貨幣から見た匁の変遷 |
平成20年4月 花野 韶 |
匁は尺貫法の質量の単位、1貫の1000分の1です。匁は銭一文の目方を文目と読んだ呼称が定着したそうです。なお匁は和製漢字で銭の古字「泉」の草書と言われる(他説、文メの草書説もあり)。さらに「目」の表現もあり二十匁以上の十・百単位に使われ、二十「目」・百「目」と藩札などに慣習で書かれた(例外に匁もある)。また二十匁未満は「文目」表現もあります。 |
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1、江戸明治での質量略歴 |
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1貫は1000匁であるが、その他に1両は10匁、1斤は160匁の表現単位もある。また匁以下は10進法で分(10分の1)、厘(100分の1)、毛(1000分の1)である。匁は現在も真珠の取引に国際的に重量単位(mom)として用いられる。mom(モミ)は計量法(平成4年5月20日制定)でメートル法単位表示後も国際的に使われていたので、真珠の取引ではg表示では無く例外的に平仮名の「もんめ」が許可されていた。 江戸時代以前の匁には4種の匁単位があったようです。大内家壁書の匁には京目、田舎目があり、京目(1.45匁)と田舎目(1.5匁)が同量表示で実際には田舎目が軽いので田舎目の使用禁止が書かれている。また古事類苑にも匁には唐目(中国の単位)と大和目(日本の単位)の区別があると言う、この詳細は不明です。 江戸時代になり衡(重さ)を全国統一する為、分銅は大判座の後藤家に任せられた。後藤家は大判の製作以外に彫金の製作があるが、重要な家業として分銅を製造・販売・検査・修理があった。そして分銅改所を江戸・京都・大阪に置いた。分銅は後藤家の極印が必要であり、例え正確な分銅でも分銅改所に持ち込み、調べてもらい極印代を払った。両替商では50両、30両、20両、10両、5両、4両、3両、2両、1両、5匁、4匁、3匁、2匁、1匁、5分、4分、3分、2分、1分の19種類の分銅をセットにして使った。天秤には特に指定がなかったが大阪の中堀家製が普及した様だ。 秤(竿秤)は秤座で管理され東国33ヶ国が守隋家、西国33ヶ国は神家が製造・販売・検査・修理を独占した。幕府の管理下にあり計量基準は両家共に同じで全国統一された。 明治になり明治4年(1871)に新貨幣条例で匁をアメリカ十ドル金貨基準にヤード・ポンド法で57.97102ゲレインであった。この単位は1匁当たり3.756521g「略して3.756g」と定めた。裏付け算定に当たり旧十円金貨(他の金貨は比例値)のみと標本数が少ないので精度を高める為に、旧十円金貨の重量を詳細に知る必要がある。そこで数値は貨政考要から導かれた257.2058133ゲレインを採用した(別紙1)。 明治8年(1875)に度量衡取締条例が公布され、匁基準を新貨幣条例の単位とした。この条例により各府県の1業者のみに度量衡の製作・販売免許を与えた。検査は府県の地方技官が行い翌9年(1876)には使用中も含め全ての度量衡器を検査した。約397万個が検査され不合格が244万個(61%)であったという。 明治22年(1889)政府は入手キログラム原器によって、一貫は四分の15キログラムと定義した。従って匁はメートル法を基準として3.75gとなった。これを基に明治24年(1891)3月度量衡法を施行した。これ以降分銅は検査した。小さな分銅などは高度な技術が必要として明治37年(1904)1月から検査業務を開始した。 |
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参照1、明治4年新貨幣条例の匁単位推定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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○1/16ポンド=1オンス(常衡)=437.5ゲレイン(グレーン又はゲレーン) ○1ゲレイン=0.0647991g→約0.0648g ○明治4年5月10日の新貨幣条例から1匁=3.756521gと定めた。 解明:新貨幣条例記載の1円当たりのグレイン値25.72で算定すると1匁=3.756437となる。だが貨幣考要「参照:拙者の円の命名」を参考にすると、1円金貨当たりのゲレイン値25.72058133小数点以下8桁と詳細に記載され、旧10円金貨を例に257.2058133ゲレイン÷4.4368匁→1匁=57.97102ゲレイン、これに0.0648を乗算し1匁=3.756521g「略して3.756g」になる。 ○明治8年8月5日の度量衡取締条例で質量は新貨幣条例を基準としいるが、ヤード・ポンド法基準であったのでメートル法換算表示にした。 ○明治24年3月24日度量衡法制定で1匁=3.75gに定める。 |
2、貨幣から匁を推量する |
現在1円アルミ貨はぴったり1gであり、5円黄銅貨は1匁(3.75g)である。一般に貨幣は重さに気を付けて製作された定量貨幣が主流である。中でも貴金属の定量の金貨・銀貨は特に重量には気を配っていた。江戸時代の小判金・分金判は金座が製作したが、出来上がりの重量管理はしっかりしており、正確であったと思われる。金判・銀判の重量が記載された書物に「貨幣秘録」があり初版は天保14年(1843)で、期間をおいて何度か改版されている。同種小判などで貨幣秘録の匁と日本貨幣カタログ(日本貨幣商協同組合)のグラム数値を比較して匁当たりのグラム値を検証してみる。なお江戸時代は1枚単位の精密計量は困難であり、100両単位の集団で量りそれを1枚単位に表示した様です。日本貨幣カタログの重量表示も多数集団の平均値である。それ故数値のバラツキはあるが匁のグラム推量は可能であろう。なお日本貨幣カタログの重量が小数点以下2桁しかなく、より詳しいグラム表示が入手できず、標本数を多くして多種の金判・銀判の平均値とした。 |
3、 江戸時代の匁 |
江戸時代の金判26種と銀判4種の計30種類の金銀貨幣のデータを元に算定した。ただし最大値の正徳一分金と最小値の享保一分金のデータと一分銀と言うのは天保又は安政一分銀か判らず除外し27種となった。 結果金判24種の平均値は3.7307gである。また3種の銀判を追加した27種の平均値は3.7334gであった。これより江戸時代の匁は3.73gであったと推量できる(別紙2参照)。 一匁3.73gは中国「清」のメートル換算も一銭は3.7301gであり、江戸時代には日本と中国は質量単位で一致していた。これは偶然では無く、後藤家の分銅は中国製の分銅を質量原器として模倣したのであろう。世界的にも分銅は先進国や強国の質量単位・分銅を周辺国は使用して交易していた。 |
[文政小判] | [天保小判] | 明和五匁銀 |
参照2、江戸時代の匁単位推定 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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○匁(江戸)は貨幣秘録の数値:100両単位で計測 |