2.変換式の検証
変換を行い検証しますと、神武天皇即位年(皇紀元年)が貝田説は179年で、著者説は西暦元年と179年古くなりますが、干支辛酉(かのとのとり)には合致させました。この神武天皇即位年は中国書で日本が紀元前百年から紀元5年の間に代表王が出現したことに合致します。即ち中国で元始5年(西暦5年)の「漢書王莽伝」で「東夷の王、大海を渡りて国珍を奉ず」(引用・邪馬台国と倭国/西嶋定生)とあります。これは島国日本を代表する王がいた証と思われます。さらに日本と中国とのより古い交流を中国文献に求めると「漢書地理志」に「楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる、歳時をもって来たり献見すと云う」とあり倭の国は統一されずに時折楽浪郡に献上していた様です。この楽浪郡が置かれたのが元封3年(紀元前108年)であり、それ以降倭の各国は楽浪郡を通して漢を交流していた様です。これらの中国書から倭に代表する王が発足したのがおよそ紀元前108年から紀元5年の間と推定できます。
卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)と見做して、亡年は崇神天皇10年(すじん・皇紀573・推計西暦247)であり魏志倭人伝の247年頃卑弥呼死亡と合致させています。因みに倭迹迹日百襲姫命が生まれたのは孝霊天皇2年(皇紀372年・推計西暦161)より皇紀で201歳になり著者説では86歳まで生きていたことになります。これは魏志倭人伝で「・・卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年己長大、・・」の高齢者に合います。また崇神天皇5年から11年まで(皇紀568〜574年・推計西暦245〜248)は疫病・反乱で人口が約半分にまでなったようです。これが卑弥呼登場時の倭国の大乱であった可能性もあります。
中国書籍での倭国の大乱年は184〜189年であり日本書紀とは60年の差があります。これは中国で184年に黄巾の乱が起こった、この黄巾の乱は凄まじく人口5千万人が4百万人まで減少し周辺国に連鎖影響を与えた。これが投射されて遡って倭の大乱と書かれたと推量しました。しかし倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)が亡くなってから四道将軍を各地に派遣し平定する乱があったようです。平定後多くの異俗の人即ち移民があったと日本書紀に記述があります。
景行天皇3年(皇紀733・推計西暦327)に生まれて仁徳天皇50年に289年間生きているとされた、武内宿禰は著者説で114歳であったことになります。しかし貝田説では武内宿禰は71歳であると換算され、仁徳天皇が和歌を読んだほどの高齢者では無いと思います。なお「水鏡」によれば仁徳天皇55年に武内宿禰は亡くなったので、享年は著者の説では人間の寿命許容範囲の116歳であったことになります。一方皇紀では武内宿禰は294年間生きていたことになり明らかな年代拡張があります。
なお貝田説の様に年代圧縮ばかり考えると自然の摂理に反することがあります、まずは子供を生むにはある程度の年齢が必要です。そこで神功皇后が応神天皇を生んだのが31歳で享年は百歳とされています。著者説で計算しますと15歳で応神天皇を生み37歳で亡くなったとなり許容範囲内です。2代綏靖(すいぜい)天皇から十代崇神天皇まで日本書紀では兄弟の継承は無く、親から子供への即位であるとしている。これより同様に計算をすると2代綏靖天皇が3代安寧天皇を生ませるのは14歳(皇紀元年が西暦22年を棄却したのは更に若くなるのが理由)が最も若く後は16歳から40歳までとなりとなり許容範囲に収まります。
3.西暦に変換する限界
日本書紀で古代の皇紀をこの変換式で西暦に換算することは全てには上手く説明できません。まずは各天皇の即位の干支年と中国の年代記載例の神宮皇后66年(皇紀926・推計西暦412)に「この年は晋の武帝の秦初2年(西暦266年)であった」記述は年代圧縮の為合致しません。
石上神社の七支刀の銘文で百済王が秦和4年5月に倭王の為とありますが、秦和は秦囗と欠落しており候補が西暦BC101〜480まであります。一番近い南涼の太初4年(西暦400)とでも日本書紀の神功皇后52年(皇紀912年・推計西暦407)の七支刀と少しの時間差があります。
倭の五王交流問題では、讃(413〜425)は応神天皇(在位413〜425)とぴったりと一致します。珍(430?〜438)は仁徳天皇(在位426〜452)となり、さらに済(443〜451)も仁徳天皇であります。興(460?〜462)は允恭天皇(いんぎょう・在位457〜469)であり、武(477?〜478)は雄略天皇(在位471〜479)に変換されます。ほとんどの各天皇の在位期間に一致します。済を除く各天皇は親子の関係で、兄弟もあるとする中国の記録と一致しません。また興は安康天皇(在位470)であるとする多数派説にならず、仁徳天皇は珍と済の二人の王名になります。これは西暦変換の精度が悪い為でしょうか?それとも仁徳天皇がより高位の叙位名を求め替えた王名で劉宋に申し入れた証でしょうか?これらの判断が出来ません。さらに暦は時代及び国により微妙に異なり高麗・百済暦も検討が必要です、これらがこの変換式の限界であります。以上
【引用】邪馬台国と倭国/西嶋定生 日本貨幣物語/久光重平 古代天皇長寿の謎/貝田禎造 その他 以上
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