二書体だけと手変りが無い天保本座銭の謎
平成18年9月18日
花野 韶

                                    

天保通寳は江戸時代の天保6年(1835)6月15日から明治3年(1870)8月5日までの35年間にわたり造られた、小判型の百文銭であった。製作は幕府金座・明治貨幣司が本座銭で、幕府に隠れて製造した薩摩藩など多くの藩の密鋳銭がある。多くの藩で密鋳した理由は、藩札が藩内の限定通用だが、天保通寳は他国でも使えしかも材料原価は一文銭5.5枚で百文通用と大きな利益が得られることにあった。なお藩が特定出来ない銭及び民間鋳造の天保通寳は不知銭と呼んでいる。明治3年の製造中止後は、明治24年(1891)12月末で8厘通用扱いも禁止になり、さらに明治29年(1896)12月末で交換も終了し廃貨となった。

天保通寳は不思議な古銭で古銭価格は本物の本座銭が一番安く約8百円だが、むしろニセの密鋳銭が高価で有名品では仙台銭細郭・大濶縁などは安くても3百万円と言われている。なお天保通寳の図譜本の頁比率を見ると手変り変化の多い密鋳銭・不知銭がほとんど占有し、変化が無い二書体の本座銭は最初に少しの頁に掲載している。このことは本座銭と密鋳・不知銭では、天保通寳の造り方に明確な違いがあったと推量できます。

1.天保銭計画の時代
天保通寳は、江戸時代文政末期(1829頃)金座御金改役の後藤三右衛門光亨が、高額銭の発行を幕府に働きかけている。稟議銭は小判型で銭名は萬年通寳と天保通寳の二品があった。審議の結果は天保通寳名が採用され天保6年(1835)の6月15日に正式に発行通達となった。この通達で作られた銭が天保通寳長郭銭である。「以下・天保銭図譜より」
(小判形・萬年通寳試鋳貨) (萬年手天保通寳試鋳貨)
2.本座銭の種類

本座銭の種類には長郭及び細郭・広郭・中郭がある。長郭は書体が一品で天保6年(1835)6月15日から天保7年12月15日までの、18ヶ月間に鋳造された郭が長方形の天保銭です。発行時は小判型で金色に光った銅銭であり、評判もよく高額銭として嫌われることも無く広まった様です。当初は番場仮吹所で、3ヶ月後の9月11日からは浅草橋場町で鋳造した。

細郭・広郭・中郭は書体が同じで内郭の幅が違うだけである(ただし長郭の書体とは異なる)。細郭は天保8年(1837)8月から天保12年(1841)12月まで浅草橋場町で鋳造された、郭が正方形の天保銭である。広郭銭は弘化4年(1847)10月18日から明治3年(1870)8月5日までの長期断続的に鋳造された、正方形の郭の幅が広い天保銭である。広郭銭の鋳造高内訳で明瞭な銭は大阪難波銭2468万枚、明治貨幣司銭6391万枚であった。広郭銭の鋳造地は浅草橋場町から文久2年(1862)に近くの橋場真先銭座に移った。中郭は鋳造時期及び鋳造高は一切不明であり試行的と推定出来る謎多い本座銭である。

天保銭の推定鋳造高は、総鋳造量4億8480万枚(吹塵録・勝海舟著)である。

 天保通寳は、庶民には綺麗で百文と使い安い額面であり、製造者の幕府にとれば安価の材料で鋳造できたので大変儲かった銭でもあった。両者に喜ばれる銭の為、各藩では天保銭型のインフレ銭を作りたくて幕府に盛んに運動をしているが、なかなか許可が出なかった。最初公式に許可を取ったのが薩摩藩であり、琉球で使う名目で小判型の琉球通寳を鋳造した。

[長郭通用銭] [細郭通用銭]
[広郭通用銭] [中郭通用銭]
3.長郭及び細郭の鋳造高

瓜生有伸氏の「天保通寳の研究」によれば長郭の鋳造枚数は2971万枚、細郭の鋳造高は1002万枚と推測計算している。これは長郭と細郭の合計鋳造量が金銀銭旧記(天保銭事典・瓜生有伸著)に「百文銭出来高天保6年未年6月より同12年丑12月迄 3973万5200枚」とあり、この長細郭の鋳造量3973万5200枚を基準にしている。この金銀銭旧記の数値の元ネタはどうも泉氏雑記(日本財政経済史料第6巻p475)からの引用と思われます。泉氏雑記の天保8年(前後から年末)の日記に、天保8年から天保11年末の4年間の中期経営計画があり「天保6年6月21日より総出来高百文銭397万3520貫文(3973万5200枚・1貫は百文銭10枚として)で一両換算6貫800文の凡そ58万4341両余」とある。総出来高とは目標値のことで同数である3973万5200枚はあくまでも天保8年末に立案した、天保銭の天保6年6月から天保11年末までの鋳造目標値で実績値ではありません。しかも金銀銭旧記と泉氏雑記は最後の一年間の期間違いがある。

泉氏雑記の中期経営計画にある百文銭の年産計画量で、天保8年8月からの初年度は1056万枚(日産32000枚)、次年度からは924万枚(日産28000枚)とあります。これは年産約1000万枚を生産基準としていると推測出来ます。長細郭の製造延べ期間は約6年間でこれからも6000万枚鋳造が経営上の必要条件であった。

本座銭の現存残数比は凡そ広郭70%・長郭22%・細郭8%ぐらいであります。目安として総推定鋳造量約4億9千万枚(吹塵録・勝海舟)を現存残数比で分解すると、広郭約3億4千枚・長郭約1億1千枚・細郭約4千万枚となります。長郭18ヶ月の製造期間で1億1千枚は不可能である。さらに細郭は53ヶ月で長郭の3倍も長いのに現存残数比は少ない謎があります。拙者は考えるに細郭は製造上の不具合があり、止もう得ず旧長郭の鋳造を天保8年以降も継続の結果と推測しますがどうでしょうか?

製造期間が延びても、長郭の現存残数比がなお多いのは百文銭が儲かり利益が出るので、財政逼迫の幕府は大増産で、目標以上の鋳造発行の結果と思われます。以上より長郭・細郭の鋳造高は現存残数比から凡そ長郭1億1千枚・細郭4千万枚と推量したいのですが現在では確定する方法がありません。

○天保通寳本座銭の鋳造高推量(まとめ)
瓜生有伸氏の推量 私の推量
長郭 2971万枚 1億1000万枚
細郭 1002万枚 4000万枚
広郭 4億4507万枚 3億3480万枚
総枚数 4億8480万枚 4億8480万枚
4.天保通寳の製造方法
 天保通寳の製造方法は「大日本貨幣史」にある「金座銭座図・天保銭の鑑定と分類」及び江戸金座絵巻(お金の玉手箱・歴史民俗博物館)が参考になる。しかし全面的信頼はいささか疑問である、それは金座銭座での就業規律では金品盗取より「貨幣の鋳造法と発行高」の口外が最高の厳禁であったからである。従ってこれら天保通寳の製造図は又聞きなど推定で描かれたと思われますが、取捨選択して参考にします。
[金座銭座図]

 

 

[江戸金座絵巻]
5.本座銭の製造工程

長郭銭の製造工程は、金座銭座図が長郭製造工程を描いている。

[長郭の工程]彫母→錫母→銅母→通用

長郭は彫母から錫母は一鋳造一枚と丁寧造られた。絵では錫母から銅母は一度に20枚(細郭では8枚説もあり)鋳造された。銅母から通用銭の鋳造は、絵では一応24枚×2本=48枚となっています。

天保8年(1837)8月から鋳造開始した細郭は長郭銭の彫母が廃止され新たに彫母が作られた。細郭工程の参考資料は「金局公用誌・天保通寳銭の研究(瓜生有伸著)」にあり、彫母から錫母は一鋳造一枚で日に7〜8回が限度であったとあり、これは時間的制約と思われる。また銅母は錫母から一度に、長郭の絵の20枚とは異なり8枚鋳造することになっている。なお金局公用誌には錫母の含有成分は錫8匁5分、鉛1匁5分と記載されています。しかし鉛と合金化すれば、融解金属の回りが悪くなり錫母鋳造に難しさが発生する(川田氏談)。純錫は低温に弱く13℃以下にさらされると徐々に風化を開始し不安定であった。錫母は年月が経つと風化が始まり脆くなり今日でも天保銭錫母の保管には気を使うようです。しかし錫と鉛との合金の錫母は新しい間は通常の使用には差し支えなかったと思われます。

[細郭の工程]彫母→錫母→銅母→通用

 広郭の鋳造開始に先立ち大判座の嫡子後藤吉五郎が金座御金改役に就任してトップが替った。製造中止の6年後の弘化4年(1847)10月に天保通寳の再鋳造になった。また母銭の鋳造管理が変わり、金座内で自由鋳造の権限に委譲された。それまでは役人が出来上がりの銅母を検査し鋳造したが、任された現場の新しい発想で母銭が造られるようになった。まず広郭用の新規彫母は作られなかったが、広郭錫母は現存する。細郭銭の内郭に嵌郭(かんかく)して嵌郭種銭とし鋳造したようです。嵌郭種銭のベースが細郭彫母かまたは細郭錫母なのか検討してみたいと思います。

[広郭工程]嵌郭種銭→錫母→銅母→通用

嵌郭種銭から錫母が細郭の工程同様に鋳造された。細郭と広郭が同じ鋳造工程を取りながら鋳造量の大幅な増加があった。