圓の命名

平成15年9月  
花野 韶

 明治2年(1869)3月4日大隈重信は久世喜弘と共に新貨幣制度を円形貨幣にすること及び元・銭・厘の価名単位で建議した。しかるに出来上がった試作貨では「一圓」になっており、この間に元から圓に変更されたことになるがその由来が謎である。この圓命名の謎解明を、圓と元が候補であり紆余曲折の経過で最終的に圓が選ばれた論説で順次述べます。

明治3年二十円金貨/引用日本貨幣物語

1.明治3年3月4日の大隈重信・久世喜弘の建議までの主な出来事
年代 月日(旧暦) 記事
慶應4年
(1868)
4月頃 英国東洋銀行横浜支店の仲介で閉鎖した香港造幣支局の造幣機械一式を6万両で購入
5月15日 彰義隊を破る。新金札(太政官札)5種を発行(十両・五両・一両・一朱・一分)
8月 大阪川崎町に造幣工場建設を開始した。英国建築技師ウォートルスを雇い入れた
明治元年(1868) 9月23日 納税に金札(太政官札)を用いるを許可し、金札は金銀同様通用させることを定める
明治2年(1869) 1月12日 大隈重信、外国官副知事と会計官御用掛を兼務し始めて財政畑を担当する
1月 三岡八郎は久世喜弘と村田理右衛門に手本銭の作成を命じる
2月5日 新貨鋳造を決定し、太政官に造幣局を設置、貨幣司を廃止
2月17日 三岡八郎辞任
2月30日 各国公使の我国二分金貨・一分銀貨処分督促に対し、当分その鋳造を停止する旨回答
3月4日 大隈重信と久世喜弘円形貨幣及び十進一位の価名改め建言
 明治20年に大蔵省で刊行された「明治貨政考要」(なお正確には「貨政考要」であるが一般には明治貨政考要)は火災で明治4年までの貨幣関係公式書類が全て焼けた為、明治初年の部分は準公式書類になる。さらにこの明治貨政考要は関係者以外には非公開の書類であった。貨幣手帳(ボナンザ)・円の誕生/¥の歴史学(三上隆三・東洋経済)・日本貨幣物語(久光重平・毎日新聞社)・円の歴史(吉野俊彦・至誠堂)・円(鈴木武雄・岩波新書)・円の百年(刀祢館正久・朝日新聞)・明治財政史(昭和2年大蔵省)・貨幣沿革図録(大正10年龍泉堂蔵版・塚本豊次郎編・校閲甲賀宜政博士)等で、明治2年3月4日の大隈重信・久世喜弘の建議の元引用をたどって行くと小変化は除いて結局は「明治貨政考要」に帰着する。以後明治貨政考要を中心にしその他の資料で補填しながら圓命名の謎解明を述べます

〇明治貨政考要(要約)における明治2年3月4日の大隈重信・久世喜弘の建議の内容

 新貨鋳造の件は品質の改良に重点がおかれ、貨幣の形状・価名は旧体系のまますなわち「方形(小判型)」と「朱分両の価名」が引き継いでそのまま用いる雰囲気であった。当時の参与大隈八太郎(重信)及び造幣判事久世治作(喜弘)は貨幣の形は円形でその価名は十進一位の算定を必要とする、そうしないと実際の利用には適さないと考えた。そこで新貨の形状及び価名改正の意見を明治2年3月4日建議した。

第一 我国従来の金銀貨幣はその形方形(小判型)が多い、しかし世界各国の貨幣は円形にして携帯に便利であるが方形は太だ不便である。故に此際新貨幣を鋳造するには旧制方型を廃して円形に改めること。

第二 我国従来の金銀貨幣その価名朱分両は計算上で大変不便である。故に此際新貨を鋳造するには旧称朱分両を廃して十進一位の価名に改めること。

と新貨幣は円形と十進一位の価名に改めるべきと朝議に懸けた。そこでまず円形貨幣にすることで反対が出た、反対の意見は小判などは紙に包んで箱に入れるが外国のようにカマス袋に入れるのとは訳が違う。よって今までどおり小判型にすべきである。二人はこれに対しての反論して方形は比較的近代のことで甲州金は円形で慶長のころから楕円すなわち小判型が始まった。貨幣がよく流通することを「善く環る」と言い、「今人拇と食指の尖を合せて円を為し、これを傍人に示せば貨幣たるを了解せざる者なし」。世界各国に合せて円形の貨幣にすべき所以(ゆえん)です。これで朝議は二人の建議に同意し新貨円形の議ここに決した。しかし価名については朝議なおこれを反対する者あり、わが国貨幣は従来から朱分両の名で長く通用している、急に価名を変更すれば国民は混乱して上手く行かないので、しばらくは旧制のままで良いのではないか。二人はまたこれに反対した、わが国貨幣の価名に両を用いるのは慶長小判に始まる、これは中国の制量でわが四匁余を両という語源から出ています。慶長小判はちょうど四匁余であって両に適合していた。しかしその後旧幕府は頻繁に貨幣を改鋳しその改鋳ごとに量目を変え減らしている。これは貨幣として価値不変の基本を踏みにじっている。分は両の4分の1で、1朱は両の16分の1で銖の字から転じた、すなわち銖も両も中国の量目の名称であって貨幣単位名ではない。各国とも十進一位を採用しているので、今新貨の価位を定めるにあたり旧名称と同じとの狭い了見を捨て、「各国通行の制に則り百銭を以って一元と定め、以下十分の一を十銭とし銭の十分の一を一厘」とすれば計算上において従来の煩雑さがなくなり民間取引が便利で今日の数倍にもなるでしょう。朝議また二人の建議に同意する、これにおいて新貨価名十進一位の議ここに決定した。(引用・明治前期財政経済史料集成第13巻 原書房 改造社 ・明治貨政考要 紙幣寮 明治20年刊行/参照 日本貨幣物語 久光重平 )

円誕生の謎を記述している本の中にはアドリブを加筆したりして小変化しているのもある。例えば明治貨政考要で「・・今人拇と食指の尖を合せて円を為し、之を傍人に示せば貨幣たるを了解せざる者なし・・」が円の誕生(三上隆三・東洋経済)では「・・拇と食指との頭を合して円をなして傍人に示すときは、三才童子も貨幣たるを了解せり。若し之を方になせば老夫も何物の形たるを弁ぜす」と変化している。なお十進一位は十進法で且つ小数点以下1桁ごとに位の名前を持つと、十進法とは意味が少し異なるがほとんどの本が十進法と置き換えている。会議の出席者は公家出身の三条実美・正親町三条実愛・中御門経之・大徳寺実則・岩倉具視・鷹司輔熈・東久世通禧であり、藩主大名出身の松平慶永・島津茂久・亀井 ゲン監・鍋島斉正・蜂須賀茂韶・毛利広封・池田章政・山内豊信・伊達宗城・池田慶徳であり、それと建議者の大隈重信・久世喜弘であった。朝議は京都で行われ当時のトップレベルの人達が出席した、権威ある朝議と新貨幣に対する感心の高さが窺われる(引用・円の誕生)。

2、朝議後から明治3年1月5日の手彫試作貨出来上がりまで

〇明治3年1月5日手彫試作貨完了までの主な事項。

明治2年
(1869)
4月8日 会計官造幣局と改称
4月17日 大隈重信、会計官副知事に専任する
5月18日 五稜郭開城、榎本武揚以下降伏(戊辰戦争おわる)
5月28日 太政官布告、当冬より新貨幣を鋳造し太政官札(金札)と交換する
6月15日 大隈・伊藤・井上等の当局担当者と英国東洋銀行の支配人ロベルトソンとの相談・協議
6月24日 英国東洋銀行と貨幣鋳造条約書を締結、同行・造幣局間に外人雇入委任契約成立
7月7日 大隈重信の「新貨鋳造を各国公使に告」で別紙に円呼称の新貨を図示
7月8日 大蔵省造幣局造幣寮に改称。大隈重信、大蔵大輔となる
7月 大隈重信大輔は関係者と協議の上、新貨幣図案を彫金家の加納夏雄と弟子の益田友雄他2名に、文字は大蔵省に勤めている書家の石井単香(たんこう)に委託
7月12日 加納夏雄、新貨幣図案製作で大蔵省に出仕(下阪は10月)。贋二分金を巡って外国公使らと談判、19日外人所有の贋二分金を正貨と引取交換を約諾。
11月9日 新に発行すべき金銀銅貨幣の品位定則等に就き決議要領を各外国公使領事等に通告
明治3年(1870) 1月5日 加納夏雄、極印製作で必要な手彫の試作貨を完成し、英国への送品は送る。大阪を離れる。

朝議後のすぐに明治2年3月24日六合新聞第2号の「今般御製造に相成る貨幣之分量」と題する特ダネで、金貨の品位22金91.6で量目4匁72(10圓・従来の8両)・2匁36(5圓・従来の4両)・1匁18(2圓半・従来の2両)の3種、銀貨の品位90で7匁2(1圓)・3匁6(二分・すなわち半圓)・7分2(空白・四進法では表現出来無い為)の3種、銅貨は2種の合計8種で銭・厘は漏れなかったが「圓」の新価名をスッパ抜きで金銀銅の新貨幣がスクープされる。新貨幣案をひた隠しにした政府当局により「新聞紙印行条例に違反する」として早くも明治2年4月に六合新聞が7号で廃刊に追い込まれた。なおこの六合新聞は元日本貨幣協会名誉会長の郡司勇夫氏が入手された(引用・円の誕生/円の百年)。明治2年6月15日の大隈・伊藤・井上等の当局担当者と英国東洋銀行の支配人ロベルトソンとの新貨幣の具体化の相談・協議が開始(引用・円の誕生)。

 明治2年7月7日付に大隈重信が「新貨鋳造を各国公使に告」の付属書で新貨幣の概要記載があり、圓の政府使用として1圓はメキシコ洋銀1枚に同等なりがあります。さらに金1・銀15・銅600の重量基準で同価値にして、略図は10圓金貨のみで表が龍図を中心に、裏が中心に旭日・周囲を各8個の菊紋と柏紋のデザインであり、その他の金銀銅貨の略図は省略されています。銭種は22金の3種金貨10圓・5圓・二圓半、銀貨は90品位4種で1圓・半圓・4分1・10分1、銅貨は1銭・1厘の2種で合計9種であります。(引用・円/円の誕生/日本の近代貨幣と英国王立造幣局 元引用・明治初期幣制確立顛末/世界文庫)。だが明治貨政考要ではこの6月15日、7月7日とも記載が無い。明治2年7月8日大隈重信大蔵大輔となった。7月7日の各国公使に告ぐで新貨幣の価名・銭種及び略図が出来上がったので、大輔邸で上野景範・中井弘・町田久成等と協議の上、新貨幣図案を彫金家の加納夏雄と弟子の益田友雄他2名に、文字は大蔵省に勤めている書家の石井単香(たんこう)に委託することを決めた(引用・日本貨幣物語)。7月12日に高輪応接所で三条実美を代表にし岩倉具視・沢宣喜・大隈重信・寺島宗則・伊藤博文等が二分判金等の偽貨幣で正貨交換対応のことで各国公使と会談した(引用・明治初期幣制確立顛末)。同じ7月12日新貨幣図案製作で加納夏雄等大蔵省に出仕し、以後石井 単香と協同で新貨幣図案に着手した。10月5日新貨幣図案完成後、加納夏雄等は大阪に赴任し遅くとも12月までに明治2年銘の手彫の試作貨を彫金したと思われます。

略図十圓金貨・引用明治初期幣制確立顛末

ここで加納夏雄の技量を誉め称える逸話があるので述べる。建築技師のウォートルスの発言で「わが国でも、これにまさる彫金はできまい」と驚嘆させた逸話は、彫金師に外人を雇う意見もあったが、加納夏雄らが手彫試作した一銭銅貨を大隈重信が見て外人を雇うのが取りやめになったのが真相らしい(引用・古銭第一巻甲賀博士記)。だが加納夏雄が弟子と共に造幣工場建設中にも関わらず下阪した理由は在日で造幣に造詣が深い建築技師ウォートルスの助言・評価が必要であったのでしょうか。

明冶2年一銭銅貨・陽刻/引用日本貨幣物語

新貨の品位定め方については明治2年11月9日付でその議を決定して、すなわち決議の要款(ようかん)を我が締盟各外国及び領事等に通告した。

その要款左のごとし(明治貨政考要の要約)

〇日本政府において新たに鋳造発行すべき金銀及び銅貨幣の品位定則並びに右新貨と旧貨幣及び外国貨幣との関係に就き決議要領

第1款 今般我が政府は将来国内隅々までに供給し且つ外国貿易を増進する為に全く新種の貨幣を発行して、在来の貨幣に加えることを決定した 

第2款 右新規発行すべき貨幣の本位はその量目は7匁22592(416ゲーレン)を下回ることなく、その質90銀貨にしてメキシコ「ドルラル」と同品位なり。 

第3款 なお別に四種の小銀貨をも同時に鋳造する、その各種の定量は未だ確定してないが大凡 その一3匁61296(280ゲーレン) (著者注・2分の1 280は誤りで208ゲーレン?)その二 1匁80648(104ゲーレン)(著者注・4分の1)その三 7分2259(41ゲーレン)(著者注・10分の1) その四 3分6129(28ゲーレン) (著者注・20分の1 28は誤りで20ゲーレン?)より下回ることなく且銀銭は何れも80とする、但し右四種の小銀貨は便利の為に鋳造するもので小額商取引に用いる。 

第4款 又三種の金貨をも鋳造する、その定量は未だ詳細決定してないが大凡その一は本位銀貨の10個に当り その二は本位銀貨の5個に当り、その三は本位銀貨の2個半に当る、これまた便利の為に鋳造するが故に小額商取引に用いること、もっとも受取人両者が同意すれば大金額の受授にもこの金貨を用いること自由である。

第5款 又本位銀貨の百分一及千分一に当る銅貨をも鋳造する。以下第6款〜第8款を省略する。

すなわち合計10種の貨幣の品位・重量が公表された。しかし明治2年3月4日の建議会議で出た元・銭・厘の価名が無く、さらには7月7日の外交文書にあった圓の価名も公開されずに本位銀貨(又は本位の新貨幣)と呼称しているのみであります。新貨幣の価名が長い間公開出来ない理由としては、当時府県藩の札が製造されており政府は「圓」等新価名の府県藩札が新貨幣より先に発行されるのを恐れたと思われます。なお府県藩札の製造禁止令は1ヶ月後の12月5日に発令されました。

明治近代銭試作貨に陰刻の明治2年銘の龍図試作貨があります。この金銀試作貨は英国王立造幣局に明治3年銘に変えた同デザインの極印・打製試作貨が存在することから、明治2年に製作した極印依頼の手彫の試作貨であろう。さらに極印製作には陽刻の試作貨が必要であり加納夏雄等製作で明治2年銘の1銭試作銅貨と明治3年銘の1圓試作銀貨の各陽刻2種が現存します。明治初年は元治・慶應・明治と急変し元号が明日も保証できない時代で、予め来年銘で製作することは出来なかったと考えられます。従って明治3年早々の加納夏雄離阪の1月5日までに明治3年銘の陽刻の1圓試作銀貨を製作して、陰刻の金銀貨用試作貨と共に英国に送り明治3年銘で極印製作を依頼したと推量します。また1銭銅貨の極印は英国王立造幣局に試作貨が無い事、及び明治2年銘の極印は日本製との造幣局の見解からも日本で製作され明治2年銘のままで1銭銅貨の極印になったと思います。なお日本で極印製作が始まるのは明治3年3月28日の極印彫刻方シャードを雇入れた(コインの歴史/造幣局泉友会)以降の来坂からと推測出来ます。