雨ニモマケズ
まずは法華経の信者としての賢治を捉えた場合です。

 賢治の父親は真宗の篤信家でした。その父親に賢治は手紙を送っています。
「信仰というのはただ崇めるだけでは駄目なのです。信じて行していく姿こそが本当の信仰なのです。」
実践の人賢治、法華経の行者としての賢治のこころが現れています。
この「行ずる」ということを法華経信仰ではとても大切にします。
そこから最後の「でくのぼう」というのは、賢治は法華経の中の「常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)」を意識して書いたのではないのか?
賢治自身、自らにこの菩薩の菩薩行を課していたのではないのか?
という見方となって来ます。
常不軽菩薩は迫害されても、馬鹿にされても全ての人を悉く礼拝しつづけたという菩薩です。
どうですか?
「ほめられもせず 苦にもされず」ひたすら行をする姿。
農民を心から愛した賢治の姿。
そしてあまりにも有名な臨終の賢治。

また、羅須地人会の地人とは法華経の中の地涌菩薩のことだともいわれます。

手帖の最後には曼荼羅も書いてあったし、臨終ではお題目を唱えた賢治です。
さあ、法華経の行者の姿で決まりだ!
と、思うでしょ?
ところがです。
これを全く反対の真宗の姿だという説もあるのですねー

            「雨にも負けず」真宗の味わい

こうした詩の背景には、子供のころからの環境が大きく
かかわっていようです。

宮沢賢治の父親の政次郎さんは、若いころから仏教に
深い関心をもっており、自分が中心になってお聴聞の
サークルを、岩手県の花巻につくるなど、熱心な
お念仏の人で、集めた仏教書は、自宅の土蔵が
一杯になるほどだったといわれます。

また花巻にある浄土真宗のお寺、安浄寺の総代を
務めていたとわれます。
長男の宮沢賢治も父親のこうした活動の手伝をしながら、
京都からこられた多くのご講師のお話もよく聞いて
いたようです。

父親だけではなく、母親のイチさんもお念仏の人でした。

子供のころ、宮沢賢治に蓮如上人のご文章を、読み聞かせて、
教えながら 「 人間というものは、人のために何かして
あげる為に、生まれて来たのス 」 と、口癖のように
いっていたようです。

この世に生まれて来たのは、自分の欲を満たすため
ではないことを、また、布施をすることこそが人生の
最高価値であるという智慧を授かり、自分でも実践し、
子供にも伝えていったといわれます。

この布施のこころは、雨にも負けずの詩の中に 
「 東に病気の子供があれば 行って看病してやり 
  西に疲れた母があれば 行ってその稲の束を負い 
  南に死にそうな人があれば 行って怖がらなくても
  いいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらない
  からやめよと言い・・・・・」 
 こうした表現になったのでしょう。

これは、母親が教えてくれた、人間としての生きる意味を、
実践しようとの思いからなのでしょう。

現在はどうも知識だけを、伝えれば良いように思われて
いますが、本当は、人間として最も大事な、智慧を
伝えることこそが、大人の務めなのかもしれません。

南无阿弥陀仏は、人間として生きる意味を教え、
南无阿弥陀仏は、子供に伝えるべき智慧のすべてを
網羅した教えだと味わいます。


いかかですか?
そしてまたキリスト教の教えの姿だという見方もあるのですよ。

    「雨にも負けず」のモデル?齋藤宗次郎さんの話

1877年、齋藤宋次郎さんは岩手県花巻禅宗の寺の三男として生まれました。 15歳の時、母の甥に当たる人の養子となり、齋藤家の人となりました。やがて、小学校の先生となり、国粋主義に傾いていきました。ところが、ふとしたきっかけで内村鑑三の著書に出会い、聖書を読むようになり、今までの国粋主義の生き方が間違っていたことに気づき、キリストの救いへと導かれていきました。
1900年、彼は信仰告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けることになります。花巻、第一号のクリスチャンでした。彼が洗礼したのは12月12日午前6時、雪の降り積もった寒い朝、場所は豊沢川でした。珍しいということもあって、大勢の人が見物にやってきました。
迫害が始まったのはこの時からでした。親から勘当され、今後は生家に一歩たりとも入ることを禁じられました。町を歩いているときなどは何度も石が飛んできました。 それでも、彼は旗印を高く掲げ、信仰を貫き通しました。  しかし、いわれのない中傷が相次ぎ、やがて小学校を辞めることになります。そして、この迫害は彼だけに止まらず、家族にまで及んでいきました。長女の愛子ちゃんは、天皇陛下の誕生日、国粋主義思想が高まる中で友達から腹を蹴られ、腹膜炎を起こしてわずか9歳という若さで天国に帰って行きました。賛美に送られ、平安のうちに主のみもとに凱旋していきました。
宋次郎さんは一家を養うために1905年、新聞配達業を始めることにしました。 朝3時に起き、汽車が着くたびに何度も駅に新聞を取りに行き、配達をするという重労働の中で肺結核を患い、喀血を繰り返しました。朝3時に起きて、夜は9時まで働きつづける。その後は主との交わりの時間。不思議なことにこのような激しい生活が20年もの間続きましたが体は支えられたのでした。朝の仕事が終わる頃、雪が積もると小学校への通路を雪かきして道をつけ、小さい子供をみると抱えて校門まで走る。雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、人のために働き続けました。新聞配達の帰りには病人を見舞い、励まし、慰めました。
1926年。住み慣れた故郷を離れ、東京に移る日がやって来ました。花巻を離れる日、だれも見送りに来てくれないと思って駅に着くと、そこには町長をはじめ町の有力者の人々、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般の人たち、物乞いする人たちで、身動きできないほど多くの人々が見送りに来てくれたそうです。この人々の中の一人 に宮沢賢治がいました。宋次郎さんが東京について最初にもらった手紙は彼からのものでした。  宮沢賢治が齋藤さんをモデルに有名な詩を作ったのは、それから5年後のことでした。」


この人はこう断定していますが、賢治が彼をモデルに作ったという証拠はないようです。

さあ、みんな賢治が好きなんですねー
だから自分の仲間にしたくてたまらない。
でも、中にはこういう人もいます。



俺は宮沢賢治が嫌いだ 

俺は宮沢賢治が嫌いだ。
特に嫌いなのは、雨ニモマケズだ。
なんであんなに偽善的なんだ。

もしあんなこと実行している奴がいたら、
ものすごく気味が悪い。
だからあの詩はものすごく気味が悪い。

奴はきれいごとばっかり書いているくせに、
どさくさにまぎれてこっそり自分のオヤジの悪口を書いていたりする。
基本的に陰気なやつなんだ。

きっと奴が書いた意味不明の文章の中には
わからないように他人の悪口を書いたものがいっぱいあるに違いない。

奴の作品に共通している、自己犠牲の精神ってやつにも虫酸が走る。
だいたい自己犠牲なんて口走るやつが、どうしてあんな大量の作品を残しているんだ。
あの大量の作品群から見ても、強烈な自己顕示欲があったことは、まぬがれまい。

しかも、出版業が今よりずっと整っていないあの時代に、やつは何度も出版を試みているんだ。
自己犠牲や謙虚さの精神を訴えるために、世に出ようとしたというのかい。
まったく、欺瞞もはなはだしいね。

やつの、超美談的伝記も気に食わない。
若くして病気で死んだりしたら、だいたい嘘っぱちに書かれてしまうが、奴のは極端すぎる。
死んでから有名になったもんだから、ちゃんとした記録があまり残っていない。
それをいいことに、馬鹿な伝記作家たちが、お涙頂戴の物語を勝手に作り上げてしまった。

宮沢賢治のファンだと称するやつらのほとんどは、
でたらめな伝記に書かれてあることだけを、強く信じ込んで、
自分勝手な偶像を作って喜んでいるんだ。
やつが相当癖のある人物だったっていうのは、資料としても残っているのに。
宮沢賢治のファンてのは、小学校の教科書に書いてあるイメージを頑なに信じて、
カルト教団の信者みたいにやつを崇拝しているんだ。

でもなにが一番嫌いかって言ったら、
宮沢賢治の悪口は絶対言ってはならないっていう、読書人たちの雰囲気が一番嫌いだ。
なんだか知らないけど、多くの読書人たちは宮沢賢治が好きだって言えば、
尊敬されると思っていやがる。

宮沢賢治の作品なんて、ほとんどが意味不明の未完成ばっかりじゃないか。
あんなもの読んで本当におもしろいって思っているやつがいるのかね。
やつの書いたもので意図が明確にわかるものは、2、3個しかない。
本当にこれに反論できるやつはいるのか?


さあ!!いかがでした?
それぞれが皆説得力あるでしょ?

つまりはこの詩を読む人それぞれのこころの有り様なんですね。
あなたはこの詩をどう思いますか?

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