記事No | : 2042 |
タイトル | : Re^3: 質直意柔軟 |
投稿日 | : 2013/05/17(Fri) 11:02:29 |
投稿者 | : 桃青 |
>
> だからね、事実でないことでも 真実と捉える というベクトルも
> あるわけですね。
>
これまた、おっしゃる意味がよくわかりませんですけれども・・・。
例えば、というような例をあげて御教示いただければ、わかるかもしれません。
よろしくお願いいたします。
> 経験では、真宗も成仏を目指していると理解してますよ。今生において
> 仏にならなくてもいい という意味かな。
私が言いたかったことを真宗では「異安心」と言うようですが・・・。
> 桃青さんが人間という言葉をどのように使っているかは推測でしか無いわけで
> それでも印象を述べろといわれるなら 人間中心傲慢主義かな。
常日頃、十界互具だと捉えていますので、人間中心傲慢主義だと言われる意味がこれまたわからないのですが・・・。
もしかして
私が、しばしば
「人間は人間の認識の中でしか、認識できない。」
みたいな、ことを書くからですか?
私がこう書くのは、ひとがしばしばこの事実を忘れるところから、いくつかの問題が生まれるのではないかと、思うからなのですが・・・。
でも、この事実ってなかなか認めてもらえないんですよ。
でも、亡くなった哲学者池田晶子さんも、「どんなに言葉を尽くしても、口を酸っぱくしても、なかなか理解してもらえない。」と、愚痴っておられましたから、私ごときがちょろちょろっと書いたり、話したりしたくらいで、気付いていただけないのも当然かもしれません。
他の宗教の教えの中には、この事実のまえに意味を失ってしまう言葉もありますが、(池田さんは、クリスチャンだったが、これを知って、キリスト教に興味を失った。と書かれていました。)仏教はこの事実の前にも、色を失わない。
「そんなこと前から解っているよ。」というところがある。
だから、仏は頼もしい。
それとも、現実の問題の根本解決を皆ではかって行こうじゃないか。
と、書くからですか?
亡くなった師匠は、「人間の問題が人間に解決できないはずはない。と、日蓮聖人も言われています。」と、言われました。
御遺文のどこを指してこう言われたのか、今では教えていただくことができなくなりましたが、私は、日蓮聖人は、御遺文のどこかにこの思いを込められたに違いないと思っています。
というか、この言葉に頭を打たれて、「仏教を学んでみたい」、と思ったのですよ。
>人間を縁から
> 独自に自立する絶対的価値を有する存在として捉えているような感じ。
そんなことは、思ったことも書いたこともありません.
釈尊の縁起の教えは、疑念を差しはさむ余地のない真理だと思うからこそ、仏法を学んでいます。
> 多分間違っているだろうけど、そう感じるのは 桃青さんが聡明すぎるからなのでしょうね。
私が聡明なら、ぽん州さんの言われることもすぐ解るでしょうに・・・。
私は頭が悪いし、理解力も乏しいのです。
私の周りの聡明なかたがたは、皆さん、すぐに「私に仇為すひとは、私を導く仏である。」
を、理解して「どんどん楽になって行かれます。
> 馬鹿になれば気が楽なのにと思うんですよ。 でも自尊心が強すぎて
> 馬鹿になれない。
ですから、馬鹿だから、「あなたを苦しめるひとは、皆仏」とは思えないんです!
反対にそう説く方は、苛めに苦しんでいるひとや犯罪被害者に向かっても、そう言えるのでしょうか?
と、問いたいです。
私は馬鹿ですから、「いじめや犯罪は別。」と言われても納得できません。
> 馬鹿な桃青さんって 素敵じゃないですか。
私は、今でも充分馬鹿なことがお解りになっていただけたと思いますが、馬鹿な桃青さんて、素敵じゃないでしょう?(笑)