記事No | : 2413 |
タイトル | : Re^3: 大難は小難 小難は無難 |
投稿日 | : 2016/01/11(Mon) 10:47:49 |
投稿者 | : 桃青 |
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
> 当時 苦しみを逃れて喜んだ ということは興味あります。苦しみのうちに
> 破滅に向かうのではなく 喜びがあって 別の大難に立ち向かえたと思えるわけです。
これは、実際に解決したいと思っていた具体的な大難が解決したのです。
もともと、師匠のところへは、その具体的な大難を何とか解決したくて、行ったので、解決したときは本当に「お題目の御蔭だ。」と思いましたよ。
そこで終わっていたら、法座でよく話される「お題目の御蔭で、医者に見放された病気治りました。お題目の御蔭で素行の悪い子供の素行が改まりました。亭主の浮気が止まりました。持ち望んでた男の子が産まれました。火事でもうちの家だけ延焼まぬかれました。」という体験談を私も語っていたかもしれません。
しかし、そうはならなかったのです。
解決したと思った大難が別の大難のはじまりで、その大難は今も解決はしていません。
解決しない大難を抱えてみて初めて、仏の教えというものは、このような解決しない大難を抱えて生きる者のために説かれているのだと解りました。
仏教は大難を現世社会で解決したい。とひたすら願う者に説かれた教えなのだ、ということですね。
現世社会の大難をそのままにして、来世になれば絶対者の力で全て解決すると教える宗教は、たくさんありますが、大難は現世で解決します。その解決のためには、「私」の働きが必要なのです。
と、教えるのが仏教だということですね。
そして、命は仏も「私」も久遠なのですから、慌てず狼狽えず解決を願ってコツコツ行きましょう。と。
具体的な大難をまだ書く気になれないので、こんなことしか書けませんが。