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記事No : 2248
タイトル 困った事態と方便の教え
投稿日: 2013/09/09(Mon) 17:46:10
投稿者桃青

考えてみたいと思う。

何によらず困った事態とは病気のようなものである。
困った事態には、困った事態になるだけの仕組みと困った事態という状況がある。

仏教というものは、困った事態になる仕組みと状況を冷静に、何にも捉われずにありのままに見よ。
と言っているのだ。
これを破法と云い、通塞というのであろう。

法華経の説く眼目は、「皆共に」である。
誰かを誰かの身代わりにして事態の好転を計るという解決方法は、仏教的な解決法とはいえないだろう。

「あなたが健康でいられるのは、御主人が(御姑さんが、お母さんが)病気になって呉れたおかげです。

という説き方に違和感を抱くのは、説く方の

「介護が辛い、辛い、と思うばかりでは、気持ちがますます辛くなるばかりです。此処は発想の転換をして、御主人の病気に感謝できるようになってごらんなさい。そしたら心が楽になり、介護も楽になりますよ。」

という本意が透けて見えるから。というのが一番の理由である。
それでは心を楽にするための方便にはなっても、困った事態を根本的に解決する方向には結びつかないであろう。
仏教が「ありのままに見よ」と説くのは、困った事態の根本解決を計らなければ、ありのままに見る意味がない。ということでもあろうに。
というのが一番の理由である。


がそれと同じくらい方便で説かれるところの
「御主人が病気になってくれたお陰で、あなたが健康で居られる。」
という言葉に潜む考え方を危惧するからであろう。
この言葉の意味するところは、
「誰か幸福であるためには、誰かが犠牲になっている。」に他ならない。

仏教は誰かが幸福であるためには、誰かの犠牲が必要だ。
とは説いていない。

自分が幸福であるために、誰かを犠牲にしておいて、犠牲になった者へ思い切り感謝をすれば、それで良いというのは、仏教的な考え方ではない。
と、私は思う。
もう一度、「御主人が病気になったおかげで、あなたが健康で居られるのです。」
という言葉を見てみよう。
私が健康なのは、誰かが犠牲になっているから。。
では、私は誰かを犠牲にしなければ健康でいられないのか。

某M教あたりでは、誰かが幸福になるためには誰かをを犠牲にするのはやむを得ない。
と説く。
なので、「原爆落としてくれてありがとう。」と云いだす某M教徒も登場するのであるが、アメリカ人の思考に詳しいかたに言わせると
「アメリカ人はどれだけ犠牲を出しても、それを上回る利益がほんの少しでも出れば、その作戦は成功だったと捉える。」
のだそうだ。
これがあながちそのかたの偏見でもないことは、そのような観点から彼らの行動をとらえると、彼らの行動が辻褄があってくるところからも解るだろう。
さて、この「犠牲あってこその成功。」という考え方は、どこから来たのだろうか。

たとえ方便の教えであっても、「皆共に仏道を成ぜん。」という法華経の眼目を離れないものであってほしいものだと思う。
南無妙法蓮華経。


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