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真冬の熊(1985年頃・知床)


冬のオホーツク海

『海に突き出した山脈』とも言うべき知床半島。
急峻な陸地からは、数多くの滝が直接海に落ちている。
そんな滝の一つ『乙女の涙』はビジターセンターからも近く、知床の有力な観光スポットの一つとなっている。

そこから少々岬寄りにひっそりとたたずむ滝、『男の涙』をご存知だろうか?。
『乙女の涙』よりも数段迫力は上回っていながら、「熊の出没」及び「崖からの転落の危険」などの理由から立ち入り禁止になっていて、観光案内図にもあまり紹介されていない滝なのだ。
そんな『男の涙』を眺めるのは、ウトロからの観光船に乗って海上から見るのが簡単だ。
しかし、それではツマラない。
小粋な遊歩道沿いの崖の上から滝を見下ろす形である『乙女の涙』に対し、『男の涙』は、急峻な崖を下りて海面近くから見上げてこそ迫力がある。


ここに初めてチャレンジしたのは、学生最後の冬だった。
もっとも、最初から『男の涙』を目指して遠征して来た訳ではない。
正月休みに道東を周っている途中に、
「知床も見てみたいなあ。知床五湖とか、なんだか面白そうだし」
程度の漠然とした理由で、ガイドブックさえ持たずに、とりあえずウトロ行きのバスに乗ったのだった。
遅い午後にバスから降り立つと、そこは全くの終点である事を知らされた。
「知床五湖? とんでもない。ココから先は道も閉鎖されてるよ」
岩尾別にあるYHや温泉ホテルは冬季休業中で、当時は知床ビジターセンターなども存在せず、ウトロより先は全くの無人地帯と化していたのだ。
行く当てを失い、ウトロ港の脇にデーンと構える『オロンコ岩』に登ってみる。
岩にヘバリついた急な階段を延々と登りつめると、イッキに視界がひらけた。
目の前に広がるオホーツク海はなんだかドス黒く、そこから吹き付けてくる風は果てしなく冷たい。
北海道に上陸してから数日が経ち、もう体も慣れたハズだったのに、なんとも耐えがたい寒さを感じた。
ココへ来る前に滞在した摩周湖のYHでは、雪中ソフトボールなんかも楽しんできたというのに。
余りの寒さに何分も居られず、早々に退散してウトロのYHに転がり込み、
「明日の朝早くのバスで、斜里まで戻ろう」
なんて事を、YHの中の集会室で寒気に震えながら、ボンヤリと考えていた。

「こんにちは。今日、来たんですか?」
声を掛けてきたのは、やはり宿泊客らしいオネェチャンだった。
「こ・こんにちは」
「ずいぶん寒そうですね。乙女の涙でも見に行ってきたの?」
「乙女の涙? それは何?」
オネェチャンは知床に何度も来ているらしく、
「そんな事も知らないで来たの?」
とでも言いたげな表情で、手馴れた感じで棚から手書きの観光案内図を取り出し、ソレを見せてくれた。
「ココ。乙女の涙っていう名前の滝があるのよ」
「へぇ、でも道は閉鎖されてるって聞いたけど・・・・」
「歩いてなら行けるわよ。う〜ん、ここからなら1時間ちょっと位かしら」
「ふぅん、コレが乙女の涙かぁ。あっ、その先に男の涙なんてのもあるんだ」
「男の涙は、ちょっとタイヘンよ」
「 なんで?」
「崖を降りなきゃ見えない滝なのよ。すっごくイイ滝なんだけどね」
「なんだか行ってみたくなっちゃった」
ワタクシはその滝がホントに気になったのではなく、それは話の流れで出たセリフでしかなかった。
「じゃあ、入り口が判りづらいから教えてあげるね」
オネェチャンは案内図を手にしたワタクシの隣に並びかけ、密着する感じで覗き込んできた。
ドキっとした。
道順を説明しながら時おりワタクシを見る表情が、なんとも優しげな笑顔なのだ。
「でね、最後はココから崖を降りるのよ。たぶん雪や氷が付いてるから気をつけてね」
「こ・凍った崖を、どうやって降りるの?」
「こうやって滑り台みたいにして降りるの」
オネェチャンは両膝を揃えて体育座りになり、そして両手をペンギンのようにバタバタと前後に動かして見せた。
そんな仕草をしながらワタクシを見上げた「ふわふわぽわぁん」とした笑顔に、ワタクシは少しコーフンした。
しかし彼女は、さらにコーフンさせてくれる事を言ったのだ。
「ねえ、アタシも一緒に行っていい? なんだか久しぶりだなぁ」


消灯時間の10時が過ぎ、自分の部屋の2段ベッドでワクワクぎらぎら過ごしていたワタクシの耳に、オネェチャンの笑い声が聞こえてきた。
それは集会室からで、おそるおそる見に行くと、5〜6人位で宴会が始まっていた。
ワタクシ以外の宿泊者は、オネェチャンを含めてココの常連らしく、ヒゲのヘルパーを交えて酒を酌み交わしていたのだ。
「一緒に混ぜてもらってイイですか?」
「ああ、どうぞ」
なんだか妙に舞い上がっていたワタクシは、恥じらいも無く勝手に宴会に加わり、ずいぶん早いペースで日本酒を呑んだ。
そして、あっというまに酔っ払った。
途切れ途切れの記憶の中のシーンは・・・・
男の涙に対するイキゴミを叫ぶワタクシ、
オネェチャンに対して、妙に馴れ馴れしい態度のワタクシ、
そして、ヒゲのヘルパーの少し困った顔。



意識が蘇ったのは、すでに朝になってからだった。
ワタクシは2段ベッドの中で、フトンも敷かずに転がっていた。
ココまで自分で戻ってきたのか、あるいは誰かに運ばれてきたのか、そんな事すら思い出せなかった。
すでに9時を過ぎていて、部屋にも、集会室にも人の気配は無い。
重たいアタマを抱えて食堂に向かうと、冷え切った朝飯が1人分、そして新聞紙に包まれた弁当らしきモノが置かれている。
ボソボソと朝飯を食っていると、ヒゲのヘルパーが顔を出し、
「あ、それ、昨日の夜、キミに頼まれたオニギリね」
それだけを告げ、再び姿を消した。
弁当は、あきらかに1人分だった。

すでに昨日のイキゴミは完全に消えうせ、果てしなくのしかかる自己嫌悪の中、もう男の涙などどうでもよくなっていた。
しかし、このままYHに残っていたのではカッコが付かないような気がして外に出る。
すでに10時。
あてもなくトボトボとウトロの街を歩くワタクシに、通りがかった食堂のアニキが声を掛けてきた。
「よぉっ!どこに行くの?」
どこに行くと言われても・・・・・
ワタクシは、とっさに答えた。
「男の涙を見に・・」
「男の涙だぁ? ばかやろう! その格好でか?」
アニキはワタクシを食堂の中に引きずり込み、ゴム長・ダウンなどを持ってきて、それを着用するように命じた。
「これだって寒いくらいだぞ! ヤバかったら、直ぐに戻ってこい」
ますます引っ込みがつかなくなったワタクシは、礼を言って滝の方角に向かうしかなかった。

ウトロの市街地を抜けたあたりで、道はゲートによって閉鎖されていた。
なんだか人間界との境界線のようにさえ感じられたゲートをくぐり、踏み痕の無い雪を踏みしめながら歩く。
これから歩くであろう道が、小さな湾の向こうの山の中腹に延々とへばりついている。
なんだか気が遠くなりそうな距離にさえ感じられるものの、戻ったって居場所が無いのでとにかく歩く。
どれだけ歩いただろうか、更に深くなった雪を掻き分け、当時は柵も無かった乙女の涙に到着。
「ああ、コレか」
そんな程度にしか感じられないまま再び道路に戻る。
知床峠への道との分岐から更に岩尾別方向に更に進んだあたりで、一緒に来るハズだったオネェチャンから教えられた目印を発見した。
そこから道路を外れ、時おり小雪が舞う曇り空の下、再び雪を掻き分けながら小さな林の中を進むうちに・・・・・・
海に面した絶壁の上に到着し、どうやらココが崖を降りるポイントらしい。
ここさえ降りれば、いよいよ男の涙なのだ。
しかし崖は、やはり雪と凍りに覆われていた。
ゴム長などで降りれるのだろうか?
ましてや、降りてしまったら登れるような気がしない。
でも、ここで引き返すのはあまりにも・・・・
後先を考えずに、一気に下る。
いじらしくも、オネェチャンのペンギン姿勢を忠実に真似して、まるでボブスレーのような状態で滑り降りた。

まだ流氷が訪れる前のオホーツク海の、白濁した荒波が絶壁を洗う。
そこに落ちる、半分以上凍結した滝・・・
ついに男の涙に到着したのだ。
何気に『終末』という言葉が頭をかすめるシュールな光景だった。
時間の経過を忘れ、この数キロ圏内には自分以外の人間など存在しない事実に寒気を感じる。
「そろそろ帰ろう・・・・」
しかし・・・・
凍結し、雪がへばりついた岩は、やはりゴム長などでは簡単に登れる訳が無かった。
登った分だけ、ズルズルと滑り落ちる事の繰り返しだった。
この滝が、我が脳裏に映る最後の光景になるのだろうかとさえ思えてきた。

果てしなく時間が経過し、気が付けば断崖絶壁の上にヘタりこんでいた。
なんだか力尽き、もう一歩も動けないのだ。
「そうだ、メシさえ食えば・・・・」
全く空腹感は無いのだけれど、生きる為には食わなければならない。
しかし、新聞紙を広げて取り出した弁当は、とても食べられる状態では無かった。
カチンカチンに凍ったオニギリを投げ捨て、雪面に大の字に寝転ぶ。
果てしない寒さの中、「もうどうでもいいや」などと考え始めている自分がいた。

ヴォオ・・・・ヴォオ・・・・・
なにやら呻き声が聞こえる。
く・熊? まさかこんな季節に・・・
呻き声は次第に近づき、断続的だった音は、やがて連続音に変わる。
冷静に考えれば判るハズなのに、この時のワタクシは、熊の他には音の正体が思いつかなかった。
「何で冬眠しない熊が居るのだ! こわいよう!!」
ついさっきまで
「もうどうでもいいや」
なんてホザいてたワタクシは、いざとなったら、全然どうでも良くなかった。
近づいてくる、雪を踏みしめる音。
やがて、体を揺すりながらやってくる黒い物体が視界に入る。
「やあ!元気か」
音の正体はスノーモービルだった。
フラフラと出掛け、余りにも帰りの遅いワタクシを案じ、YHのヒゲのヘルパーが救助に来てくれたのだ。
「俺は帰るけど乗ってく? やっぱり歩きたいか?」
「の・乗せてください!!!!」
「フフフ。じゃあシッカリ背中にしがみついて。振り落とされるなよ」

雪道を疾走するスノーモービルは、延々と歩いてきた道を「あっ」というまに駆け抜ける。
「アタマさげろぉ!!!!」
「えっ?」
目の前に、あの人間界との境界線であるゲートが迫っていた。
慌ててクビをすくめると、スノーモービルは猛スピードのままでゲートの下を通過した。
漁師小屋の様な建物が見えてくる。
扉がキッチリと閉鎖されていて人の気配など全く無いとは言え、それでも何とも言えない安心感を与えてくれる。
ああ・・人間界に帰ってきたぁ・・・・

ゴム長とダウンを返す為に、あの食堂の前で降ろしてもらう。
「マジで行っちゃったのか・・・すぐに帰って来ると思ったのに・・」
少しアキレた顔で、熱いお茶とモチを振舞ってくれたアニキ。
彼はウトロの人ではなく、この店でイソーローしながら春を待っている旅人なのだそうだ。
なんだか生き返ったココロモチで店を出ると、夕べ酒を酌み交わしたメンバーが、バス停のあたりに集まっているのが見えた。
もちろん、あのオネェチャンも一緒だ。
どうやら、これからバスでココを去る1人を、皆で見送りに来たらしい。
ワタクシは、そのメンバーに気付かれないように、コソコソとその場を離れた。
昨夜の事がコッパズカシかったし、でも、理由はそれだけではない。
ヘタに顔を合わせないほうが、オネェチャンは気まずい思いをしないで済むのではないかと考えたのだ。
しかし「気まずい思い」なんてのはワタクシの勝手な思い込みで、「うっとうしい思い」と言うのが正解だったのかもしれない。

YHに戻ると、ヒゲのヘルパーが待っていた
「フロ、入れるようにしといたから。少し早いけど、先にメシ食っちゃうか?」
「あ、ありがとうございます。ゴハンはイイです」
熱湯にさえ感じた風呂は、時間の経過と共に快適な温度である事に気が付いた。
それだけ体が冷え切っていたのだ。
メシを辞退したのは、最終のバスで帰るツモリだったし、これ以上メイワクをかけるのが申し訳なかったからだった。


バスの時刻まで2段ベッドの部屋に潜んでコソコソと過ごし、ヒゲのヘルパーに小声で礼を言ってYHを出る。
当然ながら誰に見送られる事も無く乗り込んだ最終バスは、ひっそりとウトロの街を後にした。
大都会の様にさえ感じてしまう灯りが、振り返るたびに小さくなっていく。
それはうすら寂しく、そしてなんだかホッとする光景だった。



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