7、大量北宋銭の渡来理由

北宋時代(968〜1126)は広東韶州から豊富な銅が産出し大量の銅銭を鋳造した。即ち銅銭の年間鋳造量は唐のピーク時の32万貫から、北宋時代は鉄銭も含むが180万貫に達していた。この大量銭が各地に分散ストックされたが、大量の銭を移送には多大なコストがかかる。このコスト軽減から振替決済が起こりやがて会子(紙幣)になっていった。また広東韶州の銅山は南宋時代以前には枯渇した様です。
  1127年北宋の後へ金朝が入った。中国では王朝が変わると、以前の王朝の銅貨は現行貨としては使えなくなる。あくまでも銅地金の扱いになると思う。ただし北宋の後の南宋・金は北宋の銭が例外的に通用したとも言われる。しかし日本との密貿易の銭価格ははるかに高額であった様です。また金は銅銭から交鈔(紙幣)に変わりつつあり、南宋も銅銭から会子(紙幣)が主体になったようです。こんな環境で中国の巷には余った銅銭があった。北宋の銅銭を集めた南宋の商人及び金の商人も、南宋の貿易商人が高く買うので売るようになったと思われる。この大量の北宋銭の受け入れ先が日本を筆頭に東南アジアであった様です。さらに日本は乏しいリサイクルで造った銅地金は同重量の渡来銭の方より3倍も高かったようです。

8、価値を復活した渡来銭

蒙古が南宋を滅ぼした後、南宋船は軍用船に徴用された。即ち元寇は文永11年の役(1274)と弘安4年の役(1281)の2度あるが、その間に南宋が滅亡した。南宋滅亡(1279)以前は渡来銭が大量にありすぎて銅地金に重きがあった。元寇以後中国からの船も少なくなったと思うが日元の交易は継続していた様です。 1967年韓国の全羅南道新安郡の沖き合いから中国船が引き上げられ、無理をしたのか一艘で銅銭が18トンあった様です。

「韓国・国立海洋遺物展示館の沈没復元船」

この船の履歴は木簡の記載年号から、東福寺等の要望で1323年6月寧波(ニンポウ)から博多を目指していた。このように元と鎌倉末期(1333鎌倉幕府滅亡)になっても大量の銅銭が運ばれた。
 日元交易は正中2年(1325)建長寺造営料唐船にはじまり、鎌倉大仏造営料唐船、住吉神社造営料唐船、天竜寺造営料唐船、療病院造営料唐船など朝廷・幕府の許可を得た官許貿易船であった。中国からは銅銭・陶磁器・茶・書画・文具・薬品・香料・金紗・金襴・綾・綿であり、日本からは金・銀・硫黄・刀剣・扇・螺鈿・蒔絵などと多田銀銅山で銀が採掘された様です。
  元は中国内では紙幣に重きを置いた。その為に元政府は北宋・金・南宋の銭がかなり貯まったと思われる。これで日本と元が交易を回復すると、銅銭が輸入されたが、両政府の管理下にあり調和された量であった。元寇以降の1350年頃から交易に参加出来ない海衆が本格的に倭寇として船や朝鮮及び中国も襲った。倭寇は元寇で皆殺しにされた壱岐・対馬・松浦の地域の関係者が多かったので、復讐心が強い仇討ち合戦状態で友好的交易のようにはならなかった。これにより元や朝鮮の私交易が縮小し渡来銭も入りにくくなった。
  前期倭寇が終焉になるのは応永16年(1404)の日明勘合貿易の合意。及び李氏朝鮮の対馬進攻の応永の外寇(応永26年・1419)後であった、日本側の記録では九州探題等これを撃破とある。様は両者共に勝ったとしている。
  日本の銅が欲しかった李氏朝鮮との間で宝徳2年(1450)葵亥(きがい)約条を結ぶ。条約でもとの倭寇が朝鮮と交易できる様になったし、銅の国内生産の回復が判る。
  明代になり元は紙幣に重きを置き、銅貨の鋳造量は少なかった。足利義満の要請により明の洪武通寳(1368年発行)・永楽通寳(1408年発行)・宣徳通寳(1433年発行)等の現行貨を銅銭として輸入した。明銭最初は評判が悪かったがやがて永楽通寳は最高の銭評価になったようです。また国内の銅材も供給が始まり、少なくとも明銭は鋳潰すことはほとんど無くなった様です。なお明国内は初期には銅銭を鋳造したがやがて、紙幣のみで銅銭は厳禁になった。永楽帝以降乱発紙幣は信頼を失い、徐々に貨幣は銀への拠り所が高まっていった。応永18年(1411)足利義満死す、その後朝貢形式に不満が出て永亭4年(1432)まで日明勘合貿易が一時中止となった。明側は輸出する明銭が不足し勘合貿易中止は渡りに舟の感があり、日本銅が欲しくてまた再開している。
  室町時代の対明貿易の輸出銅地金に永亮5年(1433)2.6トン・亮徳2年(1453)91トン・天文8年(1539)179トンと記録されている。これは再び日本に銅山の開発がありしかも輸出できるまでになった。その候補は長登銅山、多田銀銅山の再開発があった様です。この日本の銅は銀が含まれていて、中国では人気があり日本国内より高額であった。
  勘合貿易再開後の大永3年(1523)細川・大内氏中国寧波で闘う(寧波の乱)。天文16年(1547)大内氏勘合貿易の後滅びる。これが最後の勘合貿易となった。また明銭輸入も宣徳通寳(1433発行)まで、これより後明の銅銭の輸入は少なかったと思われる。
  1547年以降は後期倭寇が活発になる、ただし後期倭寇の中心は中国人であったようです。天正16年(1588)豊臣秀吉が海賊禁止令を出して後期倭寇終わる。

9、撰銭(えりぜに)の発生の理由

  渡来銭の鍵となるのが、長門の長登銅山の銅産出減少です。それは963年皇朝銭の停止、梵鐘の空白期の始まりなどは国産銅材が無くなったからです。勿論銅地金があれば宗教心は強く、梵鐘などの大型銅仏具は続けて造られたであろう。しかし面白いことに1450年代になり再び長登銅山が息を吹き返した。この原因は精錬技術の問題が絡んでいる。銅鉱石には主に自然銅・酸化銅・硫化銅がある。自然銅は和同元年に秩父で発見された他は無い。長登銅山は963年まで酸化銅については精錬できた。この酸化銅の鉱脈が963年ごろつきた。硫化銅の精錬が出来るようになったのは1430年頃からであろう。中国は紀元前から硫化銅(おもに黄銅鉱)の精錬はできたが、どうも政治的意図であろうか室町時代(1430年頃)まで日本へ伝達させなかった模様。硫化銅も酸化銅とほぼ同じ鉱脈箇所にあり、それ故長登銅山の再開発が出来た。
  日本の銅山から銅が生産され始めると、国産銅材が売れる為には渡来銭の銅地金より安価が条件であろう。如何程か推測は難しいが、1450年頃日本の銅材が明で4から5倍で売れた話があるようです。これから推し量ると日本銅材は渡来銭の2割位であったようです。それまでは欠けたり磨り減った不良な銅銭(鐚銭「びたせん」)は、銅銭と同重量同価格で銅地金になっていたようです。しかし安価な国産銅材の出現は鐚銭の価格の暴落となったと思う。それ故鐚銭を次の客に掴まそうと所謂ばば抜きが起こった。これが撰銭(えりぜに、よりせん、せんせんなどの呼び方がある)の始まりであろう。最初の撰銭令は文明17年4月(1485)に大内氏が発令した。明との交易で渡来銭の銅地金価格の低下をいち早く察知した結果であろう。なお大内氏は明で銅銭の信用不安が起こり予防として撰銭令が始まったとする説がある。しかし拙者は国内の銅の産出が要因で撰銭が始まったとする方が自然と思います。なお室町幕府は明応9年(1500)10月に撰銭令の発令をしたが、日本の私鋳銭の通用を禁止している。日本の私鋳銭の本格的鋳造は需要があり国内銅材が安価に入手でき、私鋳すれば儲けが得られる様になった恐らく1450年頃からであろう。このような状態で民衆が銭の選別を始めた。即ち撰銭もまた日本の新品の銅材が関わったようです。鐚銭が溶解されずに、いつまでもボロボロの貨幣(銅銭)で居座っていた結果と思う。
  撰銭令は銭の良し悪し選別を各自が行わせるので、相手がある銭取引では結局争いが絶えず、撰銭令が徹底されず失敗している。これも法貨が無い故であろうと思う。大内氏・室町幕府以降の戦国大名で主な撰銭令には天文19年(1550)北条氏康の永楽通寳のみ通用許可後、永禄2年(1559)に永楽通寳以外の鐚銭も混合比率下で認めた。しかし銭の流通は上手く行かず永禄12年(1569)には租税は時代逆行し米になった。織田信長は銭の状態による撰銭令を永禄12年(1569)3月に出したが結局は上手くいかず、後を引き継いだ豊臣秀吉は銭の暮らしが判っていたのか生涯撰銭令すら出さなかった。
  さらに土地売券からも元亀元年(1570)以降銭取引が消えて、米・金になっていったようです。なお銅の銀を取る南蛮絞りを日本が知るのは、住友を開いた蘇我理右衛門で天正18年(1590)頃です。

10、埋蔵銭の終焉

「つぼに入った出土銭」

  埋蔵銭が発生した理由は渡来銭の価値が上がったからであろう。安価な物や下がる物は保存せずすぐに使う様にする。しかし今年より来年に価値が上がる物なら、人は手放さなくなり保存するようになる。まして最初はクズ銅で買ったものが貨幣になっていくのだから、こんな美味しい話はなく人は争って蓄えた。その内掘り返さなかった貯金箱のツボが近世・現代になり現れて、出土渡来銭と呼ばれている。  埋められた時期は元寇以降からぼつぼつと明以降は本格的になった。さらに応仁の乱以降治安が乱れ強盗・火事が多くなって、人々は目が届く家の土間に埋めるようになったのであろう。
  新品の国産銅材の出現は、錆びた銅銭の銅地金の値打ちをさらに落したと思います。錆はリサイクルに使えず取るか、溶解カスとして捨てる必要があり銅製品の品質も落ちるようです。日本は湿度が高く、埋蔵すれば銅銭に錆が起き値打ちが落ちます。これでは損をするので人々は銅銭の埋蔵を行わなくなったと思う。さらには掘り出した埋蔵銭は錆だらけのクズで値打ちがなくなり、熱心に古い埋蔵銭を探さなくなったと思います。これが即ち埋蔵銭の終焉と思われます。
 また日本私鋳銭の鉛同位体分析で1500年以降の日本私鋳銭の原料は日本産銅であり、1400年代は日本産銅と渡来銭破銭の混合であった。さらに1300年代以前は渡来銭の破銭のみであった。まずは私鋳銭の原料は銅だけではなく鉛と錫が必要になる。渡来銭の破銭ならば鉛・錫の追加原料を必要としない為最後まで日本私鋳銭の原料として渡来銭の破銭が使われたと思われる。その破銭原料を使わなく無くなった1500年頃が埋蔵銭の終焉でもあったと考える。
 織田信長の時代以降は銅銭を錆びない金に変えて埋めたようです。

11、終わりにあたって

 渡来銭がなぜ盛んになったかは、やはり儲かったことが一番の原因であろう。どれほどの利益を生んだかハッキリしないが、伝えによれば誇張があるかも知れないが日本に銭を密貿易すれば10倍の儲けがあった様です。 これは室町幕府創立早々の興国2年(1341)に足利直義が天竜寺船を元に派遣した。この時天竜寺に納める条件は交易の成果に関わらず一航海につき銭五千貫と莫大な献金からも伺える。遡っても鎌倉幕府創設前の文治元年(1185)に源頼朝は鎮西奉行を設置し、貿易管理を行った。源頼朝は貿易が儲かることを、平清盛の錬金術を見て知っていたので日本船の渡航を押し進めている。これらは銭を輸入して利益が得られる対外交渉の武士団幕府と、自ら再度鋳銭し儲けたい朝廷とに利益対立が根底の一つにあったと拙者は思う。
  最後に銭から大仏を造ったのとは反対事例がある。徳川家康に言われて、豊臣家が方広寺の壊れた木造大仏を銅製大仏に慶長17年(1612)鋳造した。高さは19mと東大寺の大仏(高さ16m)より3mも高い。さらに慶長19年(1614)に大梵鐘も鋳造させた。この鐘名「国家安康・君臣豊楽」が問題ありと豊臣家を滅亡させた。寛文2年(1662)の大地震で銅製の大仏が再び傾いた。そこで幕府は目を付け、これを鋳潰して造ったのが寛文8年(1668)からの亀戸銭座の文銭です。この文銭はさすがに大仏を鋳潰した高級銅材であったので、現在でも他の寛永通寳とは一目瞭然で違いが判るぐらい銭の出来はいいです。この出来のよい文銭で自信を持った幕府は、寛文10年(1670)6月に一切の渡来銭の通用禁止に踏み切った。

永楽通寳 新寛永通寳文銭

  もっとも渡来銭の回収は本格的に古寛永通寳を発行した寛永13年(1636)後の寛永17年(1640)代から開始して、10年過ぎの慶安3年(1650)代には市場から渡来銭は姿を消していた、この準備期間があって初めて700年の渡来銭時代に幕が下ろせた。さらに渡来銭の残像は江戸時代末期まで残り、永25文と言えば永楽通寳25文即ち日本銭(寛永通寳が中心)で100文勘定の4倍基準値であった。 以上

引用 鉄と銅の生産歴史 佐々木稔編著 銭貨池 亨編 日本に渡来の宋銭の概況について 川田 晋一著 銭の考古学 鈴木公雄著 日本史総合図録 山川出版 古事類苑 大系日本の歴史 小学館 その他