3)蓄財の方法

 米・布・絁は保存に限界があり1~2年未満が妥当です。いつの世にも金持ち階級は存在し、贅沢な暮らしをするには大枚を支払う必要はあります。多額の支払いに当てるためには蓄財が必須です。それには余剰の米・布・絁などを長期間保存に耐えられる品に交換する必要があります。長期間保存できて米・布・絁に戻せる品物を探すと、それは砂金を筆頭にした金属類で鍛冶鋳物屋原料の鉄地金と銅地金があります。平安中期の職業を細かく描写している新猿楽記(しんさるごうき・藤原明衡・1050頃)に鍛冶鋳物(かじいもの)師が作り出す品名が記載してあるが、剣・鎌・釜・鏡・花瓶など鍛冶・鋳物品と現在とほとんど変わらぬほど並ぶ。この原料は鉄地金であり銑(鋳物用)・鋼(刃物用)で板状(鉄廷)であったそうです。また銅地金も原料で新猿楽記では商人の船の積荷に銅があげられている。西暦950年頃以降銅の枯渇で地方では梵鐘の鋳造は無くなり、京でわずかに梵鐘や新猿楽記の銅商品が鍛冶鋳物師によって鋳鍛造されたようです。鍛冶鋳物師には鉄地金・銅地金は必需品であり、いつでも売れたと思われる。その価格も估価法で基準値が公表されており売買は安心できた。鉄地金・銅地金が多く貯まるとより高額の砂金に交換したと思われる。砂金ならば品質の低下もなく長期保存にも向き、嵩まないので高額代用貨幣で移動にも最適であったろう。

 貨幣がない時代の蓄財は似ており、日本書紀には顕宗(けんぞう)天皇2年(486)10月6日に「是時天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、牛馬被野」とあります。この文の要約は「このとき天下は平安で人民は徭役( ようえき)に使われることもなかった。穀物はよく稔り、百姓は富み栄えた。稲一石は銀銭一文に購( あがな) われ、牛馬は野にはびこった」(引用・日本書紀/宇治谷孟訳)。後漢書で明帝紀永平2年(59)の文章とほとんど同じで修飾的に引用に過ぎない、したがって銀銭は事実の記録とは認め難いとしている内田銀蔵説(日本古代の通貨史に関する研究)の影響下に今日でもあります。出土している無文銀銭も内田銀蔵氏の影響力で貨幣では無く装飾品とする論議もあるが、私は民間鍛造の蓄財用の貨幣であったと思います。稲では長期保存が出来ないので銀銭に交換し蓄財したと思う。そして銀銭から稲への交換もまた可能で普段の生活にも役立ったと思います。さらに古墳時代の貴金属である銀は、今日の本位貨幣で価格も大きな変動は無かったと予想される。この便利さで天武12年(684)の富本銭発行時まで蓄財主要貨幣として無文銀銭は利用されたと私は思います。さらに天武12年(684)以降も蓄財品として銀(塊)は政府が認めた。なお低額蓄財物としても利用されたであろう鉄廷(インゴット)が古墳時代以降各地で発掘されている。
 日本書紀で持統天皇5年(691)9月4日、12月2日銀20両賜る、6年(692)2月11日同じく銀20両与える。持統天皇8年(694)3月16日及び10年(696)4月10日に恩賞とし鍬(スキ)を与えると有るがこれらは蓄財として利用されたと私は思います。即ち天武天皇12年(683)4月15日に無文銀銭を中止させ政府の信用貨幣富本銭を発行するが、人々は信用貨幣に知識が無く慣れない為に富本銭が普及しなかった様です。それで持統天皇時代では等価の交換貨幣(インゴット貨幣)に戻した銀(塊)や鍬が恩賞に使われたと私は思います。

無文銀銭 砂金
丸銅 鉄廷

4)砂金での取引

 砂金は建前では皇族・貴族のみの独占品であり、後世の桃山・江戸時代の大判のような物であるが、実際には高額な取引には利用されたと思う。1000年ごろの風俗を書いた源氏物語横笛の最初に権(ごん)大納言の死を惜しむ者が多く、柏木の衛門督(えもんのかみ)は法事の際に黄金百両をお贈りになったと、砂金の贈与例が書かれている。また寛仁元年(1017)5月藤原道長の屋敷から(砂)金2000両が盗難にあった。即ち砂金は使い道があったから盗まれたのであろう。例えば貴族の女性が着ていた高価な十二単はどうして購入したか考えてみる。十二単の布地は高級品の絹でありそれも大半が中国からの輸入品、また国産品も絁(あしぎぬ)とは違い山繭(自然界の繭)が入らない高級な絹であった。これら高級な絹を染料で専門家が微妙な色合いに染めた。即ち十二単は高価な非常に軽い絹でしかもシースルーの様に約50%の透明度であったそうです。これらを購入するには輸入絹が商品基準になり、親・夫(または恋人)が貿易決済に使える砂金で支払うか、津屋から砂金などを貸り十二単を購入する場合もあったと思う。元来砂金は貿易地の大宰府が主要利用地域であった。当時交易は大宰府の鴻臚館(こうろかん)が永承2年(1047)に放火され失われ、政府直接交易から貴族・有力寺社が中心で箱崎での取引に変わっていた。実際には貴族・有力寺社から請け負った中国語・朝鮮語が判る大宰府商人が交易していたと思う。

後世で言えば大判且つ外貨であった、平安時代の砂金の使用範囲は案外と広い範囲であったと思う。まず中央政府へ税が砂金で納めるように義務づけになっていた、陸奥国司は年貢を荘園主へさらに住民にも米・絁だけでは無くやはり砂金でも納税させたと思う。砂金取りは陸奥の農民等一般住民も参加していたので、陸奥の住民は高額取引には砂金を用いる風習になったと予想される。砂金は河川の氾濫・砂金の枯渇などで毎年一定量となりにくい側面がある。そこで陸奥の商人は馬など他の特産品を砂金に交換し陸奥に納税不足分の砂金を持ち帰る工夫が必要となる。これらより陸奥では高額取引には砂金が使用されていたと思う。次に大宰府は中国との取引で必然的に砂金を使うので交易役人・商人の間では砂金取引は必要であった。京都では皇族・貴族以外でも十二単を扱う商人及び職人さらに絹以外の輸入品業者間では砂金は用いられたでしょう。さらに貴族の屋敷は寝殿造りと言う豪華な建築があるが、これも高額で砂金を利用し大量の桧など高級建材を集めたと予想される。このような素地があるので大宰府・京・陸奥を点とすれば少なくとも点を結ぶ道中即ち日本の大半で砂金は利用できたと思う。何しろ砂金は京・大宰府・陸奥に持ち込めば必ずさばける背景があったからです。

5)瀬戸内海の船運賃記録から

時代は下るが大治5年(1130)11月に筑前観世音寺(ちくぜんかんぜんおんじ・大宰府)の年貢運上勘文という史料に領主東大寺(大和国)への年貢米150石の船運賃のメモがある。そのメモには年貢150石に対し船運賃は米66石9斗と凡絹(すなわち絁)45疋(ひき)とある。凡絹45疋が112.5石となり運賃全体179.4石の計算になる。即ち年貢米150石より高い約1.2倍になる。はたしてこんな高い運賃で本当に年貢米現物を運送したかは疑問である。当時米はどこでも取れて先進都市に人口集中もなく、大和国の現地で米を購入すると考えるが常識的です。玄米150石なら凡絹60疋ですむことになります。砂金に替えれば、玄米150石換算砂金30両(480g:砂金1両「16g」=玄米5石)で懐に入れて持ち運べた。おそらく砂金又は高級輸入絹が大宰府から東大寺への年貢になったと思う。

少し前の永長2年(1097)源俊頼(としより)が大宰府からの帰旅で和歌を記録し、地名が約25箇所あり瀬戸内海は暗礁が多く夜は泊(湊)に停泊した地伝い航路であった様です。結局大宰府から京都までは船と徒歩日数で約1ヶ月半と予想以上にかかっていたようです。

なお遠隔地から都(京・鎌倉)に一枚の書付を送ることで、品物を受取れる為替が発生するのは、すこし後の鎌倉時代であった。鎌倉時代の為替は鎌倉・京都に勤務する番役に主に米など(即ち給与)を、大口の年貢などの輸送に便乗させ、為替手形と交換に鎌倉・京都で品物を受け取った様です。以上