記事No | : 2410 |
タイトル | : Re: 水の心と二人の説教師 |
投稿日 | : 2015/12/07(Mon) 11:15:45 |
投稿者 | : 桃青 |
> 北国の高名な説教師のお話に、毎日水に優しい言葉をかけると 氷の結晶が
> 美しくなる というのがありました。
そうですね。
一時、鉢花に優しい言葉をかけて育てると美しく咲く。という話がマスコミによく登場しましたが・・・。
そのころには、お題目を唱えて育てると花が美しく咲く。
法華経の上に置いたコップの水が長く腐らない。
法華経の上に置いたコップの水に差した花は、そうでない花より長く枯れなかった。
という話を講師のかたがよくされました。
当時はキリスト教でも「聖書の上に」「祈ったら」と書いているかたがおられましたので、宗教関係にはありがちの話なのでしょう。
最近はそういう話は聞かないな、その手の話から宗教は卒業したのかな、と思っていたのですが、似たような話が出てくるところをみるとこういう話を求める人々はいつでも一定数はおられるのかもしれませんね。
昔、「一杯のかけそば」という作り話で一儲けして、詐欺師と非難された男性がいましたが、最近「一個のハンバーガー」という話が泣ける話、いい話の実話としてネットなどでちらほら見かけます。
内容は親子の登場のしかたから何からそっくりですが場所がソバ屋でなくマグドナルド、かけそばでなくハンバーガーになっているところに時代を感じますが、こういう話が繰り返し出てきて拡散して行くところを見ると、こういう話を求める人々はいつの時代でも一定数はいるということなのでしょう。
> 中谷宇吉郎博士の雪の結晶
雪の結晶のありのままをありのままに捉えて描いた清々しい書物ですね。
ありのままに捉えられた結晶の美しい事・・・。
> 関西の外れの鄙びたお寺のお上人は、 風呂に入る前に 両の手ですくいあげた
> お湯に頭を下げて”ありがとう”と感謝する男の方の話をされました。
> 一切科学的にどうのとは話されず、感謝する人としての有り様を話されました。
> 聴聞の人たちは 説教に随喜したものです。
聴聞する人たちは、何の計らいもせず、何も求めずにただ感謝する姿に感動されたのでしょうね。
感謝するひとが、「さあ、皆さんも私の様に感謝しなさい。人間感謝しないといかんよ。」「私は感謝したらいいことがあった、皆さんも感謝したら何でも上手く行くよ。」的なものをちらっとでも抱いて感謝を伝えると、感謝のみせびらかしや押し付けや感謝しない事への非難になってしまって、みせびらかされたほうはコチンと来たりして「ああ、感謝っていいなあ。」という清々しいものにはならないです。
「私はこのように感謝している。」と、自分で言い立てるのも相手によっては「いいね」を強要されたと感じるようです。
何の計らいも無く、何も求めずに感謝するひとは、おそらく何も言わず、黙ってただ感謝しているんじゃないかな。
だから、その清々しい姿をひとに知られることはなかなか無い。
> 勿体無いわけです。 そうしますと 水には 水としての勿体が有る とも
私達は水に依って生きているというのが水の勿体?
> 心とは何か という問題です。
何でしょうね・・・。
「心とは何か」、とは、「私とは何か」?