4.
秘庫器録(ひこきろく)の検討
 本邦初の百科事典は秘府略(ひふりゃく・831年発行・注3)で次に秘庫器録(ひこきろく・注4)であります。両本共にほとんど離散し千巻の内1〜2巻しか残っていませんし、特に秘庫器録(ひこきろく)は岩波の「国書総目録」で偽書とされ信頼が今一つです。現在の秘府略(ひふりゃく)の残存は第868布帛の巻と第864穀の巻のみです。だが約百年後発行の秘庫器録(ひこきろく)はこれまた第3の貨幣の巻のみであります。
 金属貨幣の始りは「秘庫器録(ひこきろく)」では「和漢三才図会(わかんさんさいづえ)」の反正(はんぜい)天皇2年(推計西暦455)より古い応神(おうじん)天皇17年(推計西暦418)に金銀の貨幣を造ったとなります。すなわち神功(じんぐう)皇后の新羅征服の後、子供の応神(おうじん)天皇は新羅の貢物の金・銀で貨幣を造った様です。さらに反正(はんぜい)天皇は銅幣を始めて造ったが漢室を真似てとあり、円形で孔が有る銅銭であったと思われます。


(図1無文銀銭)   (図2無文銅銭)
     
「引用:お金の玉手箱」

(図3・卍銘の無文銅銭)   (図4・八坂瓊勾玉 長さ20cm

   

「引用・和漢銭彙上 芳川維堅」   「引用・八坂瓊勾玉Web」

無文銅銭(むもんどうせん)と呼ぶ出土品がありますがこれと関係があるのか検討してみると、現在無文銅銭(むもんどうせん)は無文銀銭(むもんぎんせん)以上に貨幣で扱われていません。発掘された無文銅銭(むもんどうせん)は文字が無く穴が丸孔で秘庫器録(ひこきろく)の卍銘で方孔とも違っています。ここで江戸時代の和漢銭彙上/芳川維堅著に丸に十の字模様の無文銅銭の拓本がありますが、これが卍銘と言えるかも知れません。
 さらに金幣・銀幣に類する出土品を現在探すと、意外と 都から遠く離れた伊豆大島の和泉浜遺跡から有孔短冊形の金札・銀札が出土しています(引用・お金の玉手箱/国立歴史民俗博物館・国学院大学資料館写真提供/長さ5.2〜5.3cm・重さ2.7〜3.24g)。 根拠は無いが島故に遺跡推定年代の7世紀後半まで遺品として残っていた応神(おうじん)・反正(はんぜい)天皇時代の金銀貨幣との関連があるのではと想像したいですがどうでしょうか

(図5・大島の銀札[])(図6・大島の金札[])引用・お金の玉手箱

ここで和漢三才図会(わかんさんさいずえ)と秘庫器録(ひこひろく)の相違点は和漢三才図会(わかんさんさいずえ)金銭・銀銭・銅銭を一文対十文で換えられるとしていることです。金幣・銀幣・銅銭がそれぞれあるので交換料率もあったと和漢三才図会(わかんさんさいずえ)の寺島良安が推量で記載したのでしょう。しかし怪我の巧妙か、伊豆大島の銀札の重量が約3gで無文銀銭(むもんぎんせん)は約10.5gと3.5倍で反正(はんぜい)天皇2年(推計西暦455)の銀10.5g当りの籾価換算は7斗(ただし一文銀幣は十文無文銅銭「むもんどうせん」と等しいとして)と顕宗(けんぞう)天皇2年(486)との比較が皇紀79年間(推計西暦約30年間)で30%の格差で済み課題の解決案となります。従って反正(はんぜい)天皇時代は銀幣であり、また顕宗(けんぞう)天皇時代ごろまでに無文銀銭(むもんぎんせん)が誕生したのではと思われますがどうでしょうか?その上都合よく金札も銀札もほぼ平均3gで金札が銀札の10倍の価値があるにも合致している感じがします。
 金銀が入手出来なかった古代には宝玉の勾玉を以って貨幣にしたとあります、もしこれが真実なら勾玉が貨幣であったことになります、だが各宝玉の種類の価値差はどうであったか今ではわかりません。このことで瀬戸氏は勾玉には均質性が無いので貨幣としての必須条件に欠けると指摘しています。また瀬戸氏は卍文字の有る銅銭は該当品が無く、反正(はんぜい)天皇の銀幣は無文銀銭(むもんぎんせん)としています。
 さて神話時代に銭は「珍」と特別に表現されていますが、秘庫器録(ひこきろく)の和同開珎(わどうかいちん)の個所でも「和銅開珍」と記載され明確に寳では無く珍と呼んでいます。平安時代の古くから珎が珍なら、唐の開元通寳を知った上で「寳」では無くわざわざ「珎」としたのが不自然です。即ち和同開珎(わどうかいちん)の鋳造を計画した時点で、銭文までも唐の全面的模倣はせず日本の独自性を表現したかった為と推量されますが、いかがでしょう。さらに和同は吉祥語とする説がありますが、秘庫器録(ひこきろく)では和銅の元号であるとなります。また今は存在しない銀銭大平元寳(たいほうげんぽう)はやはり拓本で残っている「太」いの「太平元寳」であるとなります。また皇朝十二銭最後の乾元大寳(けんげんたいほう・958発行)が記載無く、西暦958年より前に「秘庫器録(ひこきろく)」は書かれた様です。

5.秘庫器録の結論
 明治20年に山形の斉藤美澄が紹介した、「秘庫器録(ひこきろく)」が遅い明治時代に急に地方の山形で出没したので疑問である、即ち偽書であるとなったようです。偽書とする観点で本書を見れば冒頭で須佐能神(すさのおうのみこと)は速須能神(はやすのみこと)と同一神を別名で羅列したり、その他の神の名前も作者が勝手に漢字化したりと一貫性がありません。しかし江戸幕末までは固有名詞に当て字が多く使われている、固有名詞が統一した漢字になったのは割合新しいことです。さらに多治比直人広成は21年前に亡くなっているのに萬年通寳(まんねんつうほう)の銭文製作者にされている等内容に信頼性が欠けています。
 だが「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」で「日本書紀」にも無い反正(はんぜい)天皇2年に木莵の宿禰(みみづくのすくね)等が銅銭を造ったこと、さらに「和銅開珍」と両本とも共通の誤字銭名で一致している。これらから或記は即ち「秘庫器録(ひこきろく)」からの引用文であると推量されます。もしも「秘庫器録(ひこきろく)」が明治二十年ごろに作られた偽書であれば「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」は何を引用した或が一切不明となります。これより「秘庫器録(ひこきろく)」は「和漢三才図会(わかんさんずえ)」が書かれる以前にあったことになります。
 「和漢三才図会(わかんさんずえ)」は寺島良安が正徳2年(1712)に著し、この古い江戸時代に「秘庫器録(ひこきろく)」の貨幣部分のみの偽書を作っても金儲け及び名誉の獲得等の利点がありません。中国宋の正史例えば「後漢書東夷伝(とういでん)」にしても「倭国には女子が多く大人は皆四、五妻あり、下戸も両あるいは三・・」と正確な情報の無い遠い国等は噂・想像で書かれています。公式書では無いが中世の元時代になっても、マルコポーロの「東方見聞録」の宮殿が全て金で出来ている国にしても同様に間違った噂の書き留めです。また真書の「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」でも中国に渡って用いられたとする6銭種の皇朝銭図が、対読銭文で描かれ循読の現品と比べ明らかに間違いです。


(図7・和漢三才図会の皇朝銭図)

これからも「秘庫器録(ひこきろく)」も判らない大昔のことは編集者源恒の想像で記載されたと思われます。これより拙者は「秘庫器録(ひこきろく)」さらには引用元の「秘府略(ひふりゃく)」にしても、平安時代の根拠の無い伝承・作り話で記載内容の信頼性が低いが、「秘庫器録(ひこきろく)」は源恒が書き著した真書の写本である可能性高いと申し上げます。

以上

(注1)日本書紀で百歳を越える天皇が十二名もいて天皇生存・在位期間が誇張して記述されているのを誰でもが感じる所です。そこで推計西暦は皇紀から西暦への独自の変換式の値です。基本的に皇紀1137年(西暦477年)以前は2分の1〜3分1に圧縮しています。また皇紀元年は西暦元年としています。詳しく変換式等は改めて「一歳は一年間であらず」の別題で発表します。
(注2)和漢三才図会(わかんさんさいずえ)寺島良安著・正徳2年(1712)発行 59巻を引用。
(注3)秘府略(ひふりゃく)滋野貞主著・天長8年(831)発行の百科事典で千巻の内2巻のみ現存で第868布帛の巻の三と第864穀の巻の中しか残っていません。そこには貨幣の記載はありません。(引用・秘府略巻868附巻864 )。
(注4)秘庫器録(ひこきろく)源恒著 百科事典 秘府略の約百年後とされる、これも約千巻の内一巻のみ現存する。

【引用】本文で記載以外の引用書籍等
 日本貨幣収集事典(原点社) 皇朝銭史(増尾富房著) 日本書紀(全現代語訳 宇治谷孟著)お金の玉手箱(国立歴史民俗博物館編) その他
「最後に」秘府略・秘庫器録にご指導賜りました利光三津夫氏・高木繁司氏・鈴木秋男氏に御礼を申し上げます。