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ところが次の日のこと、 畜産学の教師が又やって来て例の、水色の上着を着た、顔の赤い助手といつものするどい眼付して、じっと豚の頭から、耳から背中から尻尾まで、まるでまるで食い込むやうに眺めてから、尖った指を一本立てて、 「毎日阿麻仁をやってあるかね。」 「やってあります。」 「そうだろう。もう明日だって明後日だって、いいんだから。早く承諾書をとれぁいいんだ。どうしたんだろう、昨日校長は、たしかに証書をわきに挟んでこっちの方へ来たんだが。」 「はい、お入りのようでした。」 「それではもうできてるかしら。出来ればすぐよこす筈だがね。」 「はあ。」 「も少し室をくらくして、置いたらどうだろうか。 それからやる前の日には、なんにも飼料をやらんでくれ。」 「はあ、きっとそう致します。」 畜産の教師は鋭い目で、もう一遍じいっと豚を見てから、それから室を出て行った。 そのあとの豚の煩悶さ、 (承諾書というのは、何の承諾書だろう何を一体しろと云うのだ、やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だろう。一体何をされるんだろう。どこか遠くへ売られるのか。ああこれはつらいつらい。) 豚の頭の割れそうな、ことはこの日も同じだ。その晩豚はあんまりに神経が興奮し過ぎてよく睡ることができなかった。 |
ところが次の朝になって、やっと太陽が登った頃、寄宿舎の生徒が三人、げたげた笑って小屋へ来た。 そして一晩睡らないで、頭のしんしん痛む豚に、又もや厭な会話を聞かせたのだ。 「いつだろうなあ、早く見たいなあ。」 「僕は見たくないよ。」 「早いといいなあ、囲って置いた葱だって、あんまり永いと凍っちまう。」 「馬鈴薯もしまってあるだろう。」 「しまってあるよ。三斗しまってある。とても僕たちだけで食べられるもんか。」 「今朝はずいぶん冷たいねえ。」 一人が白い息を手に吹きかけながら斯う云いました。 「豚のやつは暖かそうだ。」 一人が斯う答えたら三人共どっとふき出しました。 「豚のやつは脂肪でできた、厚さ一寸の外套を着てるんだもの、暖かいさ。」 「暖かそうだよ。どうだ。湯気さえほやほやと立っているよ。」 豚はあんまり悲しくて、辛くてよろよろしてしまう。 「早くやっちまえばいいな。」 三人はつぶやきながら小屋を出た。 そのあとの豚の苦しさ、 (見たい、見たくない、早いといい、葱が凍る、馬鈴薯二斗、食いきれない。厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるだろう。ああつらいなあ。) その煩悶の最中に校長が又やって来た。 入口でばたばた雪を落して、それから例のあいまいな苦笑をしながら前に立つ。 「どうだい。今日は気分がいいかい。」 「はい、ありがとうございます。」 「いいのかい。大へん結構だ。たべ物は美味しいかい。」 「ありがとうございます。大へんに結構でございます。」 「そうかい。それはいいね、ところで実は今日はお前と、内内相談に来たのだがね、どうだ頭ははっきりかい。」 「はあ。」豚は声がかすれてしまう。 「実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。 人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。」 「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。 「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣のごときはあしたに生れ、夕に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。」 「はあ。」豚は声がかすれて、返事もなにもできなかった。 「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た、大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずいぶん大事にしたはずだ。 お前たちの仲間もあちこちに、ずいぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でそう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらい、待遇のよい処はない。」 「はあ。」豚は返事しようと思ったが、その前にたべたものが、みんな咽喉へつかえててどうしても声が出て来なかった。 「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をして貰えまいか。」 「はあ。」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。 |
「それはほんの小さなことだ。ここに斯う云う紙がある、 この紙に斯う書いてある。
とこれだけのことだがね、」 校長はもう云い出したので、一瀉千里にまくしかけた。 「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰いたい。 それだけのことだ。」 豚は眉を寄せて、つきつけられた証書を、じっとしばらく眺めていた。 校長の云う通りなら、何でもないがつくづくと証書の文句を読んで見ると、まったく大へんに恐かった。 とうとう豚はこらえかねてまるで泣声でこう云った。 「何時にてもということは、今日でもということですか。」 校長はぎくっとしたが気をとりなおしてこう云った。 「まあそうだ。けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。」 「でも明日でもというんでしょう。」 「さあ、明日なんていうようそんな急でもないだろう。いつでも、いつかというようなごくあいまいなことなんだ。」 「死亡をするということは私が一人で死ぬのですか。」豚は又金切声で斯うきいた。 「うん、すっかりそうでもないな。」 「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」豚は泣いて叫んだ。 ![]() 「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫にさえ劣ったやつだ。」 校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股に小屋を出て行った。 「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣っていますよう。わあ」 豚はあんまり口惜しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんかぎり泣きだした。 けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった疲れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込んでしまう。 その睡りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶるっと動かした。 |