記事No | : 2007 |
タイトル | : 三浦綾子さん「身障者の使命」 |
投稿日 | : 2013/04/23(Tue) 12:29:03 |
投稿者 | : 桃青 |
「お母さんは、自身が誰もが嫌がる認知症になることによって、桃青さんに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えてくださった菩薩なのですよ。」
「氷点」の作者でクリスチャンの三浦綾子さんは、誰もが何かの使命を持って生まれて来る。というキリスト教の教えに従って
「身障者は、誰かに善行を行わせることを使命として生まれたのだ。」
と言われ、当の身障者のかたからも批判の声があったと聞く。
三浦綾子さんの「(身障者に対して)善行を行わせるのが身障者の使命」と、「認知症になることによって、誰かに受持・読・誦・解説・書写する機会を与えた」という説は、キリスト教と仏教の風味が違うが、内容はまったく同じである。
宗教、信仰の場ではいつでもどこでも誰かによって思いつかれやすいロジックなのだろう。
しかし、どうなのだろう。
実際に認知症になった者が、「私はあなたが如説修行できるように認知症になってやったのだ。」と、自分で言い出したら、言われたほうはむっと来るだろうし、周囲も「自分で言うことではないわな。」と、言うだろう。
それはつまりは「認知症になったひととは、認知症になってまで、あなたに如説修行の機会を与えてくれた菩薩。」というのは、美しいファンタジーではあるが、実相ではない。ということであろう。
実相ならば、本人が「私は、あなたが如説修行できるように認知症になった菩薩なのだから、もっと私を大切にして、私のために書写行しなさい。唱題行をしなさい。」と言いだしても誰も反発はできないだろう。
本人が言ったら認められず、誰かが話すから美しく聞こえるというところが、それが真実実相ではないことを物語っているのではないだろうか。
本当に美しいひとや、頭の良いひとが、
自ら「私は美人だ。」「私は頭が良い。」と、言ったら、
「美人や頭の良さを鼻にかけて嫌な奴。」と、思われることはあっても、美人である。頭が良いということを認めざるを得ない場合と比べてみたらわかるだろう。