戻る


悠久の旅人

○プロローグ

 虫の音が風に運ばれてくる。ひとの手の入った草むらが、夜風にそよがれて波のようにゆれた。

 港。

 海の港であり、空の港でもある。

 わずかに開いた雲を裂くように、月の光が世界を照らした。大地に繋ぎとめられたいくつもの影がその姿をあらわした。観客のいない舞台ではあったが。

 船。

 海をわたる船であり、天を翔る船である。ひとの手により生み出された翼。鳥ならずも空をゆくもの。それは飛空船と呼ばれていた。

 停泊している船の影をぬうように、数少ない観客がこばしりに駆けていく。照らしだす月の光すら脅えるように。ひときわ大きな船影にさしかかったとき、観客のゆくてをさえぎるように俳優たちがあらわれた。

 観客であるふたりの男女にとって、登場を望まぬ舞台俳優たち。無粋な出現者は闇夜のごとく黒服に身を包んでいる。

 脚をとめ、互いに支えあうよう立ち尽すふたり。

「どこへ行こうというのかね?」

 俳優たちの背後から声が漏れた。歳若い声。おそらく青年になったばかりだろう、いまだ少年の面影を引きずった男の姿が月明かりに浮かぶ。

 主役の登場に、黒服の壁がわかれた。青年の姿が衆目にさらされる。ふたりの観客しかないない舞台にしては、この主役はやけに堂々としている。

 劇場を満たす観客の前でなら、あるいは賞賛を得た登場かもしれない。しかし、今ここにある観客は拍手ひとつ挙げなかった。望まぬ登場であったのだから。

「どこへ行こうというのかね?」

 青年はふたたび問う。

「――お前には関係ない」

 観客のひとりが答えた。そしてふたりは観客から俳優へと役柄を換える。

「そうはいかないよ。結婚式を前に、花嫁を誘拐されては花婿として耐えられないのでね。花嫁をエスコートするのは花婿であり、そしてそれは君ではない」

「なにが花婿だ!」

 男は押さえていた激情を吐きだした。

「借金を作らせて、そのカタに無理やりミースと結婚しようとしたのはお前だろう! お前なんかに彼女を幸せにできるものか!」

「――リオン」

 彼女の小さな手が、いまにも飛び掛りそうな男の袖をつかんだ。はちきれそうだったリオンの激情が暖かな感情につつまれて溶けていく。

 ふたりの様子に青年の口元が嫉妬にゆがむ。この男女にとって、青年は邪魔者にすぎないのだと思い知らされる。しかし、無意味なプライドが事実を打ち消した。

「君は必要ないんだ。僕の花嫁を返してくれないか」

 左右の男達に顎をしゃくる。主役の命に従い、黒服の男達はあらたな出演者に群がった。

「くそうっ! 離せ!」

「リオン!」

 引き離され黒服に捕らわれたミースは恋人の名を呼んだ。愛しい青年との距離はわずかなのに、それは無限にも感じられる。

 黒服のひとりがリオンをはがい締めにし、別の男が拳をふるう。肉を打つ鈍い音が虫の音に紛れていく。

 よくある話しだった。

 貧しいながらも真面目に生きてきた男。そしてその男を愛する女性。裕福ではなかったが、愛する人とめぐり合えた幸運はふたりの人生をばら色に染めていた。

 部外者の青年が女性に出会うまでは。

 よくある話しだった。
 青年には地位も財産もあり、父親は街の実力者だった。そして父親はひとり息子に甘い。方々に手を伸ばし、女性の親に借金を作らせた。男には手のだしようのない額。青年の父親は、借金を肩代わりするかたちで息子との縁談をまとめた。

 式を間近にひかえたある日、男は人生で最大の選択をする。

 駆け落ち。

 愛する女性を連れ、青年とその父親の手の届かない街に逃げること。

 家財をなげ売りわずかながらも資金を用意する。船の手配は友人がしてくれた。ミースの母親も協力してくれた。そして決行当日。恋人たちを新しい世界に導いてくれる船に向かうところに現われたのだ。ふたりの人生に影をおとす邪魔者がふたたび。逃走を阻止するために暴力を添えて。

 よくある出来事だった。

「リオン!」

 恋人の身を案じる彼女に応じたのはリオンでなく、嫌悪する青年だった。ミースの腕を取り、乱暴にからわらに引き寄せる。青年の手から逃れようと暴れるミース。

「――離して」

「君は僕の物だ。僕の声だけに応じていればいい。きらびやかなドレスで飾り、一級の調度品に囲まれた豪華な暮らしをしていれば、あんな男のことなどすぐ忘れるさ」

 青年の指先が、ミースの身体のうえを蠢く。

 青年の父親は事業主で街の有力者だが、一番有名なのは街の裏側を牛耳る暗黒街のボスということ。裏で稼いだ金は納税の必要もなく、まさに売るほど財を持っている。

「嫌ぁ! 助けて、リオン!」

「その名を口にするな!」

 青年の掌がミースの頬を打った。乾いた音が響き、彼女は大地に倒れる。

「ミース! 貴様ぁ!」

 リオンは恋人を案じ、ミースを打ちすえた青年に激怒した。そして力ない自分を呪った。いま彼は黒服たちに地面に押さえつけられ惨めな姿をさらしている。男達を払いのける力もなく自由を奪われていた。

 ――ミース。

 心のなかで恋人の名を呼び、痛みより悔しさに唇をかんだ。

「リオン君。君にはチャンスをあげよう。一度きりのチャンスだ」
 倒れたミースは黒服にまかせ、青年はリオンのもとに歩みよった。懐から拳銃を取り出し銃口を男に向ける。本人は気づいていないが、やや顎を上げて尊大に言うその姿は悪役そのものだ。

「彼女をあきらめるなら命だけは助けよう。ただし、今後いっさい僕の前に現れないと誓ってもらうよ。なんなら別の街で暮らしていける金も用意――」

「ふざけるな!」

 青年のセリフをさえぎり睨みつける。もし視線に人を殺せるだけの力があるなら、青年はいくどとなく殺されていただろう。圧力ある視線に押され青年は我知らず体を引いていた。

「絶対に嫌だ」

 頑としていいはなつ。

 屈辱に震える青年は、我知らず拳銃を強く握り締める。力を込めすぎて銃口が震える。狙いが定まらず、しかたなく銃口をリオンの頭に押し付けた。気を取りなおして諭すように言った。

「もう一度だけチャンスを――」

「断る」

 みなまで言わさず断固として拒絶する。殺されるその時まで視線を外すまいと心にきめた。

 銃口を突きつけられようと意思を曲げないリオンに気圧され、優位のはずが決定的な敗北をきっした青年はヒステリックに叫んだ。

「なら消えろ。この世から消えてしまえ!」

「いやあー!」

 銃声と悲鳴が重なる。誰もが頭を撃ちぬかれ倒れるリオンの姿を想像した。しかし血を流したのは青年のほうだった。手の中から拳銃がこぼれ落ちる。

「う、腕が……僕の腕がぁ」

「ぼっちゃん!」

 腕をおさえ痛みに喘ぐ青年に黒服がかけよった。ポケットから取り出したハンカチで止血する。その場にいる全員が、なにが起きたか理解できずに立ち尽す。

 うめく青年を呆然と見ていたリオンだが、すぐに自分を取り戻した。黒服の気がそれた隙を突き、自分を押さえつける手を振り払う。ひとあしで地を駆け、恋人を拘束する黒服を殴り倒してミースを奪い返した。すぐさま背後にかばってその場から数歩後ずさる。

 一瞬のうちにすべての事態が転じていた。

 途絶えた虫の音にかわり青年の呻きが風にのる。雲が月を覆い、ふたたび闇が世界を満たした。

 シュボ。

 音は以外に近くから聞こえた。

 飛空船のからわらに赤い光が灯り、ひとりの男を闇夜に浮かびあがらせた。船体に寄りかかって煙草をふかしている。

 風に流されて雲が過ぎ、月が面をだした。ふたたび月光が世界を照らす。男の全身を一同にさらした。

 二十代半ばくらいの若い男。とくに美男子というわけでないが、どこか人を惹きつける面差し。黒髪と同色の双眸にはいたずら者の光を灯している。濃い緑色のフライトジャケットに灰色のズボン。膝までのロングブーツ。飛空船乗りが好むスタイルだ。

「何者だ!」

 黒服のひとりが誰何の声を投げかける。男は紫煙を吐き出し答えた。

「そうだな。この場合、邪魔者と答えておこうか。あんた達にとっては、だけどな」

 男が笑う。それはやんちゃ坊主の笑みだ。

 我に返った黒服の半分が、男と青年の間に壁となり拳銃を取り出す。身をあずけていた飛空船から背をはがし、男は悠然と歩を進めた。いくつもの銃口にさらされていても気にした様子はない。

 激痛に顔をゆがめ、血走った目を向けて青年が言った。その声は裏がえっていた。

「……お、お前がやったのか。僕にこんなことをして、ただで済むと――」

「乗り気じゃなかったんだけどな。この仕事」

 青年のセリフを途中でさえぎり、どこか楽しそうに男が言った。

「乗り気じゃなかったんだが、気が変わった――」

 殺気が膨らむ。男のセリフが終わらぬうちに、壁となった黒服がいっせいに引き金を引いた。銃声は一発に重なって聞こえた。無数の銃弾を受け絶命するはずの男は、相変わらずのほほんと立っている。それぞれ腕を撃ちぬかれ苦悶する黒服たち。男の手に魔法のように現われた拳銃が、黒服たちから銃を奪ったのだ。驚くべき早撃ちだった。

「乗り気じゃなかったんだが、気が変わった――あんた、男だな」

 最後のセリフはリオンにむけた言葉だ。一瞬だけ向けた視線をすぐ青年に戻す。

「そのふたりは俺のお客さんでね。返してくれないか? そろそろ出航の時間なんだ」

 カウボーイよろしく銃をもてあぞぶ。

 新たな出演者の早撃ちに驚く黒服たちだったが、何人かが乱入者の銃の正体に気づいた。すでに時代遅れとなった古い銃。SAA――シングル・アクション・アーミー。

 現在主流の中折れ装填式と違い、新たな弾を装填するには、本体横のレバーを操作して一個ずつ使用済み薬莢をぬかなければならない。

 男の銃には、もはや弾は残ってないはずだ。早撃ちには驚いたが、装填まで「目にもとまらない」というわけにはいくまい。無事な同僚たちと目配せを交わし、懐から銃を取りだし銃口を向けた。

「チンピラがっ!」

 男はさらされた銃口から身をそらし飛空船の影に飛び込んだ。男のもといた空間を銃弾が突き抜ける。目標物を見失った銃弾は飛空船の外装にあたって火花を散らした。

「馬鹿が。煙草の火でお前の居場所は丸見えだ!」

 飛空船の影に灯るぼんやりとした赤い光。煙草の炎だ。影に身を潜めても、これでは隠れた意味がない。

 闇に灯る赤い光に狙いをさだめ、黒服たちは引き金を引いた。無数に重なる銃声が闇夜にとどろく。何発目かの銃声のとき赤い光がはじける。どさっというなにかが倒れる音。

「やったか……」

「なにをだ?」

 別の場所から男の声がした。そして銃声が響き、すべての黒服から武器を奪った。撃たれた腕を押さえ呻く男たち。

「ば、馬鹿な……」

「馬鹿はお前らだろ。いつまでも咥えていると思うなよ」

 飛空船の影に飛び込んだのは罠。影に身を躍らせると同時に適当な場所に煙草をはさみ、黒服の注意がそれた隙に移動しつつ装填したのだ。

 男は意地悪な笑み浮かべると、呆然としている黒服たちに襲いかかった。拳を、手刀を、脚を、肘をふるい、流れるような動作で敵をなぎ倒していく。最後に残った黒服の脳天に、力ののったカカト落しを食らわす。

 意識を失う一瞬の間に、黒服の脳裏に浮かぶ記憶があった。

 男の持っていた古い拳銃。シングル・アクション・アーミー。別名をピースメーカー(平和を守るもの)という。

 もはやどうでもいいことを思い出し、黒服の意識はそこで途切れた。

 港に静寂な時間と空気が戻った。なにごともなかったように男は服の汚れを払う。懐から煙草を取り出し火をつけた。

「あ……ああ……」

 信じられない面もちで男を見つめる青年。

 腕に覚えのある黒服たちを十人も叩きのめしたというのに、目の前の男は息も乱していない。

 呆然としている青年に見せつけるように、拳銃からゆっくりと使用済み薬莢を取り出す。

「き、貴様……ファミリーを敵にして無事ですむと思ってるのか」

 なんとか虚勢を張ったがそこまでだ。

「俺の心配より、自分のことを心配したほうがいいと思うぜ?」

 もはやなんの力もない青年を哀れむように言った。近づきながら、空になった回転弾装に一発間隔で弾を装填する。

「賭けをしようか」

「賭け?」

 いぶかしむ青年の声は震えていた。

「チップはお前の命」

 弾を込めると撃鉄を半分起こし、弾装を左の掌で転がしてはじく。軽い金属音をたてて勢いよく回わる。その音は青年には死神の嘲笑のように聞こえた。

 頃合いを見計らって撃鉄を完全に起こす。カチっと言う音とともに回転が止まった。

「六発の弾装に一発きざみで弾が三発。確率は二分の一。弾が出れば俺の勝ち。出なければお前の勝ち」

 そう言って青年の額に銃口を押しつける。

「祈りな」

 息をのむ青年の気配。もはや言葉すらない。恐怖に染まった瞳で男を見上げる。

「生か死か。究極のルーレットだぜ。――ショーダウン」

 男は躊躇なく引き金を引いた。撃鉄が落ちる。

「ひいっ」 

 勝敗の行方を知る前に青年の意識は暗転した。力を失った身体が崩れ落ちる。失禁したのか、股間にシミが広がっていく。

「賭けはお前の勝ちだ。ああ、悪い。そういや俺なに賭けるか言ってなかったな」

 いたずらっこの笑みを満面に浮かべ、煙草を吹かす。紫煙が立ちのぼって宙に消えた。

 銃を懐にしまい、観客に戻った恋人たちに歩み寄る。なぜかしゃがみ込んでいる男に手をさしのべ、引起こしてやりながら言った。

「出航の時間だぜ。おふたりさん」

「あなた……は?」

 リオンの問いかけに、男は肩をすくめて答えた。

「俺はボッシュ。ただの飛空船乗りさ」

 片目をつぶり、男は楽しそうに笑った。


戻る