4、分銅の計測
 貨幣では無く保存された分銅を計測すれば匁の数値が直接判ると思われる。分銅の計測については、計量研究所に保管されている、後藤の分銅を天野清氏が実測した結果は、誤差の少ない量目の大きいものについて、一匁=3.75gより一万分の17程度重いそうです。しかし小泉袈裟勝氏が5組の保存の良い分銅を量ると1匁は3.74gであった。この文を記載するに当たり、愛媛県大洲郷土館に現存する分銅を柴田亮氏に計測して頂ました。分銅は同重でも重さが違うなどとバラツキがある。昔は分銅の不正は重罪であったので、分銅も明治以降も改修したのであろう。ただし小さくて半端な分量の3匁分銅は一匁当たり3.73gであった。これは天野清氏とは逆説になるが、軽い分銅は改修費用より新しく購入した方が安価であったので、幸いにも目の届かぬ地方で江戸時代の分銅のまま残ったと思われる(別紙3参照)。これらから特に重い分銅は明治以降改修して、江戸時代のまま現存している保障がありません。重い分銅で江戸時代の1匁のグラム単位を解明するのは思う様には行かないようです。さらに柴田氏に別子銅山記念館の分銅10種類(五十両から5匁)を測定して頂きましたが、全体平均で3.744〜3.747gの間となり、明治24年以降の改修済分銅であろうと思われます。検査前の江戸時代品が残るのは難しい様です。

○測定者は新居浜高専 講師 柴田 亮氏
○測定機種 島津製作所 BW420H、UW2200H
○分銅の1〜10は壱弐参肆伍陸漆捌玖拾と表示した
○同じ重さの分銅でも重さにバラツキがある。検査計量中止の為か?
○10両〜1両分銅の一匁平均値3.7448571gである。
○昔は分銅の不正は重罪で、明治になり改修した為匁当たり3.75g に限りなく近い、ただし銅の重量直し加工は困難であった様子。
○3匁分銅は軽くて改修費より新しく買う方が安く、目が届かぬ地方に改修せずに江戸時代の分銅があったと思われる。
○以上より江戸時代の一匁は3.73gと思われるが、分銅だけで推定は無理かも。

5、まとめ

匁は江戸時代になり統一されて、中国の質量単位「銭」に一致させ3.73gであった。中国では宗代より、恐らくは11〜12世紀頃から「銭」が使われていた。日本での「銭」単位の使用は、大量の渡来銭の種類が北宋銭で、中国の「銭」が使われた時期とあまり差が無かったと思われる。これは貿易で質量単位は商取引の基本であり、交易商経由で案外早く「銭」は知られていたと私は思う。
  明治期は明治8年から明治24年までは1匁はヤード・ポンド法の3.756gに定めた。質量単位で尺貫法、ヤード・ポンド法、メートル法は文化の違いで発生がそれぞれ別である。それ為割り切れる換算は出来ず、政府が人為的に数値を見切り定める換算値の公布が必要となる。
  明治24年から現在まではメートル法基準で3.75g(4分の15)と割り切れ、換算が扱い易い匁基準に定めた。
  匁の変遷を書くに当たっては日本貨幣協会の川田晋一氏・新居浜高専講師の柴田亮氏から資料・データ・助言を頂きましたことを改めて御礼申し上げます。以上

 引用 貨幣秘録(古事類苑) 初版 佐藤治左衛門 天保14年 復刻版 横山原七 憲法類編(古事類苑)明治元年 新貨幣条例 明治4年 大蔵省公文 貨政考要  歴史の中の単位 小泉袈裟勝著 本朝度量権衡攷 狩谷エキ斎  その他