6.日本書紀683年の銅銭の銭種は何か

 両本記載矛盾を解消することで、日本書紀の683(天武12年)に無文銀銭の貨幣を排除して銅銭に取り換えたが、この銅銭も当然同じく貨幣の機能を持ち、政府が利用を促進している。この銅銭の銭種を特定する必要がある、この銅銭特定で結果的に富本銭の通貨か厭勝銭等の決定付けとなる。

  銅銭候補を大きく分類するとまずは日本製鋳造銭か渡来銭になる。

 1)渡来銭を借用利用するには時代背景から無理があると拙者は考察する。すなわち唐及び新羅とは交戦後であり継続保証が無い渡来銭を通貨とするには、時の政府には躊躇いがあった。さらに当時のよく難破する船の航海能力からも、銭の輸入補給は国内生産より不安定補給となり民間発行は別として、政府が渡来銭借用発行を選択する余地は少ないと思料する。

  次に日本製鋳造銭としては富本銭・無文銅銭・古和同開珎銅銭が候補銭であろう。

 2)無文銅銭(飛鳥の大官大寺跡より出土で700年前後と推定)は現在解明出来て無いが、拙者はこの683年の政府命令に対抗して、無文銀銭鋳造者が銅銭として発行したが卑金属でうまく行かなかった私鋳品と推測する。すなわち官鋳品である確証がないので候補銭から除く。

3)古和同開珎銅銭では、古和同開珎銅銭と古和同銀銭は母銭が同じなので共に和銅元年以前に発行されたのであれば、和銅二年と同様にニセ古和同銀銭がすぐに出現し、和銅元年以前の日本書紀・続日本紀に天下の大罪で何らかの記載があるはずだが見られない。且つ飛鳥鋳銭工房跡又は飛鳥時代の工房跡より古和同開珎鋳造の痕跡が無いので、この古和同開珎説で天武12年の25年前まで遡って発行されたとするには現在では無理がある。

 4)富本銭は発掘現場より飛鳥時代の地層と政府工房の官鋳品であることは一応明確である。

 銅銭の面を見て四文字であり銭の体裁を完璧に持った、ベストな銭の鋳造痕跡が飛鳥時代の地層から出土すれば全員が納得する。そんないい所取りの銭が発見されれば別であるが、候補銭の中から消去法(帰納法)で残った、ベストでは無いがよりベターな銅銭として、富本銭を拙者は683年の銅銭で貨幣と現時点では推断する。


 

7.終わりに
 天武12年(683)4月15日「今より以後。必ず銅の銭を用いよ。銀の銭を用いる莫れ。」の銅銭は「必ず銅の銭を用いよ」と銀銭禁止を伴う絶対命令のいわゆる強制の銅銭である。この銅銭を決定する要素でまず(1)時代が合うか(2)政府の製造か(3)銅で出来た銭かとのプライオリティー(重要度順位)で、順次検討し決定すべきであると拙者は思料する。
富本銭は飛鳥時代の場所・地層と年号を明記した木簡が同時に出土した、これは(1)時代が合うかをクリアーしている。次に富本銭の鋳造痕跡が政府工房跡から出土と官鋳品であり政府が鋳造したので(2)の政府が製造も合致する。富本銭は重要度第一・二段階を解消して、最後の第三段階の(3)の銅の銭かを巡って通貨と厭勝銭が討議されている。
さて富本銭の面の厭勝銭風が議論になるが、通貨とは同じパターンの銭が後の銭で踏襲発行されればそれがその国独自の通貨の形式となる。開元通寶を真似たといわれる和同開珎では銀銭もあり且つ銭名の開珎は中国銭に無く(唐で開元銭以降は元・通・重・泉寶のみ)日本独自性を出している。当時の唐で和同銀銭を見た人は不慣れな為日本の厭勝銭としたであろう。富本銭発行時は唐・新羅と白村江の交戦後でありなおさら唐とは違う日本独自性が強く出た時代であった。したがってこの時代の強制通貨が独特の面であっても決して不思議ではない。
元来通貨とはどんな材質でもまして銭名がどうあろうと政府が強制通用を命じた銭でありさえすれば通貨ある。これは天武12年でも同じで、富本銭はデザイン設計者が唐銭に真似る既成概念に捕われず自由に好みの銭面を造ったと思料する。だが開元通寶の影響からすべては逃れられず直径は鋳造が面倒にも関わらず同寸の約24ミリである。
 以上より飛鳥時代の貨幣とし消去法(帰納法)では富本銭が選択され、また富本銭から思考した演繹法でも強制に通用させた通貨に該当する。これより天武十二年に発行された銅銭の通貨は富本銭であったと、国史(日本書紀・続日本紀)を主体にした歴史学からの拙者の考察した結論である。
 なお本見解については、多々見解もあると思われますので、今後両本でのこの記載矛盾及び富本銭が通貨か厭勝銭・試鋳銭の疑問解明にやはり専門家の研究に期待したい。
 これまで古銭浅学で歴史素人の拙者が先走った意見を申し上げたことをご容赦願います。       以上


(参照)
【日本書紀】
○天武天皇十二年 683年4月15日   今より以後。必ず銅の銭を用いよ。 銀の銭を用いる莫れ。(注―訓読の助詞はこの時代にはカナが無く銅[あかがね]の銭・銀[しろがね]の銭は銅銭・ 銀銭と同じと現時点ではする。必ず[かならず:絶対に]・莫れ[なかれ:無かれ])
 4月18日   銀を用いるを止め莫れ。
○持統天皇八年  694年
11月20日 直広肆大宅の朝臣麻呂、勤大貮臺の 忌寸八嶋、黄書の連本実等を以って鋳銭司を拝す
【続日本紀】

○文武天皇三年 699年 
12月20日  始めて(新たに)鋳銭司を置く。直大肆中臣の朝臣意美麻呂を以って長官為す。                            

○和銅元年     708年

2月11日    始めて(新たに)催鋳銭司を置く。従五位上多治比の真人三宅麻呂を以って任す。

       (改めて新しく催鋳銭司を置く)

5月11日    始めて(新たに)銀銭を行う。

       (改めて新しく銀銭を発行)

7月7日      〔内蔵の寮に始めて(新たに)史生四を置く〕

7月26日    近江国をして銅銭を鋳せ令む。   

       (半月後に銅銭発行は不可能であり、藤原京に在ったと推量する催鋳銭司で2月11日から銀銭と銅銭が同時製造着手した。これより銀銭は3ヶ月・銅銭は6ヶ月で発行した。また近江鋳銭司は銅銭第2工房となる。)

8月10日    始めて(新たに)銅銭を行う。(改めて新しく銅銭を発行)

○和銅二年    709年

1月25日  向に銀銭を頒ちて、前の銀に代へたり。また銅銭並び行う。・・・・私に銀銭を鋳る者は、その身は没官、財は告人に入れよ。・・・ ・(向[さき:和銅元年]に銀銭・銅銭を共に発行したと念を押して記載。さらに銀銭で銀塊を回収した。7ヶ月後に偽銀銭が出現により刑罰を加える、これは銀銭が割合短期間で製造可能を証明。また銀銭の製造期間3ヶ月はまだしも銅銭製造期間6ヶ月は非常に短期間と言えるが、続日本紀で念を押して書いてあるので一応国史を優先し和同開珎銀銭・銅銭の発行は和銅元年以前でもなく、または和銅元年以後でもなく教科書の様に和銅元年に改めて新しく発行されたとする。)

(注) 大宅の朝臣麻呂(おおやけのあそみまろ)  臺の忌寸八嶋(うてなのいみきやしま)

   黄書の連本実(きふみのむらじほんじつ) 中臣の朝臣意美麻呂(なかとみのあそおみまろ)

   多治比の真人三宅麻呂(たじひのまひとみやけろ)

 

(参照:和同開珎の発行時期の諸説)
和同開珎の発行時期を巡って3説あり、@和銅元年和同銀銅銭発行の教科書にある一般説続日本紀和銅二年に向(和銅元年)に銀銭・銅銭供に行うと念を押して記載してあるので国史に忠実な発行説。なお和同銭の製作期間が銀銭三ヶ月銅銭6ヶ月と短いのでA和同を和銅とせず、吉祥文字とみて不隷開古和銭を和銅元年以前発行と見る以前説。さらにB当時の役人の法律施行事例書に「和銅元年に銀銭を用よ。和銅三年に銅銭を用いよ。」とありこれより以後説。の三説がある。 
 続日本紀で次の萬年通寶は勅が出て5ヶ月後に寺・神社に新銭(萬年通寶)を給うとあり銅銭でも鋳銭司工房が既にあれば半年ぐらいで鋳造仕上がりが可能である。銀銭は銀が銅より融解度が約100度低く鋳造は偽銀銭も早く出たことよりも比較的簡単である。これより銀銭3ヶ月銅銭6ヶ月は既存の鋳銭司工房があればまったく不可能では無いと拙者は思索する。
「引用」貨幣第44巻第1号(H12.2)富本銭発掘で日本貨幣史は書き換わるか:拙者
「後記」平成11年1月20日の各朝刊は富本銭が和同開珎より古い銭と大体的に報道された。これから古銭会は著名人をも巻き込んで論争になった、その決着は現在もまだ着いていません。拙者は新聞を見て和銅元年(708)のわずか25年前の天武12年(683)のことであり、経済活動からも政府発行の貨幣の発行の機は充分にあったのではないかと思っていました。そのことを踏まえて当時「貨幣」に発表した論説です。(平成18年9月15日記)