3.キンドル造幣首長の来日から貨幣発行まで 明治3年(1870)2月2日 英国東洋銀行、政府の委任により英人キンドルを造幣首長に任命、派遣契約成立。正式に3月3日に造幣首長に任命する。後の話であるが、この派遣契約がネックとなり威張り散らし横暴ぶりの行動と評判が悪かったキンドルを解雇しようとしたが、政府に雇用権が無く苦労した事が伝わっている(引用・日本貨幣物語)。 新貨鋳造方案通告書(明治2年11月9日付)が海外に聞こえるや造幣首長キンドルこれに対して意見書を東洋銀行経由で論じた。まずは主に金銀品位の許容誤差範囲の内容である。さらに意見書で我国の本位貨幣をドルラル及びセントと価名を述べているが、これは「円・銭・厘」の日本語では無いので差し障りがなかったと思われる。当時の英国の香港植民地ではドルは圓(1864発行)、10セントは毫(1863発行)、1セントは仙(1863発行)、1ミルは文(1865発行)または千(1866発行)と表現されていた。次に銀本位の薦めであり東洋銀行支配人ロベルトソン氏もまた新貨の量目品位についてキンドルの説を賛成し、且つ大隈重信に文書(明治3年4月4日付)を送り日本政府はよろしく1「ドルラル」銀貨を以ってその本位貨幣となすべきであり、故に金本位にしない様にと言った。金銀複本位の制は従来欧州各国永年の経験で実際の運営でその非を認識している。しかし日本がもし複本位を採用すれば貨幣上の利益を減らし公益の損害になると勧告した。英国では金本位が実施されており余剰する銀の売り先として日本を考えキンドル・ロベルトソン共に銀本位を薦めているらしい。さらに新貨幣の補助銀貨の第二種二十五銭を停めて二十銭を鋳造すべきことを建議した。政府はキンドルの意見書を審議しこれを採用した。なお天皇の肖像を入れる様にキンドルが建議したが恐れ多いと龍図になった逸話は、キンドルはこの時期在日せずロベルトソンの可能性があるが明治貨政考要では未記載である。 これより先2年12月始めて造幣機械の運転を試み明治3年9月9日になり機械ほぼ整い職員もまた配置した。極印が届き打製試作貨の試製にかかった、試作貨の種類ではまず1銭及び有孔1厘試作銅貨が明治3年(1870)9月に出来上がった、この内1銭の方が明治2年銘の円・銭の価名がある1銭銅貨であろう。1銭試作銅貨には明治2年銘のものが加納夏雄の陽刻銅貨に合致します。この極印は最初の日本製と思われます。明治3年銘1銭銅貨の裏デザインは菊と桐の枝飾りで囲み日本製極印の1円試作銀貨と同系のデザインです。有孔1厘銅貨は日銀・造幣局に現存するのみで年号銘も無く明治2年銘?であろうと推定されている。次に明治3年銘のある試作銀貨(1円 半円 4分1 10分1 20分1の5種類)を明治3年(1870)10月14日に打製試作、試作が完了したのは11月27日で、即銀貨の製造に入っている。 |
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明治3年11月12日政府は来年2月を以って新貨鋳造実行の期とする。その品位量目を確定するその表左のごとしと価名を正式に公表した(明治貨政考要 要約) 〇新貨幣品位及び重量表(太政官裁定) 一 本位一円銀貨 品位90径1.5インチ量416ゲーレン(7匁196) 二 補助50銭銀貨 品位80径1.2インチ量208ゲーレン(3匁596)以下(三〜五)補助20銭銀貨・補助10銭銀貨・補助5銭銀貨の品位・量目を略す 六 補助10円金貨 品位90径1.25インチ量248ゲーレン(4匁288) 以下(七〜八)補助5円金貨・補助2円半金貨の品位・量目を略す 九 一銭銅貨径1.09インチ量110ゲーレン(1匁92)に当る以下十 半銭銅貨・一厘銅貨を略す 最後に明治3年銘がある10円・5円・2円半の3種類の試作金貨が明治3年内に打製試作された。(引用・古銭第一巻甲賀博士記)。 なお明治3年銘の試作貨で10円・5円金貨20分1銀貨は日本には無く英国王立造幣局にのみ現存する試作貨もあります。明治4年2月新貨幣発行の予定あったが、金本位制に変更に伴い明治4年(1871)5月10日に発行となった。
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工事中の造幣局が明治2年11月4日火災に逢い再度建築したり造幣機械の部品を取り寄せたりして、また明治3年12月29日伊藤博文が意見書を提出して万難を排して銀本位から金本位貨幣に変更させた。なおこの意見書に「〇・・即ち我国の金貨十円の重量は248ゲーレンにして米国の金貨十円は258ゲーレンなり・・」(引用・明治貨政考要)と、たしかに円もまた銭・厘と同様に米ドルの借用表現としていた。
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これらさまざまのアクシデントを乗り越えて試作銭のデザインを修正した日本製極印で、金貨・銀貨が公式に明治4年(1871)5月10日新貨条例公布と共に、貿易用の明治3年(旧)1円銀貨及び明治3年の補助銀貨(50銭・20銭・10銭・5銭の4種)の発行、さらに純金を1円当り1.5gに変更して明治3年(旧)金貨(20円・5円・2円の3種)及び明治4年(旧)金貨(10円・1円の2種)は明治4年8月以降と遅れて製造された。また紙幣では明治4年10月15日に円単位の大蔵省兌換証券が、そして明治通宝9種が明治5年6月25日に発行された。なお銅銭(2銭・1銭・半銭・1厘の4種)は銅貨製造所竣工の明治6年(1873)12月のさらに遅れて発行されました。 |
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4.第一号明治近代銭試作貨を探究 現存する明治2年銘の試作貨の中に、陰刻の太政官銘の2円半金貨及び「以百枚換一圓」銅貨があります。この太政官2円半試作金貨は加納夏雄製作とする久光重平説(引用・日本貨幣物語)と明治2年(1869)1月三岡八郎(のちの由利公正)が久世と村田理右衛門に命じ作らせたとする三上隆三説(引用・円の誕生)があります。2円半試作金貨の表にある「太政官造幣局」の組織名は明治2年(1869)2月5日から4月7日まで存在するが、加納夏雄が大蔵省に出仕したのは7月12日であり加納夏雄の製作は疑問があります。また三岡八郎が慶應4年5月に発行した太政官札(金札)は「太政官会計局」と組織名(準備した2月ごろの太政官会計事務局の略名称か)があり、この2円半試作金貨も不動の国名では無く「太政官造幣局」と同一思想で製作されたと考えられます。またこの菊図はデザインも幼拙で加納夏雄らは龍図の略図で製作開始しており別人の作と思われます。太政官札(金札)の下落の責任で三岡八郎が2月17日に失脚したことから、造幣局名開始の2月5日直後に太政官2円半試作金貨の彫金着手で単純デザインなので短期間に仕上がったと推定出来ます。なお造幣局に電子メールをして造幣局第一号試作貨について太政官2円半金貨の可能性を問い合わせた所当時の記録が無く判からないとの返事であった。しかし明治近代貨幣は石井 単香(たんこう)の書き決めた文字以外は使わない(田宮健三氏談)ことから、太政官試作金貨は文字の観点からも龍図の明治近代試作貨より古い試作金貨であると思われます。以上組織名の表示法・幼拙なデザイン面・文字の観点と諸々の要素から見ても、明治2年(1869)1月三岡八郎(両を円に変え使っていた橋本左内・横井小楠の弟子)が命じて作らせた造幣局第一号試作金貨と見て差し支えないであろう。
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ここで太政官2円半試作金貨(径27.57mm)の大きさに着目すると同じ金品位90で龍図の旧十円金貨(径29.42mm量目16.66g)に近いサイズで円当りの金重量すなわち貨幣価値が違っています。なおこの太政官2円半の公式金貨が無いので、乱暴でありますが龍図の旧十円金貨から比例計算で算定しますと1円当り5.43g金基準で後の公式金貨の3.6倍であります。これはまた安政小判1両に対して約1円ともなります。太政官2円半試作金貨の円の意図は正確には判りませんが、どうも旧小判の両に変る「円」価名の洋式新金貨の製作であったと思われます。また太政官「以百枚換一圓」試作銅貨は同時期でどちらが先に製作されたかは今では判りません。
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5.円の命名を解明へ 明治維新政府が円という貨幣単位にした決め手は3説あると言われている。まずは造幣機械を輸入した香港造幣局でドルを壱圓と通称していたのでそれを流用したという説。また円形状の円貨をつくるのだから円にしたという説。もうひとつの説は中国で西洋銀貨を洋円或は銀円と呼んだことが伝わり、幕末に橋本左内・横井小楠・佐久間象山らが内々で両を円とよんでいたという、これらの3説です。なぜ本説が定まらないかと言いますと、明治5年2月旧江戸城内の紙幣寮の火災と、明治6年5月の皇居炎上による太政官衛類焼の2度の火災で明治4年までの貨幣関係公式書類が全て焼けた為です(引用・円の誕生)。しかしながらこれら3説は拙者には「元の消滅」との関わりが明確でないと思いますがどうでしょうか。この3説以外で元と絡む説に、六合新聞の記事を引き合いに当会の「貨幣」で田中将英氏は「元」から「円」に変更がわずか二十日以内と短すぎ、大蔵省沿革志では「一百銭ヲ一円ト為シ」と元を円に訂正記載しているが、このように3月4日の朝議会議で元は誤りで円を決めたとする方が妥当のように思う。と「元」価名の存在は誤植としている。しかしこの史料の誤植訂正は歴史に対する冒涜とする批判もあります。(引用・円の百年/¥の歴史学)もう一説には元は清国で使われそうで避けたとあるが、当時は清国で円も使われていて、同名を嫌うなら他の価名にする必要があり根拠は薄いと思われます。
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これまでの事象を捕らえて拙者は熟思するに、「円」は造幣局の内々では香港壱圓銀貨に触発され十進一位の価名「円・毫・仙・文」は認識していた。やがて久世喜弘も関係した「両」の新呼称「円」で金・銅2種類の太政官試作貨を明治2年2月に製作した。銭はCENT(セント)厘ではMIL(ミル)の借用表現であることは厘MILとした試作貨が後年にありほぼ借用表現で間違いないであろう。そこで明治2年3月4日の建議会議で円形貨幣と新価名即ちセント・ミルの借用表現で銭・厘とし、ここでドルの借用表現で新たに「元」という価名で建言した。その時点までは円と元はそれぞれ別の意味と貨幣価値も違っていたと思われます。明治2年7月7日付に大隈重信が「新貨鋳造を各国公使に告」で回答した付属書の新貨幣プランにおいて円で表示しているが、これは「元」に取って変ってドルの借用表現としても「円」が選ばれたと考えられます。だが最高機関の朝議の議決を廃するにはよほどの理由が必要であります。価名円の最高決定者は後の太政大臣の三条実美と思われます。貨幣の価名は後世何百年も使用され歴史上で難癖や冷笑されることをトップとしてはもっとも気にします。拙者の推測となりますが算盤で金額を読み上げる時「願いましては・・元ナリ・・ゲンナリ」はウンザリ・ガッカリに結びつくことに三条自身も含め関係者が建議会議後しばらくして気付いたのではないでしょうか。致命的な元の響きの悪さを知り新政府の威信を損ない様に「元」の消滅と「円」の決定になったと考えられます。現代でも商品名の命名は響きが命であります。明治2年7月7日付外交文書のプラン略図は文字抜けの金貨図で製作途中にも関わらず急いで海外公使に伝えたと考えられます。しかしそれまでに討議し龍の図案を内定するだけでも期間がかかっています。また六合新聞の金銀貨の基準は金1円が1.62g、銀1円が27gと龍図試作貨の案に近いので、この特ダネはガサネタでは無く案外的を得ていたようです。「円の決議日」を探すと明治2年3月4日から7月7日の間になります。ここからの絞込みは難しいですが「元ナリ」の響きの悪さに気付くまでの間を考慮して、価名「円」は六合新聞にスクープされた3月24日の少し前に内定し、新聞に出た時点では銭・厘の価名について再度吟味中であったと考えてはどうでしょうか。なお特に縦書き漢数字の計算で重要な十進一位の位取りで十銭か「毫」(割の位)のような単独価名にするかは明治3年4月ごろのキンドル意見書の後まで決着しなかった。これが拙者なりの円命名の謎解明での説を述べました。 |
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【引用】本文で記載以外の引用書籍等 収集の手引き・日本貨幣商協同組合 日本貨幣カタログ・日本貨幣商協同組合 日本貨幣収集事典・原点社 日本のコイン・中村佐伝治 古銭・瀬戸浩平 日本の近代貨幣と英国王立造幣局・二橋瑛夫 明治近代貨幣の曙・田宮健三講演談話 円誕生の謎・古銭ML/ホームページ 以上
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追記(H19/4/17記):平成19年4月6日の産経新聞の正論欄で東大名誉教授の辻村明先生が「圓と元の解けぬ通貨呼称のなぞ」と論説を発表しておられます。その中で私の「円の命名」を読んで頂き明治維新で貨幣呼称変更について大隈重信の提議の明治2年3月4日の京都朝議で元銭厘の呼称が同年7月7日の決議では元が圓に変わっている。この変わった経緯を私はソロバンの読み上げで「願いましては・・元なり、ゲンナリ」ではうんざり、がっくりに結びつくことを避けたと言っている。あまりにもできすぎた駄洒落(だじゃれ)ではなかろうか。・・・と説明されています。 確かに1869年(明治2年)の記録が無い真実を探るのは困難さらには不可能に近いでもあり「できすぎた駄洒落=言葉を変えればデタラメ」とありますが。反論をするは失礼ですが過去は誰も見に行く事が出来ないので出鱈目と決め付けずもう少し広い度量・視点からの論説をお願いします。 それでは私から説明をすると圓が選ばれた理由論は多くあります、しかし元が消滅した理由が皆無に近いです。一度朝議で決定したことを覆すは、現代に例えれば国会承認した事項を廃案にするほど余程の理由が必要です。ただ圓と元を比較して圓が「日の丸」に通じて良いので変えたでは理由が軽薄で認められないと思います。当時新政府が出来たばかりで政府基盤が脆弱で、国民は明治の元号にも「治まるメイ」と言って揶揄し皮肉っていた。当時の政府リーダー三条実美(さねとみ)は自分の苗字と響きが似ている三十元なりが三条ゲンナリと言われるのに気がつき廃案に動いたと思う。ここで元と貨幣呼称を出せば・・元ナリ、三条(三十)ゲンナリと「治まるメイ」以上に火に油を注ぐ結果になると予想した。この様に維新政府は新規に作る名称の呼び方・響きには良名を求めるよりはむしろ悪名にならないように、「治まるメイ」以降は特に神経を使っていたと思う。このような環境が朝議で決まった貨幣呼称案を朝議出席者が悪名である元を廃案にして、他の新貨幣呼称候補であった圓に変更同意したと思う。さらに大隈重信は先任者の三岡八郎(のちの由利公正)が試作貨に圓を候補にしていた為、嫌って対抗上「元」を朝議に計ったとも言えるかも知れません。 または圓は日の丸に通じて、すばらしい国の根本的価値観を表明と辻村明先生は述べておられます。誰が思っても圓は良い言葉であることは確かです。維新政府は当時西洋化を急ぐ為貨幣呼称も「各国通行の制に則り・・」すなわち代表としてドル・セント・ミルの翻訳(借用表現)として結果「圓・銭・厘」が選ばれたのに過ぎません。圓がドルの借用表現の例は伊藤博文の手紙で米国の金貨十圓(ドル)と書いている。銭はセントに発音が似ているので選択され、厘はミル(MIL)と刻印された試作貨がある。それから1圓=100銭=1000厘となっている貨幣単位は、それまでの十進一位の東洋の縦書き漢数字の習慣からはずれている。さらに三岡八郎(のちの由利公正)時代の試作銅貨に「以百枚換一圓」と、1圓=100銅貨が1ドル=100セントとすでに同じ貨幣単位の考え方があった。様はドル・セント・ミルの真似をし元が消滅し良名の圓が選ばれた「ケガの功名」の結果論であったと思う。 さらに辻村明先生にお願いしたいのは「元の消滅」に関する、私のゲンナリ説とは違った新しい観点からの論説です、この論説が1869年(明治2年)以降130年間以上もほとんど見当たらないのが不思議です。以上 参照:辻村明先生の論説HPです。 07/4/6 産経新聞 正論 http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070406/srn070406000.htm 07/2/8 産経新聞 正論 http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070208/srn070208000.htm 06/11/14 産経新聞 正論 http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/061201/srn061201014.htm |