6.天保本座銭での金属収縮率
 瓜生有伸氏「天保銭の鑑定と分類P117」が述べている金属収縮率と最近川田晋一氏が調べた金属収縮率に大幅な数値の違いがあり検討を必要とする。
金属(凝固)収縮率「1mの金属棒で何ミリ収縮するか?」
金属 瓜生有伸氏 川田晋一氏
0.02mm 2.25mm
2.80mm 15.0mm
3.30mm 8〜11mm
未記載 7.5mm
 錫母銭は錫85・鉛15の合金であります。しかし基本成分の錫の金属収縮率の両者の違いが極端であり検証せざるを得ません。

【金属収縮率の検証】(銭径寸法は天保通寳銭の研究から)

現在国立歴史博物館に長郭と細郭の彫母が大川氏により寄贈され残っている。

○長郭彫母銭の実寸: 51.40×34.20mm(天保通寳銭の研究P27〜28)

○細郭彫母銭の実寸: 51.40×34.20mm(長細郭彫母銭とも同寸)

である。長郭錫母銭は1品のみなので、数品現存する細郭錫母銭の中で一番大ぶり品を検証対象とする。

○細郭錫母銭の実寸: 50.85×33.80mm 

彫母銭を種にして錫母銭は鋳造された。

その計算の結果 錫母銭の金属収縮率は

   縦径 51.4:(51.4−50.85)=1000:X  X=10.7mm

   横径 34.2:(34.2−33.8)=1000:Y   Y=11.7mm

両者の平均値凡そ11.2mmが錫母銭の金属収縮率と見なせる。これより川田晋一氏の金属収縮率に軍配を上げます。さらに当時の鋳造技術及び仕上げ輪磨きで削られ金属の理論収縮率以上に収縮したようです。
 なお同じ天保通寳銭の研究P303では長郭彫母銭の寸法を41.30×34.15と数値が違う、これも細郭彫母銭を同寸とし錫母銭の金属収縮率は1m当り9.5mmとなります。さらに同じP303で瓜生氏は長郭彫母銭の銭文径(42.15mm)と長郭錫母銭の銭文径(42.10mm)から0.05mmの差は収縮率0.02%の証明としている、だが計算すれば収縮率は1m当り1.1mmとなり計算間違いであった可能性が高い。これより各金属収縮率を正式に調べた川田晋一氏が正確である。

 ついでに当百銭カタログ「瓜生有伸著」のデータを適用すると

・細郭錫母銭 50.8×33.6mm  錫母収縮率(平均値)14.6mm

・細郭銅母銭 50.1×33.2mm  銅母収縮率(平均値)12.8mm

・細郭通用銭 49.2×32.8mm  通用収縮率(平均値)15.0mm

錫母を除いてそれぞれが真の母子では無いが参考までに。

7. 天保通寳広郭銭の着手の背景

「天保通寳銭の研究」によると、広郭が誕生した理由としては、次の5個の理由をあげています。

(1)弘化2年(1845)10月3日に後藤三右衛門が死罪申しつけで、金座御金改役御免となった。10月9日ただちに、大判座の嫡子後藤吉五郎が金座御金改役に就任トップが変り体制が改革された。

(2)広郭鋳造時から母銭の鋳造管理が銭座内での自由に権限が委任された。権限の委任で銭座独自で母銭が造れるようになった。なお2年後には元の役人が母銭の立会いチェック制に戻されたが、同じ広郭銭が引き続き鋳造された。

(3)細郭時代の細郭錫母が金座銭座に残っており、その錫母の有効活用は常識的に考えられる。

(4)広郭の彫母が無いのは細郭の郭に増幅した為。

(5)郭が広いとヒモを通すとガタつき不便。

「天保通寳銭の研究」では広郭誕生を上の5個の理由としている。しかし広郭が生まれた理由が他にもあったと思われる。

長郭の製造期間は、天保6年6月から同7年12月まで1.5年間であり、細郭は天保8年8月から同13年1月まで4.7年間です。即ち細郭は約3倍の製造期間であります。しかし現存残数比で細郭は長郭の約27%しかありません。これでは銭座経営が成り立ちません。対策として止もう得ず引き続き旧長郭も、天保8年からも生産したと考える方が自然です。旧長郭を補充生産し平均月産高が両期とも同じとしても、細郭は総月産高の約36%に計算される。これは細郭が鋳造に不具合が発生した為に鋳造量を落としたと推定される。

この細郭の鋳造生産で失敗の原因を探ることが、広郭の必要性が解明になると拙者は思う。

 

○天保通寳の銅母銭と通用銭
(長郭銅母銭) (長郭通用銭)
(細郭銅母銭) (細郭通用銭)
(広郭銅母銭) (広郭通用銭)
 鋳造すれば銅が収縮して外径は縮む。さらに郭幅も狭く収縮する。即ち天保通寳の鋳造は外径が縮み、郭幅もそれにつれて収縮する。最初の長郭は郭が縦長の長方形で、楕円形と適合したので不良品の発生が抑えられたようです。次に細郭になり郭が正方形になったので、楕円形と不整合になり郭の不良品が発生し鋳造高が減少したと考えられます。
類推根拠で単純な鋳造写しに粗造鋳写という、不知銭が長郭と細郭にあるが、長郭はそれほど郭の欠落は無いが細郭銭は郭がボロボロに破損している。
(長郭粗造鋳写) (細郭粗造鋳写)
       
「以上天保銭拓本・当百銭カタログより」

最初の嵌郭補強は恐らく細郭末期の短期間、実験的に錫母に薄く嵌郭し、細郭に似せた中郭であったと思う。中郭は錫母が無く銅母だけなのは嵌郭の細郭錫母から銅母銭を造った証と思う。天保通寳銭の研究p185で中郭は大阪難波銭に当てているが、この根拠を中郭錫母が未見で広郭銅母の内郭をヤスリで削ったものとしている。この説を拙者は疑問とする。それは広郭で完成している銅母を、わざわざ手間をかけて加工する余計な後工程を、効率追求する銭の鋳造でまずは行わないと推考するからです。
 細郭の鋳造失敗から正方形の郭の鋳造を続けるならば補強で嵌郭の必要性が金座銭座では判っていた。そこで細郭彫母を嵌郭補強したのが天保通寳広郭銭の誕生と思う。

8. 天保通寳本座銭広郭の製造概要

天保通寳の製造は彫母を頂点に錫母から銅母を造りさらには通用銭を造った。

[長郭・細郭]彫母→錫母→銅母→通用

長郭・細郭は各彫母が現存し彫母から鋳造した。

[広郭]嵌郭済彫母→錫母→銅母→通用

広郭は細郭彫母の郭を増幅したので広郭専用の彫母はありません。この郭を幅広い郭にすることを嵌郭(かんかく)という。即ち細郭の彫母に嵌郭して嵌郭済彫母から錫母を造りさらに銅母を鋳造した。広郭の錫母が現存しており嵌郭済彫母の方式が採用されたと思われる。

 一品の彫母から同一書体の天保銭が大量鋳造可能の証を考察する。日産最大の貨幣司銭は慶応4年(1865)4月から明治2年2月まで鋳造し、鋳造枚数は3671万枚であった。これを日産高にすると約14万枚となる。通用銭は仮に1日10回鋳造すると銅母銭の数は1万4千枚必要となる。錫母が彫母から丁寧に1枚づつ鋳写し日に平均7.5枚で、仮に錫母から銅母は1日10回(75枚)鋳造する。計算で銅母1万4千枚は約19日間となる。鋳造ピーク日を通用銭30万枚とすれば同様に28日の銅母蓄積であったとなる。彫母が用意されて29日後(初日は錫母のみ)には、シャカリキに造れば銅母が3万枚蓄積できた。

(参考)75×14×(1+28)=30450枚(銅母枚数)

 また錫母の鋳造枚数は7.5枚×28日=210枚とわずかである。

 また泉氏雑記によると天保6年(1835)6月15日に吹立て命令が出た長郭は、6月21日から吹立てを開始した。同年閏7月1日に12百貫文(1万2千枚)を始めて仮上納した。その日数は休みを勘案し実働約35日間で日平均345枚の通用銭を鋳造した。当初ではあるが銅母を蓄積するのはゆっくりの生産ペースが現実であった様です。

嵌郭した母銭にはもう1つ細郭錫母に嵌郭して銅母を鋳造するケースがある。一品の嵌郭錫母から銅母が日に10回鋳造なら10枚で、29日間なら290枚になる。すなわち嵌郭錫母方式は嵌郭彫母方式に比べて、銅母の鋳造効率が悪く実験的に採用された中郭銭と推測する。中郭銭には中郭と中郭手の2種の嵌郭錫母があった様です。いまだに中郭は謎が多い銭であるが、錫母の未見・現存小数・中郭と中郭手の手変わりがあるにより、中郭は嵌郭細郭錫母からの鋳造であったと思う。

[中郭]嵌郭細郭錫母→銅母→通用

9.終わりに

 幕府にとって通貨製造は小判・一分金・一文銭は本位貨幣で利益が出ません。しかし天保通寳の百文銭を造り人気があったことは、それまでの造幣経営を一変したと思われます。儲けが多いと当然欲に押されて、最初の製造目標値に留まらず増産が図られたとする方が自然です。天保8年に立案された長細郭の目標値3973万枚は、恐らく軽くオーバーして、それ以上の大幅な長細郭の鋳造高発行になったことはまずは間違いないと思う。

天保通寳で細郭から、郭が分厚い広郭に進化したのは、細郭鋳造生産での不良品対策から誕生したのが大きな理由と推測しました。

天保銭の説明書の中には、広郭銭が嵌郭の細郭錫母から広郭錫母を鋳造するとしているのもあるが錫母の収縮を考慮しても疑問と思う。その疑問は工程が一段階増えて、彫母→嵌郭錫母→広郭錫母→銅母→通用銭となる。そうならば広郭通用銭は細郭通用銭より小ぶりになる。しかしながら細郭通用銭と広郭通用銭の大きさの差は認められない。これより嵌郭錫母→広郭錫母のような錫母から錫母への鋳写し無かった証であろう。また天保通寳の研究で広郭銭発生5つの理由3)に細郭錫母の有効利用と細郭錫母に嵌郭したような記載があるが、もしそうなら中郭と同じで内郭の変化形が発生するが現状の本座広郭銭に内郭の変化形は無い。また嵌郭彫母からの鋳造量に比して嵌郭錫母からの鋳造高は格段に少ないのは説明した通りです。

彫母銭は金座の宝で、その1枚きりの彫母に嵌郭をするなどの危険はしないのではという考えがある。それは嵌郭が金属などで出来ているという先入観がある為と思います。簡単に考えて紙と漆、桐粉と膠、漆喰など当時の硬化物質で内郭に土手盛りが嵌郭と推測します。この土手盛りは砂に型をとるだけで、意外と耐久性があると思われる。また熱湯で炊くと嵌郭が取れ細郭彫母に戻すことが出来る。細郭彫母(歴博・大川氏寄贈)は現存するが、細郭を嵌郭した彫母や錫母が現存しないのは、嵌郭が簡単に取れることが証と思います。また嵌郭を消滅させたのは密鋳母銭に修正技術とし、加刀で削るだけで無く字を太くする(いわゆる漆盛)技術が漏れるのを恐れたと思う。

天保通寳銭の研究p52には「内郭を増幅したもの」と金属の嵌郭らしい天保母銭の写真があるが残念ながらこの天保銭は長郭であり、細郭に嵌郭した広郭銭とは違い架空創作の贋造銭です。

(贋造銭・内郭を増幅) (増幅部拡大図)

拙者の嵌郭は堅牢な金属では無いに対して、天保銭広郭の嵌郭製作をご存知の方は、ご意見及びご批評を賜れば幸いです。また長郭の長方形であった内郭を、細郭・広郭で正方形に拘った理由が判りませんご存知の方は教えてください。拙者が聞いて回った範囲では正確には判らないが、正方形の穴の方が母銭の砂埋・砂抜が楽であり、通用銭の砂抜が容易いと思われるとの意見もありました。
  金属収縮率で当初は瓜生有伸氏のデータのみを考慮した為、嵌郭錫母から広郭錫母を鋳写すと誤った論議をしましたが、川田晋一氏から金属収縮率データのご指摘を受け訂正出来ましたことについて改めて御礼申し上げます。
  

引用 天保銭事典・天保通寳銭の研究・天保銭の鑑定と分類・当百銭カタログ(瓜生有伸)、日本財政経済史料第6巻p475(泉氏雑記・大蔵省)、天保通寳と類似貨幣カタログ(板井哲也)、お金の玉手箱(国立歴博)、天保銭図譜(小川浩)、天保通寳がわずか二書体の謎(拙者:貨幣第49巻第6号)、天保通寳の本座広郭銭で郭を分厚くした理由(拙者:貨幣第50巻第3号)、その他