水底の虜囚

 

第一章・水底の虜囚・1

 



 私は待っていたのです。
 時が満ちるのを。
 何事にも焦りは禁物です。
 機会というものは、自然と巡って来るのです。
 そう、例えば……。








 窓から差し込む日ざしが、穏やかな彩りへとゆっくりと変化する。
 リュミエールは執務を切り上げると、宮殿を後にした。
 普段ならこれからクラヴィスの館に出向いて、竪琴を弾き深夜まで過ごすのだが、あいにくと今夜はクラヴィスは不在であった。
 リュミエールの館の使用人たちはいつにない主人の早い帰宅を、驚いた様子で出迎える。そんな彼らの狼狽ぶりを軽く受け流しながら、リュミエールはゆっくりと屋形の中に入る。
 二階の自室で部屋着に着替えろと、窓辺から茜色に染まりつつある聖地を見やる。ここからこうして聖地を見るのは、何年振りだろうかと思い返してみる。聖地に来てからどれくらいの時が過ぎたのだろう。そうしてそのままリュミエールの思いはひとりでに歩き始めていった。
 聖地と呼ばれる広大で宇宙一美しい場所には、選ばれた一握りの者たちが暮らしている。その中央には女王の住む豪奢な宮殿があり、そこを軸として守護聖たちの館が宮殿を取り囲むように建っている。いざという時に盾となるように、それはつまり宮殿を守る城塞の役割を担っているのだ。
 クラヴィスの館だけは少し離れた、鬱蒼とした森の奥にある。彼の館は万が一の時、女王の避難所となるようわかりずらい所に建てられたのだ。この奥まった陰気な場所を彼は気に入っているらしく滅多に外に出ることはない。それでもどうしても宮殿に行かなければならない時は、リュミエールの館の前の道を通ねばならないので、途中で行き会うことも多くなり、次第に二人は親交を深めていった。といっても、出無精のクラヴィスのもとへ、リュミエールが出向くことが多いのだが…。
 リュミエールは椅子を引き寄せて窓辺に腰掛けながら、山々の向こうに沈んで行く夕日を眺めていた。
 こうして静かにひとりきりでいると、自然と苦笑が漏れてくる。故郷にいる時は、守護聖というものは完全無欠で全能な存在だと教えられてきた。自分も守護聖になれば、そうなれるだろうと考えていた。しかしどうだろう、自分自身の感情ひとつコントロールすることさえままならない。
 所詮自分たち守護聖は、ひとつの力が突出してあるというだけで、他の部分では普通の人間以上に欠点が多いのではないか。いや、むしろこの欠点こそが時間さえ閉されてしまったこの場所での、唯一の所有物であるといえた。リュミエールにとっても、心の中を支配しているこのどす黒い感情は、誰も知らない自分ひとりの甘美な秘密として、大切に胸の奥にしまい込んでいる。
 自分だけの物思いに浸っていたリュミエールはふと我に返り、階下の庭で召使たちがざわめいているのに気づいた。何事かと眉をひそめながら騒ぎの方向、玄関を見下ろせる窓辺へと体を移動した。
 館の敷地内に今まさに馬車が入って来ようとしている。その豪華な四頭立ての構えを一目見ただけで、それが光の守護聖ジュリアスのものであるとわかる。騒がしくなるのも無理もない、“光の守護聖”自身の突然の来訪に慌てるなというほうが酷だ。
 馬車から降り立ったジュリアスの髪は夕日を反射して、オレンジ色に光り輝いていた。
 ジュリアスは館の中から見下ろしているリュミエールの視線に気づき、軽く頷くと執事に案内され、真っすぐ玄関へと足を進めた。
 リュミエールは身なりを整え直し、自室から階下の玄関ホールへと向かう。ホールではジュリアスが正面に飾っている絵を熱心に鑑賞していた。
 大海原を泳ぐ一頭の白鯨。その姿はとても優美であり力強く神聖であった。
「それは、わたくしの故郷の守り神と言われている白鯨の絵です」
 声をかけられてジュリアスは金色の髪を波立たせながら、ゆっくりと振り向いた。
「見事なものだ。名のある絵師の手になるものだろう」
「お褒めに与かりまして光栄です。…実は私が描いたものなのです」
「ほう……」
 ジュリアスは感心したようにリュミエールを見つめた。
「そなたに絵の心得があるとは聞いていたが、これほどの才能であるとは知らなかったぞ」
「恐れ入ります」
「いや、全く素晴らしい。いつか私の肖像画を描いてもらいたいものだ」
 ジュリアスはさらに感嘆した面持ちで言う。リュミエールはその依頼ににっこりと微笑んだが、引き受けたとも、断るともといった返事はその表情からは読み取れなかった。
「立ち話も何ですから、中にお入りになりませんか?」
 ジュリアスはリュミエールにいざなわれながら、奥に続く居間に足を踏み入れた。
 通された居間は壁も椅子も机もその他の調度類など、部屋全体が薄いブルーで統一されている。まるで湖の岸辺にいるような清涼感が漂い、とても居心地がいい。
 ジュリアスは満足気にソファーに深く腰を下ろすと、執事の入れたハーブティーを受け取った。 「ジュリアス様、このようにご自身が出向いていらっしゃるとは、何か火急なご用なのですか?」
 リュミエールが静かに口を開いた。ジュリアスはカップを玩びながら、視線をリュミエールに向けた。
「実はそなたと一度、じっくり話してみたいと思っていた」
「……そう、ですか?」
 リュミエールの顔が訝しげに変化するのを見てジュリアスは苦笑した。
「そう驚くな。守護聖の長として一人一人と対話する必要性は常に感じてはいたのだ。リュミエール、そなたが聖地に来てから数年経つが、そなたとこうして話す機会を持つこともなかった。今日は、邪魔者もいぬことだし、さっそく実行に移しただけだ」
「もしかして、クラヴィス様の調査はこのためなのですか?」
 その問いかけに、ジュリアスは形のよい眉が少し吊り上がる。
「思い違いをするな。星系μ−B[の闇のサクリアはクラヴィス本人が出向かねばならぬほど乱れていた。今回はクラヴィスがいない機会を捕らえたと思え」
 お茶を飲んでいたリュミエールは口唇をかすかに歪めた。カップを口から離し、テーブルの上に静かに置いた。
「それではお話しとは、クラヴィス様のことですね」
「そうだ、そなたは仕事は真面目にしている。守護聖としての責任を立派に果たしていると私は判断している。しかし、いずれクラヴィスの無気力が、そなたにまで影響を与えるのではないのではないかと、私は危ぶんでいるのだ。」
 リュミエールは押し黙ってジュリアスの言葉を聞いていた。再びカップを手に持つと、膝の上に置いて、長い沈黙の後に口を開いた。
「……わたくしを心配して?」
「何が悪い、他の守護聖のことを思いやることも私の努めだ」
 ジュリアスは少しムッとして言った。
(思いやる……?)
 リュミエールの口元が再び歪む。しかしそれはほんの一瞬だけのことで、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻る。
「わたくしのことはご心配なく、ジュリアス様の取り越し苦労です」
「そうかそれならばよい。邪魔をした。これで私は帰るとしよう」
 ジュリアスは少し不満そうだが、リュミエールがそう言うのなら仕方がないとでも言いたげに嘆息した。玄関へと向かうジュリアスをリュミエールは見送るため後ろに従う。
「本日はわざわざのご足労、感謝いたします。ジュリアス様とこうしてお話しできる機会はそうありませんので、とても有意義なひとときでございました」
「そうだな、またこうして話したいものだ」
 ちらりと振り返ったジュリアスは笑みを覗かせ、玄関の扉に手をかけた。
「…ええ、ほんとうに」
 リュミエールの声を聞いた同時に、頭に強い衝撃を感じジュリアスは昏倒した。


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