富本銭発掘で日本貨幣史は書き換わるか

                                       平成11年9月

                花野 韶

 

 平成10年8〜12月、奈良県の飛鳥池遺跡の工房跡から33枚の富本銭が発掘された。富本銭は発掘の場所・地層から飛鳥時代の古銭であり、即ち和同開珎より古い通貨の可能性が高いと、発掘にあたった奈良国立文化財研究所が発表した(平成11年1月20日各紙朝刊)。
1.  冨本銭を巡る各派の主張・弱点 
           
通貨 厭勝銭 試鋳銭
各派の主張 1)飛鳥時代の政府工房で製造
2)日本書紀の683年の銅銭を用いよに合う
1)表の7点の七星模様があり絵銭風
2)中国の影響が強い日本で中国厭勝銭を真似た
1)続日本紀708年の銅銭を行うと念を押して記載している。
 これより飛鳥時代の富本銭は小量の試鋳銭であった。
各派の弱点 1)日本書紀の683年の銅銭を用いよと続日本紀の708年(和銅元年)始めて銅銭を行うの矛盾。

1)平城京で出土までの説であり、飛鳥政府工房よりの発掘では通貨より先に厭勝銭を政府が作るか?
2)日本書紀683年との矛盾・日本書紀の通貨を認める時の別飛鳥 通貨が未見

1)通貨と厭勝銭の折衷案的であり、 試鋳銭と断定しづらい。
2)日本書紀の683年の銅銭を用いよに矛盾。

2.日本書紀・続日本紀の貨幣関係文の抜粋

書面及び文面 政府公認
  
私鋳・民間鋳造

日本書紀 (720年に撰上 元正天皇:天武系)

   

・486(顕宗2年) 稲穀銀銭一文

  ・無文銀銭?
 ・674(天武3年) 対馬で銀が発見献上高官に分配 ・銀塊で分配

(673年天武即位)

・679(天武8年) 新羅から金・銀・銅・鉄が入貢

    

・683(天武12年) 今より銅銭を用いよ、銀銭を使うな 、3日後銀は使ってよい

・銅銭通貨の発行
・銀塊は使用可

・無文銀銭中止
 ・684(天武13年)新都の場所を視察    

・688(持統2年) 新羅が金・銀・銅・鉄を入貢

   

・691(持統5年) 音・書博士に銀20両与える

   
  ・694(持統8年) 鋳銭司に大宅朝臣麻呂等任命 ・造幣局長任命 (藤原京へ)
続日本紀  (797年に撰上 桓武天皇:天智系)    

・699(文武3年) 12月 始めて鋳銭司を置き長官を任命

・始めてが2度目  

・701(大宝元年) 対馬が金を献上

 

(度量成立)

・703(大宝3年) 紀伊の三郡に物納税を銀で納めよ

   

・708(和銅元年) 1月和銅を発見2月に催鋳銭司 を任命 5月に始めて銀銭を行う 7月近江に銅銭鋳造命令 8月始めて銅銭を行う(和同開珎)

・政府初発行銀銭
・始めてが2度目
 ・銀塊を交換回収

 

・709(和銅2年) 先に銀銭を発行して前銀に代えた銅銭も一緒に発行しかしニセ銀銭がでた。 8月銀銭使用制限令

・偽貨幣製造中止

・ニセ銀銭製造
(和銅元年に銀銭・銅銭を共に発行と念押し)

・710(和銅3年)太宰府・播磨が銅銭を献上

・和同銀銭廃止 (平城京へ)

・711(和銅4年)蓄銭叙位令・銀銭廃止令

   

・712(和銅5年) 物納税が銭で納め可能化

   
  ・714(和銅7年) 撰銭(えりせん)禁止令    
3.銀と銀銭の区別
 後世で銀は丁銀等計量(秤量)貨幣で、銀銭は永楽銀銭等銀の穴銭の定量貨幣であった。おそらく日本書紀・続日本紀の記載でも銀は計量貨幣の銀塊であろう。ただし当時統一された分銅をもつ秤(天秤)が存在したとは考えにくく、銀塊の計量方法は不明である。しかし両(コロ)と言う計量単位の記載が日本書紀にあり計量はされていたようです。銀銭は定量貨幣の銀の穴銭と思料できる。飛鳥・奈良初期時代の銀銭は私鋳品と思われる無文銀銭、官鋳品の古和同銀銭である。太平元宝銀銭は時代がくだるし賈行銀銭は未解明の銀銭である、これより太平元宝銀銭と賈行銀銭は飛鳥・奈良初期時代の本テーマの対称銀銭から一応除く
4.日本書紀の683年に銅銭発行・銀銭使用禁止及び三日後の銀使用可の解釈
 まず使用禁止になったすなわち計数貨幣を否定された銀銭は政府の救済手段がないので、銀銭の所有者は鋳潰すかあるいは集めるかと秤量の銀塊として使う方法しか無い。すなわちこの銀銭は政府が責任を持つ必要の無い私鋳品の銀銭すなわち無文銀銭である。無文銀銭は私鋳であり重量・技術的に難しい品位が不統一であり、価値貨幣として使用に不便であった。これより民間側からは銭の官鋳を希望していたと考察する。一方政府側はお金が必要となったことはまず間違いない。仏教の全国拡大による寺の建設費用の増大で政府の出費は重なり、さらに藤原京の建設資金を必要としていた。著者の思索であるがこの経済成長を国内資源だけで支えるのは無理があり、銀(銀塊)が交易決済通貨としてあり政府は銀が必要であった。
また無文銀銭は私鋳であったが政府も経済の発達で貨幣鋳造権が無視出来なくなり、貨幣鋳造権を是非にも政府が独占し利益を得る必要があった。そこで銀銭を法律で通用禁止にして、私鋳銭である無文銀銭を銀塊に鋳直させて、政府公認の計量の銀塊化を促進させることである。 また計数貨幣は無くなり経済に混乱が起こるのを防ぐために、不兌換貨幣の強制の銅銭の発行を計画した。
これら政府と民間の思惑が一致した政策により、政府は結果的に不兌換貨幣の銅銭で本位貨幣の銀塊を入手出来る機構を作り実施した。銅銭が史実ならば日本書紀に記載されている683年の謎の朝令暮改といわれた、銅銭の発行と銀銭禁止及び3日後の銀の使用可の令に合致する。
ここで日本書紀及び続日本紀の銀銭と銀の変遷を時系列に並べると銅銭を683年に発行したとする方が銀と銀銭の変遷がより明確でスムーズである。

   (1)486年銀銭が存在する                    (銀銭)                  日本書紀

     (2)683年銀銭使用中止で銀塊のみが通貨      (銀塊に一本化)        同上

     (3)703年紀州の三郡銀塊で納税              (銀塊)                 続日本紀

     (4)708年古和同銀銭発行して銀塊回収        (銀塊を回収:銀銭発行)同上

     (5)709年ニセ銀銭が出現して古和同銀銭を制限(銀銭制限)             同上

  〇時系列分析 銀銭→銀銭を銀塊化→銀塊で納税→銀塊回収銀銭→銀銭制限と尻取りになり辻褄が合う。

5.続日本紀708年の始めて銅銭を行うの解釈
 日本書紀に694年鋳銭司を置く記載されいるにも関わらず、続日本紀で699年と明確に後年であるのに始めて 鋳銭司を置くと両本で食い違いがある。同様に日本書紀の683年銅銭を用いよとあり、続日本紀では708年(和銅元年)に5月に始めて銀銭を行う、さらに8月に始めて銅銭を行うと両本で矛盾がある。
[683年(天武12年)に銅銭が発行済みの時の解釈]
続日本紀の「始めて」は日本史上初だけの意味ではなく、意味の幅を広げて考慮する。
(1)始めては史上初では無くその月「から」の意味であるか。銀銭は5月から発行した又銅銭は8月から発行した。鋳銭司を置いたの意味も同様に669年12月から鋳銭司を置いた。(2)富本銭は少量発行の銅銭の為に和同開珎のほうが記憶に強烈であり続日本紀の編集者は和同開珎が日本史上初であると思い込んだ(3)続日本紀が797年に撰上されたが時の桓武天皇は天智系に戻っており、編集者に天武天皇の史上初の通貨発行の偉業を薄める意図があった。これらとは別に拙者はC鋳銭司を任命で明らかに続日本紀の「始めて」がわずか5年後にも関わらず記載している。同様に銀銭・銅銭の「始めて」は続日本紀の編集者が別の意味で使ったと考究する、これについては後ほど詳しく説明する。
 [708年(和銅元年)が史上初めての銅銭発行の時の解釈]
 続日本紀の始めてが日本史上初の表現とすると和同開珎が史上初の通貨となる。これより708年(和銅元年)5月に史上初の政府公認銀銭を発行した、さらに8月に史上初の銅銭通貨を発行したとなる。699年に始めて本格的通貨造幣局を置いた。なお日本書紀の683年の銅銭用いよと694年 鋳銭司に大宅朝臣麻呂等任命の鋳銭司の文章は意味不明である。これは日本書紀の銅銭発行を否定することになるので飛鳥時代に銅銭は無かったことになる。   
[避けて通れぬ両本記載矛盾の解消]
 富本銭が通貨・厭勝銭等の論議に入る前に、今まで述べてきた日本書紀と続日本紀の記載矛盾の解消をしないと、後でまたこの記載矛盾に戻り堂々巡りなるのでここで記載矛盾を是非とも解消する。
683年の何かの銅銭の発行が実施されなければ、やはり日本書紀683年(天武12年)銅銭の利用命令の制令が説明出来ない、これより拙者は日本書紀を全面否定する解釈よりは、両本が少なくとも時の最高学者が作成したことからも、続日本紀の「始めて」も活かしさらに日本書紀の記載文も意味が通る方法を模索する。続日本紀を読んでみると、「始めて」の語句が多く見つけられる、例えば同じ和銅元年7月「内蔵の寮に始めて史生四員を置く」と同じ頁でも見つけられる。これは「始めて」が史上初めてでは無く新しく(新入職人)という意味で使われている。続日本紀で他の「始めて」の意味も史上初・新しく・改めて・ようやくが区別すること無く使用されている。当時の「始め」てに近いニアンスの現代語としては新しく・改めて新しくを共有した「新たに」がよく似ている。すなわち始めては新たににようやくが加えられた幅広い意味で曖昧感を持つ古語であると拙者は推断し、両本記載矛盾議題の一応の結論とします。この結論で日本書紀と続日本紀で銅銭発行での記載矛盾は無く、日本書紀の銅銭もあり続日本紀の記載文は改めて新しく(新たに)銀銭及び銅銭を発行したとする。