鎌倉大仏と渡来銭
―銅地金としての北宋銭―

平成20年7月 花野 韶

埋蔵出土銭が大量に発見されて話題になります。日本が鋳銭していない時期に中国から大量の渡来銭が日本に輸入されました。しかも渡来銭の8割が北宋銭です。

 「代表的渡来北宋銭」

○皇宋通寳 ○元豊通寳 ○熈寧元寳 ○元祐通寳

我々古銭家は渡来銭と聞けば反射的に貨幣と考えてしまいます。貨幣とすると大切な物で壊すことが罪悪と思うのか、渡来銭の形のまま利用する概念から脱却できません。そんな時鎌倉大仏の銅地金はどこから持って来たか不思議に思った。ご存知のように皇朝銭が鋳造できなくなったのは、日本の銅山の枯渇です。特に長門長登銅山は銅が豊富で奈良時代に東大寺の大仏も380トンと大量の銅を供給し完成させました。しかし鉱山の宿命で掘り尽せば資源は枯渇します。そこで渡来銭が貨幣だけでなく銅地金の側面もあるとしたらどうでしょう。
  これから鎌倉の大仏は北宋銭を中心に渡来銭で鋳造されたとの結論を表題にしました。
  渡来銭は約七百年間と長期間の観点、また日本と中国と多くの視点からの観察が必要です。しかし拙者の把握能力では限界があります。それ故に絞り込んだ論点になってしまいました。これら論点にご批判を賜れば幸いです。

1、最後の皇朝銭と北宋貿易

天徳2年(958)3月25日最後の皇朝銭の乾元大寳が発行される。乾元大寳当初は新銭1対旧銭10であったが、応和3年(963)7月28日に旧銭を通用禁止にし、乾元大寳のみの通用にした。永観元年(983)1千貫文が補充され乾元大寳がだぶついた様子。翌永観2年(984)11月6日塩1籠が1貫67百文と童が謡うほど銭が超インフレで貨幣機能が無くなり、銅銭は銅地金と等価となった様子。永観2年(984)11月28日破銭禁止令を出す。破銭とは銭を溶かして銅地金にすることです。寛和2年(986)6月16日昨年(985)の中ごろから世間は一切銭を使わなくなった。寛和2年(986)7月1日銭が流通するように諸社で祈願した。永延元年(987)11月に人民に銭を用いしないことを制止させる、同11月27日15大寺の僧に銭の流通を祈祷させている。これらは恐らく乾元大寳の末期症状であろう。北宋時代の日本への来航記録は46件残されている。

2、平安時代の価値基準品

 物価基準は古く延暦17年(897)に諸国が朝廷に地元特産物を納める時に京市の市場価格を基にするようにしたのが沽価(こか)法です。皇朝銭は終わったが、価値の基準は必要です。藤原道長が下した事例があるので紹介する。「権記」長保2年(1000)7月13日に大宰府で北宗商人と大宰府の役人が貿易代金の支払いで揉め事が起こった。内容は「日本は金(1)両米1石」「宗は金(1)両米3石」と平行線であった。ここで日本の支払い物は米であった。これに対して藤原道長は米2石で良いと決定した。これからも金と米が物価の基準品であった。また長元3年(1030)に陸奥から税で「これまで絹1疋は金1両であったが、今後は絹2疋を金1両に当てて欲しい」これも藤原道長の子頼通(よりみち)が絹2疋を金1両で良いとした。金で納める陸奥は税が半分になった。

「乾元大寳」 「袋入り砂金」

乾元大寳が流通しなくなった、約990年以降の平安時代の価値基準は米か絹であった。なお外国交易での基準品は金であった。金は当時砂金で袋に入れて使った。貿易決済に金が使用されたのは古く大宰府では元慶年間(880頃)綿から金に変わったことが最近の研究で明らかになった様です。

3、皇朝銭、新銭一対旧銭十の謎解き

  皇朝十二銭で「新銭一を以って旧銭十に当て=即ち新銭一対旧銭十」を明記してある皇朝銭の銭種は7種であり、隆平永寳以降で6種です。累進10倍では10の6乗もすれば、延喜通寳では1百万倍にもなり、記載の無い3種銭(富寿神寳・寛平大寳・乾元大寳)も新銭一対旧銭十であれば10億倍になり誰でも疑問を感じる所です。
 (1)萬年通寳以降の略歴
  まず萬年通寳は皇朝銭最初の新銭一対旧銭十である。萬年通寳は銀銭(大平元寳)さらには金銭(開基勝寳)と兌換でき価値の裏づけがあり、恐らく和同開珎の十として通用したであろう。しかし藤原仲麻呂(恵美押勝)を称徳女皇が滅ばしたことから急遽神功開寳の発行となった。神功開寳は萬年通寳と同じく1枚十文価値としたが発行量が多く価値がさがりインフレになった様です。称徳女皇崩御・弓削道鏡追放後光仁天皇は和同開珎・萬年通寳・神功開寳の三貨を宝亀10年(779)8月15日等価の1枚1文価値にした。1枚十文価値安定の難しさを知った上、桓武天皇はそれでも隆平永寳を新銭一対旧銭十で延暦15年(796)8月15日に発行した。また同年(796)12月14日に銅の銙帯を禁じ鋳銭を支えるなど、銅地金の逼迫が始まった。延暦17年(798)9月23日の貯銭禁断では地方役人・民が蓄えた銭を稲(正税)に交換している。同年(798)10月24日估価法(こかほう)を改定し、実勢の市場価格に合わせた。さらに隆平永寳発行の翌年から四年後に全ての旧銭を通用停止にすると予告し延暦19年(800)実施した。同年(800)2月4日蓄銭叙位を禁止にした。平城天皇は大同3年(808)5月8日旧銭の1枚1文価値使用を「新銭がまだ多く無い」との理由で認めた。弘仁9年(818)8月25日畿内の田税を銭でなく稲に統一した。この様な銭の利用抑制策は銭を必要な時に入手する現在の外貨のような物にしたと思う。

 隆平永寳以降、新銭を発行の度に新銭一対旧銭十即ち新銭は1枚十文価値で使えが、皇朝新銭発行の慣例になった様です。なお国史日本後紀の失われた頁の補充の形で室町時代の日本紀略には、新銭一対旧銭十の記載のない皇朝銭は和同開珎を除いて3種(富寿神寳・寛平大寳・乾元大寳)がある。しかしこの3種の皇朝銭に新銭一対旧銭十が無かった確証はないと思う。十文銭の発行のみなら同一銭名の追加鋳造で間に合うと思うが原料の銅地金が不足する。これより政府の財源確保からこの三貨にも新銭一対旧銭十は行われたと拙者は思う。なお日本紀略以外で偽書扱いの「秘庫器録(ひこきろく)」には、富寿神寳・寛平大寳ともに新銭一対旧銭十の記載となっている。

 (2)貞観時代の変化からのヒント
  隆平永寳以降皇朝銭の使用が制限されていたが、貞観年間(859~876)、税(調徭)に饒益神寳・貞観永寳が使えた。それは貞観7年(865)9月26日新しく岡田旧鋳銭司山から銅が採れ政府も余裕が出来たのでしょう。貞観11年(869)7月5日調徭を新銭(饒益銭)20文に定める。貞観12年(870)1月25日貞観永寳発行の後、貞観15年(873)12月17日の記録に調徭は饒益銭で183文が貞観銭では13文で決着させたとある(日本三代実録)。
  これより新銭のみは1枚約十文の価値で通用する。新銭発行後前銭(一世代前)は旧銭(二世代以前)と同じく一文の価値低下にする。即ち額面変更貨幣であった様です。むろん新銭も十倍固定ではなく相場(估価法)で変動した様です。
  要点は当時の文章で〇〇文とあれば、文を枚に置き換え(貫は千枚)、さらにこの皇朝銭が新銭か旧銭かを銭名と年代で判断し、新銭なら1枚約十文の価値になる。また新銭〇〇文と新銭と断りの記載があれば無条件で新銭である。一方新銭以外は旧銭で1枚約1文の価値となろう。
  

「乾元大寳時から見た和同開珎1文との倍率」

皇朝銭名称(発行年) 対旧銭十の表示 累進十倍 新銭のみ十文
和同開珎(708) 表示なし 1文 1文
萬年通寳(760) 対旧銭十 10文 1文
神功開寳(765) 前と等価 10文 1文
三貨等価(779) 全て等価 1文 1文
隆平永寳(796) 対旧銭十 10文 1文
富寿神寳(818) 表示なし対旧銭十に 百文 1文
承和昌寳(835) 対旧銭十 千文 1文
長年大寳(848) 対旧銭十 万文 1文
饒益神寳(859) 対旧銭十 10万文 1文
貞観永寳(870) 対旧銭十 百万文 1文
寛平大寳(890) 表示なし対旧銭十に 千万文 1文
延喜通寳(907) 対旧銭十 1億文 1文
乾元大寳(958) 表示なし対旧銭十に 10億文 10文

(3)延喜通寳以降の物価動向 
 物価の動向を見るのによく米価が使われるが、米価はどうしても凶作・在庫端境期の影響を受けやすい。そこで土地価格に目を向けてみる、土地の売買には銭のみを使えの和銅6年(713)3月令の影響力があったようで皇朝銭時代末期まで銭のみが使われて都合がいい。平安京左京七条一坊十五町の同じ土地(約136坪×4戸主で約545坪)が約80年で8回所有者変更し、内5回が売買であった手続券文が残っている。最初の売買は延喜12年(912)土地と家屋を延喜通寳時代60貫文で売買し、子供の代に家屋が無くなり土地だけを畑地として延長7年(929)に延喜通寳時代10貫文で売買、天暦3年(949)同額延喜通寳時代10貫文で売買、天徳2年(958)乾元大寳発行、応和3年(963)旧銭の使用禁止を政府決定、天元2年(979)乾元大寳時代9貫文で売買、正暦4年(993)米12石で売買の経歴であった。
 この土地取引を見る限りでは延喜通寳時代は物価は安定し、新銭即ち乾元大寳発行後少し値下げのデフレ傾向にあった様です。新銭一対旧銭十は銅地金を回収する為の人民泣かせの暴政であるとの論評が多い。しかし巷(主に両替商)の貨幣流通額を減らしてインフレを起させない、この時代の信用貨幣経済に合致した政策であった様です。これは悪法と言う既存の評価を180度変えるかも知れません。
 この新銭一対旧銭十の逆として、政府が欲をかいて応和3年(963)7月28日旧銭の使用禁止にした。土地手続券文から天元2年(979)乾元大寳時代9貫文で売買とインフレの兆候は無かった。永観元年(983)7月13日1千貫文を補充し、乾元大寳がだぶついてからは超インフレが発生した。それで寛和2年(986)6月16日昨年(985)の中ごろから世間は一切銭を使わなり、貨幣政策が失敗したことでも証明される。
  また証拠が残る手続券文に貨幣ではない米と堂々と記載した、正暦4年(993)が少なくとも政府も認めた皇朝銭の終焉であった様です。その後通貨ではなく恐らく銅地金として東寺が長保2年(1000)に地方から特産品の代わりに銭を納入させている。
 


「京家地の手続券文・貼り継いだ6通の内1通」
(大系日本の歴史・小学館より)

     

4、銅鉱石の枯渇

長登銅山(長門・山口県)は大規模銅鉱山で少なくとも10世紀代まで稼動していた。この長登銅山からの銅材で東大寺大仏が奈良時代造られた。長登銅山が枯渇した時期は乾元大寳の鋳造が終わり、新銭宣言して出来なかった応和3年(963)7月28日に重なる。また梵鐘生産の空白期は10世紀後半から12世紀半ばまで鋳造はなかった。
  中国の銅鉱石の採掘は北宋時代がピークであった。したがって北宋を金が滅ぼし、南宋(1127~1279)になってからは銅銭の発行は少量となった。南宋で金の馬に対抗して、造船業が急速に発展し、年に3千艘以上の船舶が進水したという。
  1140年以降の南宋時代は大宰府のみでは無く、南宋船が直接実力者の港に入りこんだ。これは日本の中央政府の武力の弱まりと、砂金の量が増えたことが要因と思われる。南宋の対日輸出品は銅銭・絹織物・香料・書画・文具・磁器で、輸入品は木材・硫黄・金・真珠・水銀・螺鈿(らでん)であった。
  保延6年(1140)12月3日平忠盛が熟銅(銅地金)及び土地を金峯山寺へ寄付し、鐘を造る。(拙者考・銅は貴重品であったし、宗銭を溶かして鋳造したか?)。南宋の紹興13年(1143)の銅銭輸出厳禁令を出す。(拙者考・日本への銭の密貿易は莫大な利益を生み、渡来銭の輸入はこの頃から飛躍的に増加した。また鋳銭が豊富な北宋時代も中国内は輸出量が多く銭不足になり輸出禁止令が出ている)。久安3年(1147)7月平清盛祇園社騒乱で銅30斤を償う刑。
  久安6年(1150)8月25日最初の宋銭利用の土地売券「大和国今小路敷地を27貫文で売却」があった様です。平清盛は1170年以降大輪田泊(神戸港)・大阪湾で、交易を行ったがこの時期から北宋銭の大量輸入が始まったようです。
  信仰の力は強く、銅地金があると銅仏器の生産が再開された。ただし祭紀器と美意識本能に対応した鏡の需要は強かったようで、鋳銭が空白期も和鏡は乏しい銅地金から造られ続けたようです。奈良の大仏は治承4年(1180)平重衡(しげひら・清盛の五男)の南都焼討で奈良の大仏も消失した。東大寺・大仏の再建は僧の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)で、当時来日していた宗の鋳工陳和郷(ちんなけい)らの協力を仰いだ。大仏を再興し文治元年(1185)開眼供養が営まれた。
  文治元年(1185)11月源頼朝、京都守護を設置、さらに同年末鎮西奉行を大宰府に置き九州管理と海外貿易を管理させる、これ以降日本船が中国に向かう様にもなった。文治5年(1189)9月源頼朝、藤原泰衡(やすひら)を撃ち、奥州総奉行設置。建久3年(1192)源頼朝が征夷大将軍になる。
  建久3年(1192)10月朝廷が宋銭の通用を停止する宣旨。(拙者考・現実は順法出来ない様子、土地売券でも銅銭があり「銭なし」は困難であった様です。なお朝廷の渡来銭の禁止令は多く、治承3年7月「1179」・文治3年6月「1187」・正治2年6月「1200」とたびたびある)。建久4年(1193)7月幕府は朝廷の意向を受け宋銭の永久使用停止と追放宣言するが、同年10月幕府は追放宣言を翻し出挙(利子)に米1石は銭1貫文と定め、8分の1以上の利子は禁止と事実上銭使用を認める。

5、渡来銭の日本貨幣化へ

平安後期から鎌倉時代前期の日本は砂金・絹・米の価値基準が、江戸時代の金貨・銀貨・銅貨の様に互いに連動して経済活動ができた。銅銭の経済活動が活発になるのは承久2年(1220)以降と思われる。その根拠は畿内の土地売券710券を調査した結果がある。
  承久2年(1220)頃以降から銭での取引が米取引を逆転し増え始めた。
  承久3年(1221)6月15日承久の乱が起こり、幕府軍が後鳥羽上皇軍に京都で圧勝、以後幕府の権力強まる。
  嘉禄2年(1226)8月1日幕府は貨幣で絹・布の使用を止めさせ、銅銭の流通をすすめる、(拙者考・貨幣の発行権は朝廷にあり、幕府は貨幣に対して遠慮していたが、承久の乱後遠慮なく銅銭を使うことを進めた)。 寛喜2年(1230)朝廷も幕府に遅れること36年後新しい沽価法で銭1貫文=米1石の交換比率を定め、渡来銭の使用を公認した。
  土地売券で米以外に少しであるが、承久2年(1220)以前には絹・布での取引もあったが、嘉禄2年(1226)以降絹・布は無くなったようです。また価値基準品であった砂金も枯渇してきて、土地売券にも無い様で国内では貨幣ではなくなった様です。吾妻鏡嘉禎3年(1237)6月23日「大慈寺供養で・・檜扇に砂金百両置いた布施あり」と、この頃から砂金は貨幣と言うよりは貴重品で上流階級の贈り物品であったようです。これより価値基準品は砂金に代わり同じ鉱物系の渡来銭がなったようだ。

6、銅地金としても増加

吾妻鑑の文歴2年(1235)6月の条に「鎌倉明王院五月堂の梵鐘造りに三百貫文で失敗したが、今日は三十余貫文では成功した」と、渡来銭から銅仏器を造っているようです。仁治2年(1241)初めて臨時納税の段銭(たんせん)を課す。大田文(土地台帳)の公田の数量(一反あたり何文)に応じて原則銭で納めると、公的にも銭が使われ始めた。

「鎌倉の大仏」

建長4年(1252)に暴風雨で崩壊した木造の大仏に変わって、銅の鎌倉大仏が造営された。高さ11m、重さ121トンである。なお鎌倉の大仏は現在も当初の仏像が残っている。鎌倉の大仏は新造であり、銅地金は全て用意する必要があった。当時日本に銅地金を産出する銅山は無かったようです。即ち国産が無く銅地金は輸入する必要がある。鎌倉大仏の銅成分は銅74.85%錫9.26%鉛19.57%鉄0.04%と中国公鋳銭に近いということは判っている。これより平家・鎌倉時代の南宋時代に交易で来た、大量の渡来銭はもはや貨幣だけではなく銅地金として日本で利用されたのであろう。大仏は重量121トンでこれに見合う大量の渡来銭を調達し鋳造出来たようです。 
  建長6年(1254)鎌倉幕府、南宋船の入港を年5隻に制限する。(拙者考・この制限が守られたかどうかは疑問であるが、逆に日本船の中国進出には制限はなかったのでむしろ増加したとも思われる)