青く透き通る水に沈んだ、水上の神殿。
その神殿の一角に、青年が倒れていた。
青年は高校生ぐらい。
袖のついた丈の長い衣服にベルトを巻き、さらに腰までの短いローブを纏っていた。
黒髪に隠れて、あどけなさがかすかに残る顔が見える。
その口から、声が漏れた。
「う……ん……」
青年の目はゆっくりとまぶたを開いた。
視界に飛び込んだのは、青い水が広がる神殿の柱。
青年はこの時、自分が夢の中にいるものと思っていた。
しかし、時が経って意識がはっきりしてくると、青年は一つの疑問を抱くようになった。
青年はがばっと起き上がり、周囲を見回した。
太陽の光がさんさんと降り注ぎ、そよ風が吹きぬける。
静かな所だった。
しかし。
ここには人がいない。
鳥もいない。
魚もいない。
静かすぎるのだ。
さっきまで自分が何をやっていたのかを思い出してみた。
さっきまで、舞台劇の練習をしていた。
今日から通し稽古をすると言うことで、今自分が着ている衣装を着て、稽古をした。
それがやっと終わって、着替えをしに控え室に行った。
控え室で横になって、そのまま寝てしまった。
そして、気がついたらここにいた。
青年は、周囲を歩き出した。
「誰か、いませんか?」
呼びかける青年の声は、壁や柱に跳ね返り、こだまとなって返ってくるだけだった。
元の場所に戻ると、誰かが立っていた。
そこには、自分と同じ年頃の、一人の男が立っていた。
服装は自分が着ているのと、あまり変わらない。
顔立ちは端正で、どこか知的で繊細な雰囲気があった。
男は青年の顔を見て、言った。
「お久しぶりです、博士」
青年は男に問うた。
「・・・…どなたですか?」
男は答えた。
「あなたの助手だった男ですよ」
青年はふきだした。
「…僕は助手を持つほどの身分じゃないですよ」
男はまじまじと青年の顔を凝視した。
やがて、男は納得したらしく、頭を下げた。
「…これは失礼…私の恩人とそっくりだったので、つい勘違いをしたようです」
男は微笑んだ。
「ところで、ここはどこですか?」
青年が男に尋ねた。
「つい最近まで、ある国の首都だったところです。外を見て御覧なさい」
男に言われて外を眺めると、なるほど、町が見えた。
例えてみれば、ベネチアに古代ローマの都市が出現したような、都市だった。
青い空と青い水、建物の白が互いを引き立て、そよ風と水の流れが快い音を立てた。
が、そこには人がいない。
都市の規模から言って、大勢の人がいるはずなのに、誰一人いない。
戦乱にしては荒廃の規模も少ない。
青年は奇妙に思えてきた。
「ここにはあなたお一人で?」
男はうなずいた。
「他の人は?」
青年の問いかけに、男はきっぱりと答えた。
一瞬の沈黙のあと、青年は笑い出した。
「…あははは…冗談にしては大げさすぎる…」
男は不敵な笑みを浮かべた。
「いいえ、冗談ではありませんよ」
男が右腕を振り上げると、青年の足元がいきなり光りだした。
青年がさっと後ろに飛び退く。
すると、光りだした所から、緑色の液体が湧き出てきた。
緑色の液体は膨張し、泡を立てながら一つの形を形成していく。
そして、緑色の角を生やした、黒い大きな巨人が生まれた。
青年はすぐに、その正体を悟った。
「…波蝕の鎧…!」
しばしの沈黙。
だが、それは青年の憤りの声で破られた。
「……『アビス』、貴様…!」
男はくすくすと笑った。
「違いますよ。…まあ、確かに私は『アビス』と同化しましたが…」
「同化?」
男の話を聞いて、青年は思った。
男が答えた。
「簡単なことですよ。『アビス』に同化されても、自我が維持できるようにしておいたのですから」
青年は驚いた。
「お前は魔術師か?」
青年は言った。
男は答えた。
「いいえ、私は魔法を使えません。…あえて言うなら、魔法を編み出すことしかできない男です」
「魔法を編み出す…?」
「・・・あなたにだって、やろうと思えばできます」
青年はフン、とはき捨てた。
「馬鹿馬鹿しい。魔法に興味はないね」
男はふふ、と笑った。
「あなたには才能があります。私の恩人に勝るとも劣らない、魔法の才能が…ただ、あなたがそれに気づかないだけです」
巨人がゆっくりと、歩き出した。
地響きをさせながら、青年に向かってくる。
「・・・私と同化すれば、ご理解いただけると思いますよ」
巨人の手が迫ってきた。
青年は険しい顔で立ちすくんだ。
が、その右脚は、水が纏いついていた。
青年は右脚を振り上げた。
「ふざけんな!」
青年の言葉とともに、青年の右脚が巨人の手に炸裂した。
巨人の手が、青年の蹴りで粉々になった。
巨人の手の破片が、周囲に飛び散る。
男は思わず、袖で顔を隠した。
青年はその隙に、きびすを返して神殿の奥に消えた。
青年は神殿を、奥へ、奥へと駆け上っていた。
自分の後ろを、赤色の穢れた水が追いかけていた。
「どこまで行かれる気です?」
時々語りかけてくる男の声を無視して、青年はひたすら駆け上っていった。
そうしているうちに、青年は神殿の一番奥までたどり着いた。
その部屋には、出入り口が二つあった。
一つは青年も利用した出入り口。
そして、もう一つは天井に通じる足場。
青年は迷うことなく、足場を登り始めた。
天井には穴があいていて、屋根裏へと続いていた。
狭い屋根裏を手探りで探ってみると、屋根裏の天井が動いた。
運がよければ、ここから屋根の上に上がれるかもしれない。
青年は天井を壊して、屋根に上がった。
屋根の上では強風が吹いていた。
服や髪が、ばさばさと風にあおられ、青年は思わず、髪を押さえつけた。
屋根の上からは、町の様子がよく見えた。
しかし、その町は赤い水に水没し、赤い龍や赤い液体人間が町のいたるところで徘徊していた。
青い空も、空のように澄んだ水も、今は赤く汚れていた。
その変貌に、青年は言葉を失った。
と、耳元で、男の声がささやいた。
「いかがです、“無”に戻った町の眺めは」
青年の首筋に悪寒が走り、体が硬直した。
「…あ…あ…」
青年は、肩が凍りついたような冷たさを感じた。…男が背後から腕を回していた。
男は青年に顔を寄せ、耳元でささやいた。
「すばらしいとは思いませんか。貧困も戦争も国境も差別も、”何もない”世界は」
青年は立ちすくむだけ。
男はさらに続けた。
「この世界の住人どもは自分勝手で、他人を”こんなものだ”と決め付けて軽蔑したり、“自分は所詮、こんなものだ”とあきらめて自分を磨こうとしない。こんな住人のはびこる世界など、存在するに値しません。あなたの世界もそうでしょう」
底なし沼に引きずり込まれるような音が聞こえてきた。
生温かい粘液が、青年の体にまとわりついてきた。
青年ははっと、男の腕を見た。
男の腕が、赤いゼリー状の液体に変形している。
そして、男の体は、青年を取り込もうとしていたのだ。
青年は危険と恐怖を感じたが、体が硬直して動けない。
「何も恐れることはありません。あなたは“私の一部”になるだけです」
そうこうしているうちに、青年の下半身は粘液に取り込まれてしまった。
そして、右側頭部から青年の頭をも飲み込み始めた。
青年は口を動かした。
男が訊く。
「どうしました、何か言い残したいことでも?」
青年は小さく、呟いた。
「…誰が…」
その呟き声は、淡々と、しかしずしりと重みを持った、声だった。
「?」
男は取り込まれつつある、青年の右腕に視線を向けた。
青年の右腕は水の帯を纏っていた。
さらに、水の帯が次々に右腕に集まってくる。
青年は歳に似合わぬ厳しい声で言った。
「…誰がお前なんかと同化するか!」
青年の言葉とともに、男に向かって裏拳がくりだされた。
男は青年の裏拳をまともに受け、のけぞった。
その衝撃で、男は青年の体から離れた。
「こっちだ!」
青年を呼ぶ声が、真下から聞こえた。
青年は下を見下ろした。
下には、青く清らかな水が広がっていた。
「逃がさん」
赤い水が、青年を追いかけてくる。
青年はためらいなく、その青く清らかな水の中に飛び込んだ。
・………・・
気がつくと、青年は控え室に戻っていた。
目の前には、胸に黒い球体を埋め込んだ、赤い体に緑色の瞳の女が立っていた。
「助けてくれて、ありがとう」
青年は女に言った。
女はそっけない言葉で返した。
「勘違いするな。我が貴様を助けたのは、貴様にやってもらいたいことがあったからだ」
青年は苦笑した。
「……まあ、借りがあるからね…で、僕にやってもらいたいことって?」
女がコートスタンドに立てかけてある、青年の上着を指差した。
「我が口を出さずとも、すぐにわかる」
上着のポケットに入れた携帯電話が、ピカピカと点滅しながら、瘧のように震えている。
青年が携帯電話を取り出し、発信ボタンを押した。
「はい、もしもし…」
電話をする青年の顔が、次第に険しくなっていった。
青年は電話を切ると、急いで着替えだした。
「そういうことだ。頼むぞ」
女は一言言うと、霧の中に隠れるように消えていってしまった。
その頃、青年に逃げられた男は、青年が飛び込んだ水溜りを見下ろしていた。
だが、その顔には悔しさは見受けられなかった。
むしろ、今まで味わったことのない高揚感を感じていた。
「…また、あの青年にめぐり会いたいものだな」
FIN