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月下の一群


月明かりて星稀なり。
満天を埋める星の光が薄れて、空の天蓋はむしろ幽暗に閉ざされている。
その空虚のあまり、魂の声が無理矢理にでも絞り出されそうな夜の色だった。
何故か急き立てられるような思いに駆られて、道を行く一人の侍。
彼は何度も自問自答を繰り返す。
この月のせいか?
この月の光だ。
この月の光が門となり、鍵となり、儂は魔境に入るのだ。

「御武家様、このような宵にどちらまで」
気がつくと白々と冴えた月に照らされて、細い道に人影があった。
若い女で、何やら包みを抱えている。使い帰りの女中とも見えた。
「この先は安国寺、見る影もない破れ寺でございますよ。
道をお間違えではございませんか」
歌うように女は言葉を続けたが、どこか生きている者のようには思えなかった。
生き人形、そんな思いが頭をかすめる。
「お女中こそ、一人でどこへ行かれる」
「…あたくしは」
ころころと乾いた笑い声が上がる。
「棺桶から片足をはみ出した御仏に、御酒を供えに」
にいっと笑みの形につり上がった唇には、ほとんど血の気がなかった。
気の弱い者なら、即刻逃げ出したかも知れない。
「この辺り、鬼や魑魅魍魎が巣くうと言われておりまする」
揶揄するような響きに、思い当たるところがあった。
「…おまえは安国寺から来たのか」
沈黙が肯定の徴だと解釈し、彼は勢い込んだ。
「おまえが妖怪だろうが、構わぬ。案内せい、儂は急ぐ」
微笑を浮かべたままの生き人形は。
「嫌でございまする」
きっぱりと言った。

「儂は行かねばならぬのだ」
彼にとっては、このことが全てに勝るのだ。
人形も頑なだった。
「嫌だと申し上げております…」
「儂は行かねばならぬのだ」

「ならば、あたくしに一太刀浴びせてごらんなさいまし」
「…何だと」
平常ならば、狂人だと捨て置いただろう。
女が月に狂い、人形と化しているのか。
儂が月に狂い、女が人形に見えているのか。
どちらも是なり。
儂も、この女も共に、月の光に狂っているのだ。
「…恨むなよ」

一閃。

女の顔を切り裂いた、と思った。
本来の彼ならば、女子供を斬るには躊躇したかも知れない。
しかし太刀筋に迷いはなかった。
この者を切っても血は流れない。
奇妙な安堵感があった。
だが、あるいはそれ故。
あれ、という狼狽えた女の声に、彼は正気に引き戻された。

一瞬のことだった。
女は影に沈み込み、消え。
甲高い哄笑のみが、微かに風に流れていった。
「…魑魅魍魎だと?」
侍は初めて月光に悪意めいたものを感じた。

瓦が落ち、雑草さえはびこった庭に、途切れ途切れに三味線の調べが響いていく。
優れてはいるが、他に思いをはせているような、そぞろな音色だった。
「…よい月だこと」
弾き手の女が面を上げる。
長い黒髪と、蒼くさえ見える白磁の美貌。
しかし尋常な者を寄せ付けぬ、瞳にぬめるような鈍い輝きがあった。
「でもあたくしは、霧にけぶる月の方がもっと好き」
絶え入るような声音で、傍らの男へ語りかけるでもなく。
「…月は月だ。何も変わらぬ」
男は頓着せず、手酌で酒をあおる。
風情のない、との呟きに、男は鼻を掻きながら至極真面目に答えた。
「酒もなしに月に酔えるというのは経済だな、お捨」

(氷川の旦那、御姐さん)
天井から声が降るのはいつものことだった。
「阿鬼か」
どこで道草を喰っていた、と唸るように氷川と呼ばれた男が詰る。
(客が参りましたよ)
「…客?」
三味線を引く手を止めて、お捨が物憂げに問い返す。
「だったら…」
「追い返せ」
「…旦那ったら」
咎めるようなお捨の言葉を無視して、氷川はごろりと横になった。
(それがせっかちな方で、ここに用があるとその一点張り)
狸寝入りを決め込む氷川に代わって、お捨が相手になる。
「どんな御仁?」
(腕とお腰のものは、旦那と似たようなもの)
「さては、しくじったな」
不機嫌そうに寝返りを打つ。
(…怒らないでくださいまし)
そう言いつつ、阿鬼の口調はさほど済まなそうでもない。
(あたくしたちと同じ匂いがいたしましたので)
「…狐狸の類か、ならば俺たちの眷属か」
薄目を開けて氷川が嗤う。
「御茶でもお出しして差し上げて」
あい、という返事に。
「俺は、酒だ」
どん、と空の徳利を床板に降ろして、氷川は天井を睨む。
(…少々お待ちを…)
言われなくても、と笑みを含んだ声は小さくなった。

程なく。
「安国寺の浪人、氷川某とはそなたのことか」
「おう」
庭からの声に、顔も上げず男は返える。

「…いらっしゃいまし」
おっとりした、しかしどこか虚ろな女の声。
燈明の影になって姿形がはっきりしないが、異様に美しいことは見て取れた。
「お上がりになって」
促されるままに境内に踏み込む。
「おくつろぎくださいな」
女が重ねて促す。

ふうっと酒の香がした。
気がつくとすぐ側に酒膳が配されている。
何者かが近寄った気配もなかった。

男はぐいと杯を干し、投げ捨てる。
炯とした眼光は、全く酒気を帯びていなかった。
「よく来た、とは言わぬ。
ここへ足を踏み入れるからには、それなりの覚悟あってのことだろうな」

「…それは、もとより」



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