水底の虜囚

 

第一章・水底の虜囚・2

 




 朦朧とした意識の中で、ジュリアスは無意識に身じろぎをしようとする。
 体が重くて動かない。
 それでも動こうと試みてみる。
 体に力を込めた途端に後頭部に激痛が走り、耐え切れず呻き声が出る。
「お気づきになりましたか?」
 涼しげな声が耳に入ってくる。
 まるで張り付いたような重い瞼を開くと、壁にもたれかかるように立っている人物の姿だけがおぼろげに確認できる。しかしかすかな蝋燭の揺らめきだけでは、顔が影になって見えない。ジュリアスにわかるのは、自分が全く見知らぬ部屋にいるということだけだ。
 濃い藍色を基調とした内装と調度類、ターコイズブルーのテーブルの上に置かれた小さな燭台と、窓から差し込む月明かりが仄暗い室内を照らし出す。まるで深海に迷い込んでしまったような錯覚に陥る。どうやらいつの間にか日は沈み、夜が訪れているようだ。
「…ここはどこだ…」
 壁際に立っている人物にそう問いかける。
 無論、返事は返って来ない。だが、ジュリアスはだんだんと頭のもやが晴れ、これまでの経緯をはっきりと思い出した。あの時、リュミエールの館を出ようとして、それから……。
「……そなたの行為は守護聖としてあるまじきことだ」
 密やかな笑い声を立て、リュミエールはゆっくりと体を前に進めると、ジュリアス正面に立ちはだかった。
「ジュリアス様はご自分の置かれている立場を、わかっていらっしゃらないようですね…」
 蝋燭のかすかな光が、リュミエールの整った顔を下から浮かびあげた。
「ここはわたくしのテリトリーです。……ふふっ。それに、そのようなお姿で守護聖の長などと、胸を張って言えるのでしょうかね?」
 リュミエールはねめつけるようにジュリアスの全身に視線を走らせた。
 その視線にジュリアスははっとする。ようやく遅ればせながら自分が寝台の柱に両手、両足、首までも細い針金か糸のようなもので縛り付けられているのに気が付く、しかも全裸で……。
 頭の痛みばかりに気をとられていたので、他のことには気が回らないと言えばそうだった。しかし既に縛られて擦れた箇所がヒリヒリと痛み、血が滲み出ていた。
 ジュリアスは無駄だと思いながらも、何とか逃れようと手足を動かした。だが、いっそう強く締め付けられただけに過ぎなかった。
 リュミエールはその様子を、無言でじっと静かに見守っていた。
「無駄な悪あがきはおよしなさい、傷を増えるだけです。あなたを縛っているのは、この竪琴の弦。わたくしの故郷の守り神である白鯨の髭で作られています。……ですから、あなたのそのきれいな細い首や手などを切り落とすことなど、造作もないことです」
 リュミエールは壊れた竪琴を、ジュリアスの目の前に突き付けた。
「ふふっ…ジュリアス様は相当な、石頭のようですね。すっかり壊れてしまいました。……この竪琴は故郷を出る時に特別に記念として譲り受けたものなのに、これではもう使い物になりませんね」
 リュミエールは竪琴をそっとテーブルの上に置いた。

「この責任は、どう取っていただきますか?」
 水色の瞳がジュリアスを覗き込んだ。
「大事なものであるのなら、同じものを手配するか修理すればよかろう」
 吐き捨てるようにジュリアスは応えると、リュミエールはさも心外そうな表情を作る。
「いいえ、この竪琴はわたくしにとって大切なもの。別のものなどと軽々しくおっしゃらないで下さい。…そうですね。どうしても償いをしたいと仰せなら……」
 リュミエールはふっと酷薄な表情を作る。
「あなたのご自慢の、その輝かしい誇りで償って下さい。…安いものでしょう? あなたの専売特許を少しばかり私が自由にさせてもらっても、減りはしないでしょう。ふふっ…あなたのこのような姿を目にする日が来ようとは、夢にも思いませんでした。いつも、いつも思い描いていたのですよ、あなたの意志の力を欠いた瞳、冷静さを失った顔、そしてあなた戦慄に震える姿はどんな風だろうかと…」
 両手でジュリアスの顔を挟むと、指先にかすかな肌の震えが伝わってくる。
「……………」
 思いもしなかった展開に言葉を失っていたジュリアスに、リュミエールは顔を近づけて口唇を重ね、離れた。
「うっ…」
 ジュリアスの下唇から血がしたたり落ち、その雫が白磁のように透き通った肌の上に一点の赤い染みを作る。
「…これは切れてしまった弦の分」
 口唇を離しながらリュミエールはそう言うと、血を指で白い肌になすりつける。
「…何を、する…つもりだ…」
 嗄れた声で絞り出すように、ジュリアスは問いかけた。
「動かないで、これ以上傷を増やしたくなければ、わたくしの言うとおりにしなさい」
 リュミエールはそう囁きかけると、耳たぶをそっと噛む。
 リュミエールは本気だ。その決意は揺らぎそうにない。
 ジュリアスは仕方なく体の力を抜いた。それが諦めと取ったのか、リュミエールはくっくっと笑い出した。
「柔順なあなたは新鮮で、とても素敵ですよ」
 リュミエールは一歩下がり、ジュリアスの体を離した。
「さてと、これからどうしましょうか。…まだこの竪琴の分が残っています。これからたっぷり償っていただきましょうね。ふふふっ、……まだ夜はこれからですよ」
 リュミエールは部屋の中を歩き回り、あらゆる角度からジュリアスの体を見つめる。そしてふと思いついたような表情を浮かべると、思わせ振りな含み笑いをしながら、部屋の奥の扉へ消えて行った。



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