葛飾の謎 探求


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葛飾は、言い伝えや昔話にまつわる場所が、本当にいっぱいあります。 このページでは、その中でも特に“怪しい”場所について紹介します。 (いや、実は全然怪しくない場所もあるけど…)


鳥居
謎の石“立石様” (区指定 史跡)

私が結婚を機に借りたマンションは、葛飾区東立石という所にあります。 私としたことが、(水元の実家時代から)こんなに長い間葛飾に住んでいて、 この“立石”という地名に何の疑問も抱いていませんでした。

そうです。 私の実家がある“水元”“小合溜井”という 古くからある農業用溜め池に由来しているように、 考えてみれば、この“立石”という地名が何らかの“石”に 関わりがあるというのは一目瞭然です。

この“立石”という地名は、 “立石様”と呼ばれる謎の“石”に由来しているのです。

京成線の“立石”という駅の下りホームに、 江戸時代か何かに描かれたらしい立石様の絵のレプリカが、 立て札にされています。

(ちなみに立石駅は葛飾区役所の最寄り駅です。)


立石駅ホームの一角 この“立石様”ですが、石質は含化石凝灰岩(有機質を含んだ石灰岩)で、 かなり昔には結構大きくて大人の背丈くらいはあったらしいのですが、 沈下したのか風雪で削られたのか、江戸時代には60cm程度になってしまい、 今ではそのほとんどが埋没し、 頭がほんのちょっと地上に見えているだけになってしまったそうです。

昔々、立石村の若者達が2〜3人がかりで立石様を掘ってみたということですが、 掘っても掘っても根元まではたどり着かなかったそうです。 この頃から村人はこの石を霊石として崇めるようになり、 話を聞いた他の村からも見物人が来るようになったということです。

またその後、ある殿様が人夫を連れてきて立石様を掘らせてみましたが、 3〜4日掘っても根元に届かず、気味悪く思った人夫が次々と逃げてしまったそうです。 仕方が無く、殿様は工事を中止して人夫を募集することにしましたが、 その矢先に立石村に奇病が広がりました。 病人は、高い熱に苦しめられ、話ができなくなり、 うなされたように穴に潜るようなしぐさを繰り返します。 これは立石様のたたりに違いないと考えた村人達は、早速殿様に工事中止を懇願すると、 殿様の方もさすがに嫌になっていたため、工事は直ちに取りやめになったとのことです。

これ以降、立石様に触れるのはタブーということになり、 立石様を調査しようという話が持ち上がっても、 地元住民の反対などで調査は中止となったそうです。


小さな鳥居 私が立石様の話を合唱団の先輩 から聞いた時、 私は久しぶりにワクワクしました。

「この葛飾に、そのようなヘビーな場所があるなんて…」

合唱団メンバーでの飲み会の帰り、 私はその先輩に頼んで立石様を一緒に探して頂きました。 夜も遅いというのに、先輩は快く協力してくださいました。 何らかの手がかりを求め、とりあえず我々は葛飾区役所に向かいました。 そして、区役所の隣に立っていた付近案内地図に“史跡 立石”という文字を発見し、 我々は早速そこに向かいました。

そこは狭い場所で、鳥居があるかと思えば ブランコ滑り台なんかもあって、 公園なのか神社の境内なのか良く分からないような所でした。 で、砂場の横に小さな鳥居があって、その後ろに立石様がありました。

「これが、触れてはならないという立石様かぁ…」

緊張した我々は、とりあえずお参りをした上で、 暗くて良く見えないので、恐る恐るペンライトで照らしてみました。 砂の真ん中に何やら黒っぽい石のようなものがあり、 どうやらそれが立石様のようでした。 しかし良く見ると、立石様の周りの砂には誰かが触ったような手の跡がいっぱい!

「触っとるやないけぇ!!」

私はそうツッコミましたが、後で聞いた話だと、立石様は子供と遊ぶのが好きなのだそうで… まあ、それなら良し…か?

結局、この立石様は、いったい何なんでしょう…。


立石様を覗き込む ここで、立石様のことを教えてくれた先輩から、 更に凄い情報が飛び込んできました!

テレビ朝日で夕方にやっているニュース番組“スーパーJチャンネル”の 「東京ミステリーゾーン」というコーナーで、この立石様が取り上げられたのです!

抜け目無くこの番組を録画していた先輩から、私は早速ビデオテープを貸していただきました。

内容としましては、まず近所の人に立石様の噂を聞いたりするところから始まります。 すると、やっぱり上記のような話がウジャウジャ出てくるわけです。 私が思っていたよりもずっと大げさでしたがね。

また、すぐ近くにある「熊野神社」は、戦前まで立石様を管理していたのだそうで、 “熊野神社 社誌”というものに残っていた江戸時代の記録が紐解かれました。 これによると、寛政年間の頃(フランス革命の頃ですか)、 幕府の役人と測量士によって立石様の発掘が行われたのだそうですが、 関係者の間に次々と病気が流行った為、祟りではないかと恐れた人々は、 発掘を中止し、この石を「立石稲荷大明神」として奉ったということでした。 この頃は、一尺くらいの高さがあったそうですよ。まあ、200年も経ってるしなぁ。

さあ、ここで科学的な観点から調べてみようということになります。 最近葛飾区ではあちこちから遺跡が発見され、 あっちこっちで発掘作業が行われている関係で、 そこで発掘作業を行っている専門家にコメントをもらったりしてました。 この人の話によると、立石様の石は、 鋸山付近からしか取れない“房州石”(凝灰岩)なのだそうで、 かなりの距離を運ばれてきたということになります。 また、これと同じ石が、柴又八幡神社遺跡にある古墳の石室にも使用されているのだそうです。 これがまず重要な点。

立石様 最後に、地中を掘り返さずに調査する技術を持つ会社に依頼して、 立石様とその付近の地面を

の3方法によって調査しました。その結果は… これらのことから、番組が出した結論は、 “立石様”は、古墳の石室の天井などでは? というものでした。

う〜ん、なるほど。でも、まだ何かありそうな気がするんだよなぁ。

オカルティックな面からすると、 近くにある「熊野神社」って、 “江戸魔法陣”として東京に存在する3つの熊野神社のうちの一つだしねぇ。 よし、今度はオカルティックな面から調査してみっか!



富士神社参道
謎の塚“飯塚の富士塚” (区指定 史跡)

ある日曜日、私は例によって合唱団の連中と酒を呑んでいました。 夜も更け、さて帰ろうということになり、 私は自転車で自宅(結婚前のことなので実家)に向かって走り出しました。

その日は新小岩で酒を飲んでいたので、 私はまず奥戸に向かい、 そこから環七青戸まで走ってきました。

いつもなら、そのまま亀有を通って大谷田まで行き、 “飯塚橋”中川を越えて水元の自宅へ…という道を取るのですが、 この“飯塚橋”というのがとっても登るのが大変で、 いつも何とか避けたいなぁと思っていました。

そこで、青戸を通り過ぎて、 環七が水戸街道とぶつかった辺りで中川の土手に出てしまい、 土手沿いを少し走った後に“中川橋”という渡るのが簡単な低い橋を使って中川を越え、 そのまま土手沿いを走ることにしました。

走ってすぐ、実はこれが自宅への最短の道だということに気がつきました。 で、何で今までこの道を走ろうと考えもしなかったのだろうと不思議に思いました。

その時です。 私が走っているのは堤防土手で、左に見える川はもちろん、 右側に見える地面も私より下に見えていましが、 いつのまにか右側の地面が私よりも高い位置になっているのです。

「これは一体何だろう…」

そう思った私は、次の曲がり道で右に折れ、土手から降りました。

こうして発見したのが“飯塚の富士塚”です。

富士塚 この富士塚ですが、富士神社の境内に存在する“塚”で、 明治12年頃、浅間山(せんげんやま)という墳丘の頂上付近に盛り土をして出来たものだそうです。 元々はその浅間山の頂上に社殿があったらしいのですが、富士塚を作る際に下に社殿を降ろしたようです。 その代わり、現在の富士塚頂上には“浅間社の石祠”“天狗の石像”があるそうです。

名前から推測できるように、この富士塚は富士(浅間)を中心とする“山岳宗教”の崇拝物としての意味があります。 要するに、実際の富士山に参拝する代わりに、この富士塚に参拝するということです。 現在でも毎年7月1日には「七富士参り」という行事が行われます。 これは付近にある七つの浅間神社(埼玉県草加市瀬崎、同八潮市大瀬、同三郷市戸ヶ崎、千葉県松戸市小山、東京都江戸川区篠崎、同葛飾区西水元、同葛飾区南水元)を巡拝するというものです。 富士神社では、この行事に同期してお祭りをひらきます。 (以上、“飯塚の富士講”として「葛飾区指定無形民俗文化財」になっています)

境内裏、塚に上る階段 ところで、後で気がついたことなのですが、 私は子供の頃にこの“富士塚”に登ったことがあるようなのです。

かなり昔、とても悲しいことがあって泣き続けている子供の私を慰めるため、 父親は祭りに連れていってくれました。

父親の運転する自転車の後ろに乗っかって、 広い神社の境内のような所に行きました。 屋台が沢山出ているのを覚えています。 それは、盆踊りにしては季節外れのような、 なんだか不思議な雰囲気のお祭りでした。 今思えば、それは“富士詣”に伴うお祭りだったのではないでしょうか。

で、私が覚えているのは、 高いところから父親のいると思われる屋台の方を見下ろしていたことと、 右に川が見えたこと。 こんな景色が見えるのは“富士塚”の上しか無いと思われますので、 きっと私は登ったのだと思います。 で、その時は「これがどうしたと言うのだろう」と思って、 すぐに降りてきてしまった気がします。

今の私としては、登りたくて登りたくて、 夜の闇に乗じて登ってしまおうかと思うほどです。 でも今見ると、すっごく古い石段しか無くって、 良くあれを登ったなぁと思います。

つまり、私はこの登ったことまである“富士塚”を再発見したということですね。 でも、前にも述べましたが、 何で私はこの“富士塚”の横を通る道を通ろうと思わなかったのかと不思議に思います。 青戸方面から自宅に帰るには、非常に便利な道なのです。 子供の頃の悲しい思い出と結びついてしまっていたからなんでしょうか。



謎の沼“怪無沼”

青龍神社 怪無沼 怪無沼!!! この発見が、私の中に地元葛飾への興味を沸き起こすきっかけとなりました。

“怪無沼” …… しく …… 何という怪しい名前でしょうかっ! だいたい自分から「いえいえ決して怪しいものではありません」 という奴に限って怪しいものです。

このコーナーのトップページでも述べたとおり、 京成高砂駅改札横に備え付けられている駅付近の地図で、 私は怪無池を見つけました。 そして、早速その場所に行ってみました。

その場所の付近に来てみたのですが、ただ住宅があるだけで池が見当たりません。 おかしいなぁと思っていると、 “青龍神社”という字が刻まれている石が立っているのをみつけました。 もしやここでは…と思って近づいてみると、その横には参道が続いていて、 その参道の左側に沼が見えました。それが“怪無沼”だったのです。

この沼は、かなり昔に中川 ( 沼のすぐ横を流れている川 ) が決壊した際にできたのです。 そこに白蛇が住みつき、最初は恐れていた村人達も、 後に雨乞いの神様として崇められたそうです。


祠 この沼の横には、上でも述べたとおり“青龍神社”があります。 神社と言っても、鳥居と小さな祠があるだけです。 昭和56年3月に、青龍神社が全焼するという事件があったそうなのですが、 その前にはちゃんとした社が建っていたのでしょうか…。 もう少し調べてみます。

この“青龍神社”の本山は群馬県の“榛名山”で、 毎年そこから御神水を頂いてきて、怪無沼にそそぎいれるのだそうです。 その際、御神水を持ち帰る者は途中でおしっこをしてはいけないのだそうで(!?)、 何人かでリレーして御神水を持ってくるのだそうです。

ここにまつわる不思議な話は、多数残っています。 旱魃の際に怪無沼の水を田畑に注いで祈願すれば、たちどころに雨が降ったとのことです。 まあこれは、雨乞いの神様にまつわる話としては定番の話なのですが、 これ以外にも色々とあります。

大正15年に、怪無沼の端っこに水道管を通そうということになり、 沼を一部埋め立てようとしたところ、 工事をしようとするたびに大雨が起こって作業ができませんでした。 で、困った工事関係者が宮司さんに頼んでお祓いをしてもらうと、 あっと言う間に雨はやんでしまい、ちょっと話題になったそうです。

また、上でも述べたように昭和56年3月に青龍神社が全焼したのですが、 桐の箱に入った龍の掛け軸だけが、全く無傷で焼け跡に残っていたのだそうです。 この掛け軸は、あの“横山大観”の作なのだそうで(ホントのところは不明)、 毎晩泣き声が聞こえてくるという曰くつきの墨絵です。 この掛け軸は、先の火事の後、同じ葛飾区内にある日枝神社に保管されているそうです。


八大龍神 更に同じ昭和56年(1981年)3月、 葛飾区新宿(“にいじゅく”と読みます。“しんじゅく”ではありません ^^; )の路上に、 突然長さ15mほどの“大蛇”の姿が浮かび上がるという事件がおきたそうです。 時期が3月ということで、年末調整時期に多い道路工事によって偶然に出来たものなのでしょうが、 夜に大蛇を見た人とか、大蛇の夢をみたという人が続出したのだそうです。 で、ある人が見た夢の内容を元に、 近くのお地蔵様の横に“八大竜神”という名前の石碑を置き、 5月7日にお祭りを行ったところ、 道路の蛇の姿は見る見る細くうすくなって消えてしまったそうです。


埋め立てられた用水路 先に述べた青龍神社の火事と、この道路に現れた大蛇の事件は、 同じ時期に起こったわりにはあまり関連づけられていません。 でも、私は何か関連があるように思えてなりません。 この二つの怪しい事件は、両方とも当時の新聞でも話題になったそうなので(実は私も写真入りの記事を読んだ覚えがある)、 当時の新聞を漁っているのですが、なかなか見つかりません。 ただ、道路に現れた大蛇の方は、昭和56年に行われた用水の埋め立てにより、 そこに棲んでいた大蛇が現れたということになっています。 この大蛇は、青龍神社の白蛇とは一応別扱いになってまして、 昔々新宿のあたりにあった大池に棲んでいた大蛇で、 大正時代に池が埋め立てられた際に、用水の方に移り住んだのだそうです。

さて、次にこの沼の名前の由来について、お話します。 私は“怪無沼”と記述していますが、 “怪無池”という名称がメジャーなようです。 また、文献によっては“毛なし池”と記述されていることもあります。 “青龍様の池”とも呼ばれるそうです。 私が調べた限りでは、以下のような名称の由来の説があるそうです。

特に最後の説は凄いですね。 この説によると、“青龍神社”には陰毛が生えてくるという御利益があるそうです (御利益か?これ)。 これは“散歩の達人”という雑誌の1997年1月号に載っていました。

またまた話は変わりますが、 “青龍”という名前が陰陽道における4神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の内の1神と同じであることから、 沼の付近にある以下の3つの社寺にも何か“毛無沼”との関係があるのでは…と思い、ちょっと調べてみました。

で、まだ調査中なんですが、以下のようなことが分かりました。

“極楽寺”は、正式には“青龍山 西涼院 極楽寺”というそうで、 “極楽寺”の住職が、彼の著書“青龍記”の中で“青龍神社”や“毛無沼”との関係の存在を推測しています。

“天祖神社”には(上にも書きましたが)『雨乞図絵馬額』という区指定有形民俗文化財が保管されています。 これには、雨乞いをする人々と、竜の姿と、天祖神社と観蔵寺が描かれています。 天祖神社と観蔵寺は、例の「神仏分離令」で分かれるまでは一つだったようです。

私の期待とは全然異なりましたが、一応関係があるみたいですね。 もう少し調べたら、何かあるかな…。



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