中国南北朝〜南朝皇后編

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南宋

武帝皇后 臧氏(361〜408)

 東晋尚書郎臧汪の孫で、東莞(現在の山東省)の出身。

まだ出世する前の劉裕に嫁ぎ一女(後の会稽公主)をもうけるが、娘につけた名前(興男)の示す通り、

臧氏は男子を望んだが、結局彼女から男子は生まれることはなかった。劉裕が頭角を現すにつれて臧氏は

ますます品位を保ち倹約を奨励し、無駄な財産を蓄えたりするようなことはしなかった。

 408年に病死するが、当時劉裕は豫章王であったので彼女には豫章公夫人の称号が贈られた。420年に

劉裕が皇帝を称すると臧氏には皇后位が追贈され、武敬臧皇后と称される。その後劉裕は彼女を重んじ、

自分の在位中には他の皇后を立てることをしなかったという。

 

少帝皇后 司馬氏(393〜439)

 東晋恭帝司馬徳文の娘で、河内温県(現在の河南省温県)の出身。名は茂英。

 司馬茂英は最初海 公主に封じられていたが、劉裕の政治的立場を強める為、劉裕の長男であった劉義符

と結婚させられた。その後劉裕により父親の司馬徳文は殺され、心穏やかでない日々が続いた。

 420年に劉裕が皇帝になると劉義符は皇太子となり、司馬氏は太子妃となった。422年に劉義符が皇帝に

就くと皇后に立てられたが、在位三年にして皇帝が殺された為、司馬氏は營陽国王妃に落とされ、その後

南豊王太妃に落とされた。文帝の時代に47歳で亡くなった。

 

文帝皇后 袁氏(405〜440)

 宋の左光禄大夫袁湛の娘で、母は王氏。陳郡陽夏(現在の河南省)出身で、名は斉嬀(せいぎ)。

十六歳で当時宣都王であった劉義隆に嫁ぎ、一男一女を産んだ(劉劭・東陽公主)が劉劭を産んだとき、

その人相に不吉なものを感じた袁氏は劉劭を殺そうとしたが、夫に止められた。

劉義隆の即位後に皇后に立てられ、劉劭は皇太子となった。

 袁氏の実家はあまり裕福では無かった為、彼女はいつも文帝に実家への援助を申し出ていたが

文帝はいつも少ししか援助しなかった。しかし、その後文帝の寵妃となった潘淑妃に対しては

惜しみなく援助した為、袁氏は嫉妬して文帝に会うのも避け、遂には精神を患い潘淑妃への嫉妬と

文帝への恨みを募らせながら、440年に憂慮のまま病気を得て亡くなった。

 

文帝淑媛 路氏(412466)

 宋の路興之の娘で、母は徐氏。丹陽建康(現在の南京)出身で、名は惠男(けいたん)。

路氏は容貌が甚だ麗しかった為後宮に入り、430年に劉駿(後の孝武帝)を産み、淑媛となった。

その後容色が衰えたことにより寵愛を失い始めたが、劉駿が武陵王に封されたのを受けて、

彼女も息子と一緒に任地に趣いた。

 453年皇太子劉劭が文帝を殺して自立した為、謀反人たちを征伐する為劉駿が出撃し劉劭を

討った。討ち取った後劉駿が皇帝に即位し、路氏は皇太后となった。その後彼女の父親の

路興之は散騎常侍に、母親の徐氏は余杭県広昌郷君に追封された。464年孝武帝が亡くなり

劉子業が即位すると皇太后に封され、466年病死した。

 

文帝婕、(ショウヨ) 沈氏(414453)

 名は容姫、出自、籍貫が全く不明であるが、428429年の間に15歳で文帝の後宮に入り、

美人に封された。439年劉或(後の明帝)を産んだことにより婕、(ショウヨ)に改封される。

453年に40歳で亡くなるが、日をおかず文帝も死亡、孝武帝が即位すると、沈氏は皇太妃を

追贈された。また465年息子の劉或が即位すると皇太后と追贈され、宣太后と謚(おくりな)

された。

 

南斉

高帝皇后 劉氏(423年〜472)

 斉高帝蕭道成の皇后で、名は智栄。宋員外郎陳()肇の娘で、母親は故氏。

 439年蕭道成と結婚したとき、彼女は蕭道成より4歳年上の17歳であった。翌年には蕭賾(ショウサク・

後の斉武帝)を産み、その後蕭嶷(ショウギ・後の豫章王)を産んだ。

 472年劉智栄は50歳で亡くなったが、このとき夫の蕭道成は宋の右衛将軍であった為、封号は無かった。

その後478年に劉氏は章陵公国夫人を、その翌年には斉国妃を追贈され、更に同年4月に蕭道成が皇帝を

称すると、皇后位を追尊され「昭皇后」と追謚された。

 

東昏候貴妃 潘氏(483年?〜501) 

 斉前廃帝蕭宝巻の寵妃で、名は玉奴(または玉児)。民間の生まれ。

当時皇太子であった蕭宝巻は母親が亡くなった為養母に育てられたが、その養母の娘が潘氏であった為、

二人は一緒に育っていった。やがて蕭宝巻が即位すると美しく成長した潘氏を後宮に入れ、皇后の次に

位の高い貴妃に封じ寵愛した。

 もともと享楽的性格であった皇帝は寵愛する潘氏の為に次々と壮麗な宮殿を建築させ、宮殿を結ぶ道に

金で出来た蓮の華を敷き詰め、足の小さい潘氏がその上を歩いて来られるようにしたという。また、潘氏

を傍らに昼夜宴会に耽り政治を省みなかった為、政治は乱れていった。

これらを避難した臣下は全て殺害、また自分以外の皇族が力を持ちすぎたと見るとこれも殺害した為、

宮廷内の反感を買うこととなり、501年皇帝の弟である南康王蕭宝融を擁した蕭衍(後の梁武帝)を中心に

首都建康で反乱が勃発した。宮廷で酔いつぶれていた皇帝は反乱に呼応した衛兵に殺され一緒にいた潘氏も

捕らえられ縊り殺された。

 

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