記事No | : 2299 |
タイトル | : Re^2: 明るい世界は必ず来ると |
投稿日 | : 2013/11/20(Wed) 01:45:20 |
投稿者 | : 桃青 |
HIROMIさん
コメントありがとうございます。
冬になり、母のお世話に寒さ対策が加わり、バタバタしていて、お返事がおくれました。
さすが、HIROMIさん、私のもどかしい文章から、私の苦のありどころをすぐに理解してくださって、感謝です。
おかげで、御上人をはじめ、誰に言っても思いが通じなくて、くさくさしていた気分がぱっと晴れました。
ありがとうございます!
> 九相図は、この夏に観た幽霊、妖怪、図の展覧会で初めて実物を観ました。
> 草花や虫けらと同じように人間も美しさも快活さもやがて衰え、死ねば朽ちて枯れて土に帰ってしまいます。
> そのさまを目の当たりにすると、ただ寂しく或いは怖く、そこから光を見いだすことは難しく感じられますね。
そうなんです。
九相図は、肉体が滅びて行く様を描いていますが、母を見ていると、人間の識が滅びて行くとはこういうことなのか。と愕然とします。
人間を人間たらしめている識が生きながらに滅びてのをみるのは、寂しく怖いものですよ。
焼き場で骨になった親を見て、「その瞬間、あ!人間とは、これだけのものなんだな。と解った。」と、無常を語るかたの思いは理解されるのに、日々識が壊れていくのを見て、「嗚呼、人間とはこれだけのものなのだ。と思ったのですよ。」と私が訴える「これだけのもの」の寂しさ、怖さが、何故理解されないのでしょう?
でも、HIROMIさんは、解ってくださった。
するとやっぱり、「感性」の問題なのかなー。
> 自分が死んだら何にもなくなる。そんなのはいやだー。(アンパンマン?)
日蓮宗は「久遠の命」で生死を説きますが、これは、何もなくなるわけでもないし、かといって、宗教にありがちの個の魂の永遠とも違う死生観です。
私は、ほんとうにその通りだなあ。と納得していますので、死んだら何もなくなるから怖い、ということはないのですよ。(^−^)
仏に任せろといわれるけれど、結局その仏のことも忘れて死んで行くのだな〜。
と、何ともいえない寂寥感。
> > でもなー。お寺へ話を聞きに来るかたがたは、
> > 介護者が被介護者を「ああ、仏であります。」と、伏し拝む姿を見て「素晴らしい。さすがですわ。」と感動する事を求めて来るんですよねー。
>
> そんなのごまかしにしか思えません。
> 無惨に衰えた家族を直視に耐えられないからって、仏さんだと思え、とは。
そう、現実の無残さを直視することがあまりに辛いから、誤魔化して、美化して、感動的な話に脚色した話を求めるのだろうな。とは思うのですが・・・。
でも、美しいおとぎ話をこしらえても、現実の問題は解決しないし・・・。
現実の問題を皆が全体幸福になる方向で解決して行こうじゃないか、という仏教らしさは、どこで説くのだ。と、悲しくなってくる。