4、江戸の米切手、蔵前札

 各藩が大阪堂島の米市場の取引に関連して、各藩が俵単位(計10石)の米切手を発行した。 この米切手は紙幣というより、現在の「証券・株券」に近く、蔵屋敷に到達してない先物の米の切手である。相場でこの切手を売り、人から人へ流通し、換金も容易であった。
 江戸では旗本・御家人クラスの蔵米取の代理人を札差といい、浅草蔵前の御蔵から年3回に分けて支給される俸禄米を受け取り、これを米問屋に売り払いその手数料を得ることを本業とする商人である。またこの蔵前のお蔵の米を蔵前札と引き換えに受け取る。この蔵前札とは旗本・御家人が発行した蔵米請取手形に書替奉行(御切手手形改)の検査後印を押した米切手である。
 札差株仲間とは札差株を持つ札差たちの組織化のことで、享保9年(1724)109人の札差が江戸町奉行所へ願い出て認められた幕府公認の仲間組織です。この頃以降札差の独占が図られ、その蔵米を担保として旗本・御家人に金銀を融通し相当の利息を取り、武士御用達の金融機関になった。蔵前札も米切手と同様に相場で人から人を回っていって、換金できたようです。

5、江戸の商店発行の商品切手

鰹節のニンベンは商品券銀判「銀2匁」(縦48ミリ・横22ミリ・厚1ミリ)を天保2年(1831)に発行した。やがて天保時代に銀判は紙の商品切手に変わった。面白いことにニンベンの商品切手の裏側に「不漁船間の節は御容赦願上候」と注意書きがあったようです。この商品切手は融通が利き、鰹節が品切れの場合は現金にも替えることができた。

「ニンベン2匁銀判」

商品切手の元祖は大阪の虎屋伊織(菓子屋)で元禄15年(1702)に開業しやがて饅頭5匁切手を売り出した。天保時代のニンベンが商品銀判発行までに約130年あり、ニンベン以前に商品切手を出した江戸の商店を探してみる。ある武士の日記に一流の料亭の八百膳(享保12年「1727」開業)の5両料理切手(食事券)を貰ったとの記録が残っているようです。また八百膳のライバル田川屋の料理切手も大名・旗本の贈物に喜ばれた。その他店名は判らないが、酒・醤油・菓子・うなぎ蒲焼等の食料品にも商品切手が文化・文政の頃(1804〜1829)から発行されていたとも言われているが真偽は判らない。
  商品切手は幕府の許可が必要でなく米札・酒札・茶札・鮮魚札など各種の商品切手が発行された様です。さらに明治維新の藩札発行禁止以降も商品切手形式の紙幣発行は続いた様です。
  現在ニンベン本社にも残ってない幻の紙の商品切手(銀2匁等の銀札)と八百膳・田川屋の料理切手(金5両等の金札)及び府内の商店の商品切手(銭札)等を発見すると、府内にも商品券スタイルの私札が例外的にあったとなる。これら江戸の商品札はニンベンの銀判を除いては記録があるが、現在商品札は発見されておりません。
  江戸に接する武蔵の国千住・草加の宿場には宿場札がある。なお千住・草加札以外の多くの宿場札は現存している。宿場札は正銭に不足し、人馬賃の釣銭・人馬賃代金に用いる名目であったようですが、実際は宿場・近郊の助郷内で村札替わりに使われたたようです。江戸の近郊で使われた様だが発行時期は草加宿人足壱人札で辰とあり明治元年で、ほとんどが東京となった明治初年と思われる。

「草加宿人足壱人札」
146×45

6、終わりに

  商品切手は日記など記録文より、他藩よりは遅いが江戸にもあったと思われる。享保中期(1730)から文化文政の頃(1804〜1829)の古い商品切手が震災・空襲から逃れ残っていることを祈る。商品切手は一度発行すると、資金繰りの為なかなか止められず、再度発行する例が多いと思う。しかし商品切手は期限付きで客も早めに使うし、回収後処分が徹底したのか未発見が多い。この様に商品切手は非常に多種類・発行元商店の所在地不明が多く、現在も研究分類が進んでいないのが現状である。
  廻船役所認可の米札・木綿札・寄場札などの写真・助言を提供頂いた日本貨幣協会副会長の大場俊賢氏・副会長有賀健三氏・理事志村仁史氏及び片岡裕氏に、またニンベンの銀判や商品切手を記載しているニンベン社内報を提供頂いたニンベン広報部秋山氏にこの場を借りて御礼申し上げます。
 引用・全国弐百弐拾藩札図鑑(原色・原寸版)大場俊賢著 雅泉大場俊賢耳順記念祝賀泉譜 江戸物価事典 小野武雄著 東京油問屋市場資料 ニンベン社内報 私札 荒木豊三郎著 お札 荒木三郎兵衛著 江戸時代の紙幣 東京大学出版 その他