Chapter1. >The outbreak of all

 この上なく静かな夜だった。雲一つ無い夜空に満月だけが、他の星をも吸い込んでその冷たい光を地上に落としていた。
 その光の中で佇む一件の家から、ゆっくりと一人の男が出てきた。
 アメリカ空軍に所属し『中尉』の肩書きを持つこの男は、表情を曇らせたまま鍵を掛けるためにドアの方に向き直った。

 全ては夕方に上司がとある任務を持ってきたことに発端する。
 先の麻薬に関する捜査はある程度は成功した。麻薬の密売に関係していた者(派手に動いていた者)は大方解雇され、当然のようにナッシュの上司も替わった。
 しかし『ある程度は』という表現が示す通り、摘発できた者は本当に表面上の一部分に過ぎない。未だ軍の上層部には巧妙に隠れて後ろ暗い連中が闊歩しており、ナッシュの存在を疎ましく思っている者も少なくない。ナッシュの新しい上司も表には出さないものの、この手合と何らかの関係がある様な雰囲気がにじみ出ている。
 事実、最後に「君はこういう分野が得意だろう?」と言った時の上司の表情は何とも表現し難いものがあった。あまりにも露骨な嫌味(この場合、もはや嫌味とも言えない低レベルな悪口と表現するのが正しい)に応酬するのも馬鹿らしくなり、ナッシュはその場で素直に何も言わず書類を受け取って任務を受ける旨を伝え、準備と称しそのまま帰宅した。

 突然、背後で声がした。
「──動くな」
 金属質特有の冷たい感触を首筋に感じたのと同時だった。今まで全く気配は感じられなかったし、考え事をしていてそこまで警戒心を払っていなかったのも事実ではあるが、よもやこうまで簡単に背後を取られようとは。
「オレの言うことさえ聞いてくれれば命までは取らねぇよ。『聞いて』くれりゃね。」
 口調は荒いが、声からして若い女だ。密かに地面に写った影を確認すると、若いというよりはどちらかというと幼い感じを受ける。そしてその手には、その容姿に似つかわしくない大型の銃が握られ、真っ直ぐに自分の首筋に伸びていた。
「始めに言っておくがオレは気が短い。本来なら『人間』はオレの対象外だがアンタの返答によっちゃ遠慮なく引き金を引く。アンタだってこんなところで死にたくねぇだろ? ──アメリカ空軍中尉殿。」
「……じゃあ早く用件に入ってくれないか。こっちだって暇じゃない。」
 ナッシュはイラついていた。夕方に任務を持って来た上司の態度、任務の内容、そして今のこの状況。ナッシュのこの反応は予想外だったのか一瞬相手はあっけに取られたような感じを受けたが、やはりその程度で隙を見せてくれるような甘さはさすがに無い。
「物分かりがいいじゃねェか。……オレは今とある目的の為に金と移動手段が必要なんだが、アンタはその両方を解消してくれる『モノ』の権限を持ってるだろ? それをオレに寄越しな。」
「……何か勘違いしていないか? 俺一人の権限で簡単に動かせる訳が無いだろう。」
「ふざけるなよ。ちゃあんと調べはついてンだぜ。今のアンタはかなりの特権を与えられているんだろ? とある任務の為にね。それなら戦闘機の1機や2機、簡単に動かせるはずだ。それを寄越しなって言ってンだよ!」
 ナッシュは軽くため息をついた。任務を受けたのは夕方にである。それもそんなに前から計画されていたとも思えないのだが。
「……全く機密情報セキュリティのお粗末さはどうしようもないな。で、」
 一拍の間を置いてから続ける。
「俺は案内するだけで良いのか、それとも『運転手』まで御所望か?」
「……あンまり素直だと、セオリーとしては疑いたくなるね。」
「体張ってまで守らなければならないものではないしな。それに言ったろう?『こっちも暇じゃない』と。」
 背後を取られているので相手の動きは気配で感じるしかないのだが、『敵』はどうやら多少の警戒心を解いたらしい。微笑している様子がなんとなくわかる。
「……フ、気に入った。オレの『運転手』も努めてもらおう。こっちを向きな。『お約束』はちゃんとわかってるよな? おかしな真似はするなよ。」
 首筋から銃口が離れた。当然離れただけで狙いはきっちりつけられているだろう。だが反撃のチャンスとしてはここ以外には無い。
 ナッシュはゆっくりと振り向くために足の体重移動を始めた。
 その時。
「……楽しそうね。」
 不意に上の方から声が降ってきた。咄嗟に声のした方向に目をやる。
 屋根の上に一人の女の影があった。月光を背にしているために顔まではよく見ることができないが、すらりとした体に腰まで届きそうなストレートの髪。そして背中に一対の翼を確認することができる。
 明らかに異形の者。人間ではない。
 その『女』は、髪をかき上げながら再び口を開いた。
「ちょうどいいところに来たみたいね。私も混ぜてくれないかしら?」
「てめェはモリガン・アーンスランド!! ここで会ったが最後、オレ様の餌食になってもらうぜ!!!」
 どうも彼女はナッシュの背後にいる『敵』の知った顔であるらしい。突然ターゲットをその女に変え、洗練された身のこなしで銃口を向けた。だがその先の女は全く動じる様子が無い。
「ふふ……久し振りね、バレッタ。でも忘れたのかしら? 私は前とは違って完全体なのよ。しかも今宵は満月。『私』にとってはこの上ない好条件だわ。……それでも私と遊ぶ?」
「……っ!」
 バレッタがひるむ。一方のモリガンは表情こそ見えないものの、かなりの余裕をもっていることが雰囲気から感じ取れる。この場ではモリガンの方が圧倒的に優位に立っていた。
 自らの不利を察したバレッタは、一度モリガンに向けた銃口を再びナッシュに戻した。
「……遊んでやりたいところだが、良く考えりゃ今オレはそんなことをしている暇は無い。今回は見逃してやるからとっとと失せな!!」
「あら、残念ね。でもだからといって引き下がるわけにはいかないのよ。だって私はそこのお兄さんに用事があるんだから。」
「てめぇ……ッ!!」
 あくまでも余裕を保つモリガンに対し、バレッタは歯ぎしりをした。状況は圧倒的に不利である。こんな奴が乱入してくるとは全く予想をしていなかった。それにしても魔王の名を欲しいままにするこの夜の女王が、アメリカ空軍中尉に一体何の用事があるというのか。
 何にせよ納得はいかないまでも、ここは一旦引き下がるより他に選択肢が無い。
「………覚えてろよ。今度会った時は容赦しねぇからな。──行くぞ、ハリー」
 バレッタはつぶやくようにそう吐き捨てると、音もなく身を翻して闇に消えた。そのバレッタの声に反応して、何処に潜んでいたのか物陰から1匹の犬が現れて後に続き闇に消える。
 その場で取り合いの対象になったにもかかわらず全くの蚊帳の外だったナッシュは、この事の成り行きを無表情に見つめていた。
 そんなナッシュのそばに、モリガンが屋根からふわりと舞い降りる。
「とりあえず助けられた形になるな。……礼を言う。」
「冷たいわねぇ、『現実』では初めて会うっていうのに。」
「………。」
 ナッシュはここのところ、いや、正確に言えば麻薬捜査が一段落ついた辺りからかなり頻繁に見ている夢があった。その夢は現実感は伴わないものの夢としては妙に生々しく、そして必ずある一人の女の姿があった。まさかその女が現実に目の前に現れるとは思ってもみなかったが、心の片隅にはこの『非現実的』な事柄を根拠無しに認めている自分がいたのも事実である。あるいは「自分の目で見たもの以外は信じない」と言いつつも、一種の期待の様なものを持っていたのではあるまいか。
「……それにあまり驚かないのね。」
「もう今更何を見ても驚く気にはなれないからな。」
 おまけに任務のために1歩家を出た途端にこの騒ぎ。最早何が起こっても不思議ではない。上司も大変な任務を押し付けてくれたものである。
「……で、何をしに来た?」
 ナッシュの反応に少しつまらなさそうにしているモリガンの方に改めて向き直り、ナッシュは聞いた。相手は人間ではない。当然何を考えているのかは予測が立ちにくい。この場合はストレートに聞いてみるのが一番だと思ったのだか、返ってきた言葉は意外なものだった。
「目的は貴方と同じよ。だから見に来たんだけど。」
「同じ……?」
「波蝕の鎧」
 モリガンは分かりやすく一語一語区切って述べた。この瞬間、上司が持ってきたある意味いかがわしい任務は途端に現実味を帯び、危機感を増した。
「……有名な話なのか?」
「知らないわ。でも面白そうじゃない。退屈しのぎには丁度いいと思ってコッチに来てみたのよ。そうしたら貴方も動くみたいだから。」
「俺と一緒に行動するつもりか?」
「そうよ。知ってるでしょう? 私が『退屈』を嫌うこと。しばらくは貴方と動けば退屈はしなさそうよね。今だってあんな事に巻き込まれていたわけだし。」
 さらりと言い切るモリガンの台詞に、ナッシュは軽くため息をついた。こうまで現実離れした現実に向き合うと、モリガンの様な人材も必要に思う。頭の中で損得勘定が一瞬にして展開される。その結果が次の台詞となり、ナッシュは歩き出した。
「それじゃ、行こうぜ。」


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