊びに
夢中になっており、さっさと処理しようとした為、結果的にこの奏上を受け入れられ、和士開は処刑された。
胡皇太后はその後、礼佛の名のもと僧曇献と通じるようになり、彼の歓心を買う為宮中の大量の金銀財宝を
与え、珍しい装飾品を曇献の寝室に運び込んだ。また、大量の僧都たちを宮殿に引き入れ読経させている間、
胡皇太后と曇献は日夜淫楽の限りを尽くした。このことを知っていた他の僧都たちは冗談混じりに曇献の
ことを「太上皇」と称した。
このことを後主に奏上された。最初奏上文を信じなかった後主だったが、色々調査しているうちに
事実であると認めた為、曇献を死刑、尼に扮して皇太后の寵愛を受けていた二人の僧侶も処刑された。また、
胡皇太后も後主により干北宮に幽閉された。以後皇太后と後主の不仲は中々解消されることは無かった。
577年に北斉が北周に滅ぼされた後、胡皇太后は長安に流落、娼妓となり歓楽の限りを尽くし、589年頃
50歳余りで亡くなった。
武成帝夫人 李氏(生卒不詳)
李氏は趙郡(現在の河北省超郡)の人で、李叔譲の娘である。文宣皇后李祖娥とは従姉妹にあたる。
李氏は最初東魏孝静帝の宮嬪であったが、550年に高洋が北斉建立の際、斉宮に没収され、その後長広郡王で
あった高湛の夫人となった。557年には高綽を産むが、その数時間後に正妃故氏に高緯が産まれ嫡子と
称された為、李氏の生んだ高綽は高湛の二子とされた。後に高綽が南陽王に封されると南陽太妃と称された。
李氏の姉は南安王高思好の妃であったが、後に南安王が謀反を起こし、李氏の姉は連座させられ焼死した。
この知らせを聞いた李氏は精神的に大きなショックを受け、精神病を患い亡くなった。
上に戻るにはこちら。
北周
太祖文帝皇后 元氏(511?〜551?) NEW
元氏は北魏孝武帝元修の妹であり、初めは平原公主に封されており、開府であった張歡に嫁いだ。
しかし、夫である張歡は貪欲な性格で、公主である元氏に対しても無礼を働くばかりか、公主の侍女や婢らを
殺害していったため、元氏は怒り兄である皇帝にこのことを訴えた。妹の訴えを聞いた孝武帝はすぐに
張歡を処刑した。
その後元氏は馮翊公主と改封され、北周太祖宇文泰と再婚し542年に宇文覚(後の孝閔帝)を産んだが、
大統17(551)年亡くなった。556年12月に成陵に合葬された。
さらにその後息子の宇文覚が皇帝に即位すると王后の位を追尊され、559年には義理の息子である
宇文毓(北周明帝、宇文泰の庶長子。宇文覚は三男)によりさらに皇后の位を追尊された。
※ちょっとしたこと
『周書』ですと元氏の没年は大統7年(541年)と記載されておりますが、『北史』だと大統17年(551年)とあります。
どっちが正しいのかと調べると、息子の宇文覚が大統8年(542年)生まれとはっきり記載されているため
どうあがいても前者ではないだろう、ということで『北史』のほうを取りました。一応『周書』注釈にもこの点は
指摘されております。当時は全て人の手で書き写されたことと、途中の戦乱による散逸が原因かと思います。
太祖文宣皇后 叱奴氏(?〜574)NEW
叱奴氏は代の人(おそらく現在の山西省代県)で、それ以上の詳しい出生は分からない。
太祖宇文泰が丞相であった頃後宮に入り、宇文邑(この漢字の上に点3っつ・後の高祖武帝)を産んだ。
宇文邑即位から約6年後のの567年6月に皇太后となる。574年3月に亡くなり、4月に永固陵に埋葬された。
孝閔帝皇后 元氏(542?〜616)NEW
西魏文帝元宝炬の第五女で、名は胡摩。最初晋安公主に封される。
546年宇文覚(孝閔帝)が略陽公に封された際に宇文覚の元に嫁ぐことが決まったが、双方とも
10歳にも満たない子どもであったため、約7〜8年後に正式に元氏は略陽公夫人として嫁いだ。
557年宇文覚が帝を称して北周政権を建立すると、元氏は皇后となったが、同年8月に従兄弟である
晋国公宇文護が宇文覚を殺害すると元氏は皇后を廃位され出家して尼となってしまう。
572年宇文邑(高祖武帝)が宇文護を誅殺した後、宇文覚は孝閔帝と尊号されたことを受け、元氏も
孝閔皇后と称され、祟義宮に住居することとなった。
581年、楊堅が北周を滅ぼし隋を建立すると元氏は宮から出された後616年(隋煬帝大業12年!)に
70歳余りで亡くなった。
明帝皇后 独狐氏(534?〜560年)NEW
北周太保衛国公である独狐信の長女で、宇文毓(明帝)が西魏文帝(元宝炬)より寧都公に封されたとき
独狐氏を寧都公夫人として迎えた。
557年宇文毓が天王に即位すると翌年の正月に独狐氏は王后に冊立されるも
同年の4月に亡くなり、昭陵に埋葬された。559年宇文毓が皇帝を称すると皇后を追尊された。
560年、明帝が宇文護により毒殺されると、明帝の遺体は独狐氏が埋葬されていた昭陵に合葬されることになった。
上に戻るにはこちら。