江戸の幻お札 「鬼平の遺産寄場札」

平成22年1月      花野 韶   

 江戸では札使いに慣れておらず、幕府崩壊寸前まで札(紙幣)は利用されなかったが定説です。しかし金属貨幣のみとは言い切れなく、一部に札の痕跡がある様です。          

1、幕府発行の紙幣 

  金属貨幣に拘り続けた幕府が、幕府札を発行したのは慶応3年(1867)であった。即ち貿易用に「江戸横浜通用金札」25両・10両・5両・1両の4種を、慶応3年8月8日に発行した。10月14日大政奉還後、10月20日に幕府の財政補充に、「江戸関八州金札」200両・100両・50両・25両・1両の5種を発行した。慶応3年12月14日に王政復古がなり幕府崩壊までの非常に短い期間で発行数は希少である。これら金札の発行元は銀座印の表示で、慶応銀座札とも言われる。また江戸横浜通用金札は1度通用毎に裏に両替屋の小印が押された、従って紙幣と預かり手形の中間形であったようです。
明治維新政府が太政官札10両・5両・1両・1分・1朱の5種を、上野の彰義隊を破った慶応4年(1868)5月15日に発行した。

(札にクリックすれば拡大画像が見えます)
「江戸横浜通用金札」 「太政官札十両」
151×75 159×68

 この年過ぎまで江戸の町では札の使用が無いに近かった。即ち定位金銀判、丁銀豆板銀の秤量銀、穴銭の銅鉄銭の所謂三貨制の金属貨幣であった。三貨の使い分けは売るお店の表示請求金種に従って、客は売品が銭表示なら穴銭で支払った。従って江戸の人は銭の両替を主体にする露天・行商の銭両替屋(銭売り)を利用した。なお商品に結構銀目(秤量銀貨幣の丁銀・豆板銀の匁単位)表示が多いが、秤量銀貨幣の流通量が少ないので、文銭勘定や金建の定位銀貨幣(1分銀・1朱銀)で柔軟対応した様です。

2、幕府発行札を探して

  慶応銀座札以外で幕府発行の札を探すと、廻船方役所が卯(う)即ち慶応3年2月南京米引換え幕府札がある。これは米価暴騰につき幕府は慶応2年10月に南京米の輸入を許可した。これに対応し慶応3年2月16日から2月20日限りの幕府札を発行した。南京米1俵で価格は金3両3分と端数銀3匁5分7厘である。南京米輸入資金を集める為に、前年の輸入許可後の慶応2年(1866・寅)10〜11月に、この幕府札は発行された可能性がありえる。地名の北新掘町・小田原町は共に江戸日本橋にある。慶応4年(1868)8月8日の江戸横浜通用金札より少しであるが古い発行と推定される。廻船方では慶応4年6月限りで大判綿五百目価銀五十匁札もある。同じ頃に小石川御薬園が鮮(生)地黄切手として1斤に付き1朱の札もある。また幕末に発行とする札に八丈島産物会所札があり、並竹四十四本、代金一分とある。なお八丈島産物会所札には鮮魚札でタナゴ30枚88文もある。その他黄八丈の反物札などがあるようです。

南京米1俵 大判綿五百目 鮮地黄切手
157×53 150×53 不明
八丈島産物会所札竹 八丈島タナゴ札
不明 141×44

3、火盗改め鬼平の遺産寄場札

  寄場札(よせばさつ)という江戸の札がある。寄場とは人足寄場とも言い、火盗改めの鬼平こと長谷川平蔵が提言し、寛政2年(1790)に石川島に作った牢を出た無宿人用(ホームレス)の職業学習刑務所です。人足寄場内には作業場があり、おもな物に灯油絞り・精米があったようです。寄場札は種類が多く商品・発行年・値段・札元に分かれます。主な商品に灯油と食品の胡麻油などがあります。未発見札も多くありそうで今後の研究が待たれます。
 また灯油・食油は価格変動が大きく、幕末ピーク時には普段の4倍まで高騰した。発行時の印刷価格が売り出す時点で変わってしまい、価格改定印をしている札もあります。寄場札の灯油札・胡麻油の干支と価格から発行年を推量してみる。なお江戸時代は灯油も食油も1石単位の卸相場はほとんど同じであって、胡麻油札は灯油札の1升当たりと比べて、5合と小分け売りの為少し高いようです。幕府は諸藩に対して藩札を抑制する政策を行ったが、江戸府内でもなぜか紙の寄場札が発行されたようです。現在池波正太郎の鬼平犯科帳で誰でも知るようになった、人足寄場も普段は油絞りも精米と同じく手間賃稼ぎから、時たまイベントバザーとして油販売があったのか、その商品札の様です。

「1、灯油寅年」 「2、胡麻油寅年」 「3、灯油戌年」
158×60 160×57 158×52

 まずは札1の寅年・灯油一升改銀9匁4分の札は候補が慶応2年(1866)・安政元年(1854)になるが、灯油値段から判断し慶応2年(1866)の5月5日であろう。
札2も寅年・胡麻油五合改銀5匁2分の札で慶応2年(1866)の5月5日であろう。
札3の戌年・一升銀5匁8分は改定価格印が不明瞭であり、しかも文久2年(1862)は灯油値段の変動が大きいが、福島屋真平名から文久2年(1862)2月限りであろうと思う。

「4、胡麻油寅年」 「5、灯油寅年」 「6、胡麻油丑年」
167×46 163×46 155×45


札4の寅年・胡麻油五合2匁6分5厘は安政元年(1854)・天保13年(1842)が候補で値段から安政元年(1854)9月であろう。
札5の寅年・灯油一升4匁6分も安政元年(1854)正月であろう。
札6の丑年・胡麻油五合2匁6分5厘は安政元年の前年嘉永6年(1853)9月であろう。

「7、灯油子年」 「8、胡麻油亥年」 「9、灯油卯年」
160×45 159×45 164×45

札7の子年・灯油一升4匁4分は嘉永5年(1852)と天保11年(1840)が候補にある。嘉永5年及び天保11年も秋の江戸小売は4匁8分と同額で札値以上であった。とりあえず卸相場から嘉永5年(1852)8月限りとする。
札8の亥年・胡麻油5合銀2匁5分は候補で文久3年(1863)・嘉永4年(1851)があり、値段から嘉永4年(1851)8月限りであろう。
札9の卯年・灯油一升銀4匁2分(改銀4匁1分)は候補で安政2年(1855)・天保14年(1843)の中から灯油価格から天保14年(1843)4月限りであろう。

寄場札に飯田町及び何丁目とあるが、飯田町は広く現代の神田駅前から飯田橋にまたがっている江戸で最初に開かれた町です。何丁目は現代風だが、江戸の町人町には江戸時代から使われていた。札9の卯年灯油札は天保14年と特定できます。これにより慶応4年(1868)よりも26年も以前の天保14年(1843)頃から寄場札の発行があったと思う。この寄場札の発行時期についてはいろいろな意見が出ることを期待します。
 なお私札(荒木豊三郎著)によれば、浅草寺の札元形式で、寄場方の灯油1升銀札9匁4分と8匁札があり、さらに飯田町には4匁(改銀5匁1分)とある。画像が無いので干支が判別できないが、価格から見てさらに古い寄場札である可能性が高い。浅草寺も飯田町の両札とも私札と分類されているが、人足寄場は明白な幕府施設であり、私札と言うよりは役所が関係するので幕府札と思う。
  寄場札のサンプルが多くあれば年代特定が確実になるでしょう。拙者個人では限界がありまだまだ未見の寄場札が多くあると思います。ご参考になればと思い寄場札のサンプル画像を数少ないが敢えて発表しました。より充実した内容にしたいのでが寄場札のサンプル画像が御座いましたら、お気軽メールなどでご連絡をお願いします。