一歳は一年間であらず

平成16年2月15日
花野 韶

 我が国の最初の貨幣探求で、偽書とされている「秘庫器録」(ひこきろく)を読むに当たり痛感したことは年代把握が必要なことでした。素人の私が本当は触れたくなかったのですが、どうしても日本書紀の皇紀を西暦に変換することを避けて通れません。現状では日本書紀は神話物語で特に古代は歴史書では無いとの一般認識が強いですが、それに対して古代でも全部が全部神話では無く歴史の部分もあると思われます。

1.皇紀を西暦に変換する
 日本書紀を読むと、日本書紀の天皇生存・在位期間が誇張して記述されているのを誰でもが感じる所です。日本書紀で百歳以上の天皇が12名もいます、例えば神武天皇は127歳で亡くなりまた孝安天皇は117歳と人間の平均寿命を大きく上回っています。さらに日本書紀が歴史書としての不満点は年代が近隣諸国と記述が一致せず、皇紀年代が当てにならないことにあります。まずは雄略天皇21年(皇紀1137年・西暦477年)以降では皇紀と西暦が660年の差で一致します。
 しかし皇紀と西暦のずれが始まった年はその1年前から即ち、雄略天皇20年(皇紀1136年・マイナス660年の西暦476年)に高麗が百済を滅ぼしたが、朝鮮側の記録では西暦475年と1年の差があります。さらに西暦391年(高句麗好太王碑文)に日本軍は出兵し新羅・百済を従属させたとあります。それは高句麗好太王(広開土王)碑文で「百残新羅舊是属民、由来朝貢。而倭以辛卯( 391 )年来、渡囗破百残囗囗新羅、以為臣民」ですが、年来に着目し日本書紀で合致するのは最初の新羅遠征成功した年の記載文と思われます。これは神功皇后出兵の仲哀天皇9年(皇紀860年)冬に神功皇后が津波に乗って新羅を遠征し降した、それを聞いて百済・高麗も降伏してきた。
 即ちこの皇紀860年が西暦で391年であったと推量します。一方皇紀860年から660年を引く今までの計算では西暦200年となりますので191年の差があります。この回答のヒントがなんと日本書紀にあります、すなわち孝元天皇は孝霊天皇2年に生まれて立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、19歳が34年間にすなわち約2倍の年代誇張を認めています。
 この皇紀1136年以前を西暦年に推計する変換式を作り推計西暦と名付けます。詳細には年代相違については貝田禎造氏の「古代天皇長寿の謎」(六興出版)を参考にして、没年から即位年に変更しました。即ち貝田禎造氏は日本書紀の月日を詳しく調べ1年を2倍にして、さらに古くは4倍として西暦に変換しています。これを簡便にして歴史ポイント年間を直線で結んで約2〜3倍にしています。これで皇紀を西暦に概略換算した、あくまでもおおよその推計西暦変換式です。
 近隣国に歴史交流があった歴史ポイント年の皇紀1137・西暦477(起点)、皇紀860・西暦391(好太王碑文)、皇紀573・西暦247(卑弥呼死亡)を線形回帰分析すると、皇紀元年の最適値は西暦22年であるが、既知データ件数が3件と少ないので範囲を広げ検証の結果、皇紀元年は西暦元年とするを採用した。(西暦年=Y 皇紀年=Xとし計算結果四捨五入)

【1】雄略天皇21年(皇紀1137・西暦477)以降は正確である。
     西暦Y=皇紀X―660 例・皇紀1200年は西暦540
【2】仲哀天皇9年(皇紀860・西暦391)から雄略天皇21年
  (皇紀1137・西暦477)までは西暦Y=86/277×皇紀X+124

   例・皇紀1000年は推計西暦434
【3】崇神天皇10年(皇紀573・西暦247)から仲哀天皇9年
  (皇紀860・西暦391)までは西暦Y=144/287×皇紀X―40.5

   例・皇紀700年は推計西暦311
【4】神武天皇元年(皇紀元年・西暦元年)から崇神天皇10年
  (皇紀573・西暦247)までは 西暦Y=246/572×皇紀X+0.6

     例・皇紀300年は推計西暦130

◎各天皇元年と皇紀年・換算西暦一覧(日本書紀)

.変換式の検証
 変換を行い検証しますと、神武天皇即位年(皇紀元年)が貝田説は179年で、著者説は西暦元年と179年古くなりますが、干支辛酉(かのとのとり)には合致させました。この神武天皇即位年は中国書で日本が紀元前百年から紀元5年の間に代表王が出現したことに合致します。即ち中国で元始5年(西暦5年)の「漢書王莽伝」で「東夷の王、大海を渡りて国珍を奉ず」(引用・邪馬台国と倭国/西嶋定生)とあります。これは島国日本を代表する王がいた証と思われます。さらに日本と中国とのより古い交流を中国文献に求めると「漢書地理志」に「楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる、歳時をもって来たり献見すと云う」とあり倭の国は統一されずに時折楽浪郡に献上していた様です。この楽浪郡が置かれたのが元封3年(紀元前108年)であり、それ以降倭の各国は楽浪郡を通して漢を交流していた様です。これらの中国書から倭に代表する王が発足したのがおよそ紀元前108年から紀元5年の間と推定できます。
 卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)と見做して、亡年は崇神天皇10年(すじん・皇紀573・推計西暦247)であり魏志倭人伝の247年頃卑弥呼死亡と合致させています。因みに倭迹迹日百襲姫命が生まれたのは孝霊天皇2年(皇紀372年・推計西暦161)より皇紀で201歳になり著者説では86歳まで生きていたことになります。これは魏志倭人伝で「・・卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年己長大、・・」の高齢者に合います。また崇神天皇5年から11年まで(皇紀568〜574年・推計西暦245〜248)は疫病・反乱で人口が約半分にまでなったようです。これが卑弥呼登場時の倭国の大乱であった可能性もあります。
 中国書籍での倭国の大乱年は184〜189年であり日本書紀とは60年の差があります。これは中国で184年に黄巾の乱が起こった、この黄巾の乱は凄まじく人口5千万人が4百万人まで減少し周辺国に連鎖影響を与えた。これが投射されて遡って倭の大乱と書かれたと推量しました。しかし倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)が亡くなってから四道将軍を各地に派遣し平定する乱があったようです。平定後多くの異俗の人即ち移民があったと日本書紀に記述があります。
 景行天皇3年(皇紀733・推計西暦327)に生まれて仁徳天皇50年に289年間生きているとされた、武内宿禰は著者説で114歳であったことになります。しかし貝田説では武内宿禰は71歳であると換算され、仁徳天皇が和歌を読んだほどの高齢者では無いと思います。なお「水鏡」によれば仁徳天皇55年に武内宿禰は亡くなったので、享年は著者の説では人間の寿命許容範囲の116歳であったことになります。一方皇紀では武内宿禰は294年間生きていたことになり明らかな年代拡張があります。
 なお貝田説の様に年代圧縮ばかり考えると自然の摂理に反することがあります、まずは子供を生むにはある程度の年齢が必要です。そこで神功皇后が応神天皇を生んだのが31歳で享年は百歳とされています。著者説で計算しますと15歳で応神天皇を生み37歳で亡くなったとなり許容範囲内です。2代綏靖(すいぜい)天皇から十代崇神天皇まで日本書紀では兄弟の継承は無く、親から子供への即位であるとしている。これより同様に計算をすると2代綏靖天皇が3代安寧天皇を生ませるのは14歳(皇紀元年が西暦22年を棄却したのは更に若くなるのが理由)が最も若く後は16歳から40歳までとなりとなり許容範囲に収まります。

3.西暦に変換する限界
 日本書紀で古代の皇紀をこの変換式で西暦に換算することは全てには上手く説明できません。まずは各天皇の即位の干支年と中国の年代記載例の神宮皇后66年(皇紀926・推計西暦412)に「この年は晋の武帝の秦初2年(西暦266年)であった」記述は年代圧縮の為合致しません。
 石上神社の七支刀の銘文で百済王が秦和4年5月に倭王の為とありますが、秦和は秦囗と欠落しており候補が西暦BC101〜480まであります。一番近い南涼の太初4年(西暦400)とでも日本書紀の神功皇后52年(皇紀912年・推計西暦407)の七支刀と少しの時間差があります。
 倭の五王交流問題では、讃(413〜425)は応神天皇(在位413〜425)とぴったりと一致します。珍(430?〜438)は仁徳天皇(在位426〜452)となり、さらに済(443〜451)も仁徳天皇であります。興(460?〜462)は允恭天皇(いんぎょう・在位457〜469)であり、武(477?〜478)は雄略天皇(在位471〜479)に変換されます。ほとんどの各天皇の在位期間に一致します。済を除く各天皇は親子の関係で、兄弟もあるとする中国の記録と一致しません。また興は安康天皇(在位470)であるとする多数派説にならず、仁徳天皇は珍と済の二人の王名になります。これは西暦変換の精度が悪い為でしょうか?それとも仁徳天皇がより高位の叙位名を求め替えた王名で劉宋に申し入れた証でしょうか?これらの判断が出来ません。さらに暦は時代及び国により微妙に異なり高麗・百済暦も検討が必要です、これらがこの変換式の限界であります。以上

【引用】邪馬台国と倭国/西嶋定生 日本貨幣物語/久光重平 古代天皇長寿の謎/貝田禎造 その他 以上