Chapter17. > vs. Abyss -The 1st. form-

 「ついている」というよりは、むしろ「まんまとはめられた」という表現が正しいように思えた。
 近付いてくる足音にあわせるかのように、先程びくともしなかった大きな扉が鈍い音を従えてゆっくりと開いていく。
 そして六人の眼前に現れた『鎧』は、想像を軽く上回る大きさだった。ゆうに3mを越えており、見上げる程大きい。
 黒光りする鎧に、兜の部分から左右に長く伸びた2本の角。緑色に光り輝くそれは、正にナッシュやモリガンが夢で見た通りの形だった。
「……おいおい、こんなにデカいなんて聞いてないぜモナミ。」
 ぽかんと口を開けて見上げていたガンビットが、ようやく呟く。その横でナッシュは正に苦虫を噛み潰したようなという表現が似合うような、難しい顔をしていた。
「いや、済まない。説明不足だったのは認める。」
 夢の中で研究者の男が助手と対峙した際、助手が自らの姿を作り出したホログラムと鎧との対比は、目の前の鎧と一致している。あの時の鎧も確かに見上げる程大きかった。
 波蝕の鎧自体が、装着者の能力を格段に増強するブースターである。普通の甲冑はそのものの重さにより装着者に負担をかける事があるが、波蝕の鎧の場合はそれがない。装着者の増強された魔力により重さが殆ど感じられなくなるからだ。
 重さの制限がなくなれば、鎧を人の体格に合わせたものにする必要性はなくなる。防御力と破壊力をとことん突き詰めればよい。
 だからこそ鎧は人より大きく、普通に人が身に付ける甲冑とは印象が違うのだ。鎧を身に纏う、というよりは、鎧に乗る、という代物である。
「人が乗ってるセンチネルみたいなモンか。」
「まぁ、そんなところだろう。」
 あのイメージが現実であったという事だけでも驚きだ。これが波蝕の鎧──今回の事件の元凶と見て間違いあるまい。
「──その助手って人は、あんな大きいのどうやって神殿から持ち出したンだろうねぇ?」
 ソンソンはのんびりと鎧を見上げていた。その台詞を聞いたモリガンが、出鼻をくじかれた感じで「そんな事は今はどうだって良いわよ……。」とため息をつく。
 更にその横ではリュウとウルヴァリンが
「あの鎧、ここに何の用なんだ? 今から国会でもするのか?」
「知るか。鎧に聞け。」
 等と、こちらもまた少々気の抜ける発言をしていた。
 その間に鎧は議事堂内に足を踏み入れ、一歩ずつこちらに向かって進んでくる。扉は鎧が完全に議事堂内に入った時点で一転して閉じ始めた。
 それが完全に閉まり切った時、鎧は同時に足を止めた。場所は丁度扉から、一行がいる議事堂中央部までの半分。議事堂の四分の一のところだ。対峙するに相応しい距離である。
 六人が固唾を呑んで鎧の動きを見守っていると、鎧はその場に突っ立ったまま、徐々に上体を反らし始めた。
「何をするつもりだ?」
 全員は警戒したまま鎧を見つめる。
 これ以上身体を反らすと後ろに倒れるのではないか、と思えるところまで来た時、鎧の動きが一瞬止まった。
 そして一転、溜めた力を一気に解き放った。
 まるでロケットの様に、ものすごい勢いで真直ぐこちらに向かってくる。いきなり体当たりで全員を押し潰そうというのか。
「散れッ!!」
 ウルヴァリンの号令と同時かそれよりやや早く、六人は左右に散っていた。
 直後に波蝕の鎧が通過し、床にわずかに溜まった埃を巻き上げながら躊躇いもせず一直線に反対側の壁に突っ込んだ。
 轟音が響き、議事堂がビリビリと震えて天井から細かい埃らしきものが落ちて来る。
「──何だありゃ……。」
 舞い上がった土埃を払いながら、ガンビットが呟いた。
「私たちを潰すにしたって芸が無いわよねぇ……。」
 モリガンも壁に突っ込んで動かなくなっている鎧に冷ややかな視線を向ける。
 予備動作が大き過ぎる上、標的の方向へ向いた後は補足して追いかけるわけでもなく真直ぐ突っ走る。よけるのは訳が無い。
「まさか自爆ってオチは無いだろうな?」
 ガンビットが近寄ろうと一歩足を踏み出した時、鎧がぴくりと動いた。
 ゆっくりと身体を壁から離して振り向く。あれだけ激しく壁に激突したにも関わらず、身体には傷一つ付いていない。
 そして、再び上体を反らし始めた。
「また来るつもりだ。」
 リュウが指差し、同じく鎧の動きを見ていたナッシュも半ば呆れ顔になる。
「目的が判らんな。議事堂を壊す為か? それともそれしか芸が無いのか?」
 果たして、予想通り波蝕の鎧は二度目のタックルを実行した。
 今度は判っているので、全員は先程より更に早く左右に散ってやり過ごそうとした。──ただ一人を除いて。
「リュウ!?」
 ナッシュが驚いて声を上げる。
 リュウだけが突っ込んでくる鎧の前に立ちはだかっていた。
 身体を沈み込ませ、右脇で合わせた両手に気を集中する。それが視認できるほどの巨大な光球となって現れた時、鎧はリュウの目前まで迫っていた。
「真空 波動拳──!!」
 真っ向勝負、である。
 真空波動拳を正面から受け止める形になった鎧は、その場で進行を阻まれることとなった。激突した瞬間に一瞬のけ反り、倒れそうになったが、辛うじて態勢を立て直したかと思うと今度は波動拳を押し戻すべく前傾姿勢になる。
 一方のリュウは断続的に気を送り、鎧の進撃を阻み続けた。
 しばしの均衡──しかし長くは続かなかった。
 軍配は波蝕の鎧に上がった。リュウの波動拳を弾き返し、そのままリュウに突っ込んでいく。
「──ッ!!」
 鎧はリュウの居たところをあっさり通り過ぎ、またしても反対側の壁に激突して止まった。誰もが最悪の結果を予想した。
 再び舞い上がった土埃が徐々に収まっていくのを、固唾を呑んで見守る。
 すると、その埃の向こうに、二つの影が浮かび上がった。
 尻餅をついている影がリュウ、そしてもう一人傍に立っている影はウルヴァリンだった。すんでのところでウルヴァリンがリュウを引っ張り込み、鎧の軌道上から外したのだ。
「リュウ!」
 皆が一斉に駆け寄る。二人とも埃まみれになっているものの、大した事はなさそうだ。
「死にてぇのか小僧!」
 へたり込んでいるリュウをウルヴァリンが睨みつける。
 その怒号をよそに、リュウは波蝕の鎧を呆然と見つめていた。
「──波動拳が、効かない?」
 渾身の真空波動拳を、鎧が押し切った形になる。リュウにとってはその方が今死にかけたことよりもショックが大きかった様だ。
「んー、全く効いてない訳じゃないと思うよ? 表面がちょっと溶けていたみたいだし。」
 ソンソンが、こちらに背を向けている波蝕の鎧を棒で示しながら言う。波動拳を弾いた瞬間の波蝕の鎧を、彼女は常人より優れた視力で捉えていたのだ。その波動拳が直撃した部分は、うっすらと、しかし確実に変色していた。
「だがよ、実際俺達の攻撃はどの程度通用するンだ? 攻撃しても表面を磨いただけ、じゃ埒が明かねぇ。」
 ウルヴァリンが今一番の問題を口にした。
 鎧は魔力と物理攻撃に対し、耐性を持っている。壁に激突しても特に傷が付く様子もない事からも、相当な硬さであるのが判る。
 真空波動拳は表面を溶かした様だが、鎧の内部にダメージが響いているかどうかは疑わしい。
 今ここにいるメンバーの持つ技で、果たしてどの程度鎧に対抗できるのだろうか。
「おとぎの国のお花畑で使われるような気の抜けた魔法なんてモノと、私たちの力はどう考えても別物でしょ?
 波動拳で表面が少し溶けたっていうなら、何度も飛び道具を重ねたら穴ぐらいは空けられるわよ。」
 じれったいわね、と口を尖らせるモリガンに対し、ナッシュは首を振った。
「力が別物かどうかはともかく、飛び道具をずっと打ち続けられるとは限らないだろう。全員が打てる訳でもない。一瞬でも動きは止められる様だが。」
「最終的にどれくらいダメージを与えられるか、だからな。気功系や飛び道具で動きを止められるなら、その隙に直接攻撃を叩き込めるヤツが突っ込めばいい。
 ──まぁ、アダマンチウムでも傷付けられないほど硬いってンなら、それこそ諦めて帰った方が良いかも知れないぜ。」
 身体を起こそうと動き始めた鎧の背中を見つめてボンヤリ呟くガンビットの台詞で、皆の視線はウルヴァリンに集中した。
 ナッシュが鎧に向き直る。
「試してみる価値はあるな。ローガン、頼む。」
 ナッシュとウルヴァリンは再び議事堂中央に躍り出た。
 まずナッシュが、再び壁から身体を離してこちらを向いた波蝕の鎧に対し、真正面から衝撃波の多段攻撃──ソニックブレイクを放った。
 無数に飛んでくるソニックブームに、次の動作に入るのを阻まれた鎧が固まる。
 そのわずかな瞬間、ウルヴァリンが最下段から鎧の懐に入り込んだ。史上最強の硬度を持つ爪が、目標に対して弧を描く。
「喰らえッ──!!」
 金属同士がぶつかりあい、火花が散った。
 鎧はわずかに後ろによろめいたが、それも束の間。すぐに体勢を建て直すと兜から生えている右側の角を自ら引き抜いた。
 ウルヴァリンめがけ、槍の形となったそれを勢い良く振り下ろす。
 きちんと目の端で鎧の動きを捉えていたウルヴァリンはそれを軽々と躱し、素早くナッシュ達のいるところまで下がる。外れた槍は床に当たって砕けた。
 間髪を入れずに今の攻撃の結果を確認する。手応えはあった。
「どうだ──?」
「流石だな。」
 ナッシュが口の端に微かな笑みを浮かべて成果を讚えた。
 その通りにはっきりと、傷が付いていた。貫通する程ではなかったが、明らかにアダマンチウムの爪が付けたと判る鋭い傷が、鎧の胴体部分を駆け巡っている。他にも腕の辺り等にナッシュの放ったソニックブレイクが当たった跡が多数確認出来た。先程槍にした角だけは、いつの間にか元通りに復元されている。
「少々根気が要る、というレベルだな。傷つけられないことはない。」
 無敵という訳ではないのだ。時間はかかるかもしれないが、こちらは六人もいる。
 対抗できると判ると、全員の表情に気合が入った。
「とにかく鎧を引っぺがせ! アビスとやらを拝んでやろうぜ!!」
 ウルヴァリンが声を張り上げ、それを合図に全員が鎧の前に立ちはだかる。
 すると鎧が、今度は今までと違う動きを始めた。両腕を顔の前に立てて合わせ、上半身を丸める形で前にかがみ込む。
「今度は何だ?」
 身体を前に丸めるなど、先程とは反対の行動である。
 他にも変化が見られた。鎧の関節部分などの隙間から見える緑色の光が、徐々に前方に集中してきているのだ。
「何かものすごく嫌な予感がするンだが──」
「同感だ。大道芸は一つだけじゃなかったらしい。」
「悠長なこと言ってるヒマは無いと思うわよ……?」
 ガンビットの言葉にナッシュが同意し、更にモリガンが突っ込む。
「隠れろ!」
 リュウが叫んだ。
 刹那、鋭い光が鎧の胸の前で弾けたかと思うと、巨大なレーザーが一面を覆い尽くした。
 視界が真っ白に焼けた。
 目を閉じていてもその明るさが認識できる程の、強烈な光だった。
 ──そして、しばしの静寂。
「うわー、びっくりしたねぇ。」
 右手の柱の陰へ逃げ込んだソンソンが、頭を上げて感想を述べた。その声で同じ場所に身を隠していたナッシュとガンビットも顔を上げる。
「……っておい、俺達無事か? 柱一本であのレーザーが防げるのかよ。」
 言いながらガンビットが反対側の柱を見ると、同じ様に逃げ込んだリュウ、ウルヴァリン、モリガンの姿が見えた。三人とも無事なようで、モリガンがひらひらと手を振っている。
 直撃してはかなわないと咄嗟に柱の陰に身を隠したのだが、まさか無傷で済むとは。
「イメージの中で、議事堂は特別に設えてあるといっていた。魔力を防ぐ構造にしてあるのだろう。」
 ナッシュが柱を軽く検分しながら言う。見たかぎりでは普通の石の柱にみえるのだが。
 レーザーが走ったはずの床も、鎧の反対側にある壁も、白っぽく焼けたようになってはいるもののどれも始めに見たままの形でそこに存在している。
「となると、案外簡単に倒せそうじゃないか。なんてったって逃げるところがあるんだぜ。」
 ガンビットは持てるだけのカードを取り出した。そして全てに限界までチャージしていく。
「It's show time!」
 柱の陰から鎧の前に出ると、身体を反転させつつカードを鎧に投げつけた。
 それらは全て鎧の胴体前面にクリーンヒットし、連鎖的に爆発を引き起こした。
 たまらずよろめいた鎧めがけて、間髪いれずにウルヴァリンとソンソンが直接的な攻撃を仕掛け、更にモリガンが空中から、ナッシュとリュウとガンビットが地上から飛び道具で重ねていく。
 そして鎧が少しでも反撃の動きを見せると、柱や机の陰に隠れてやり過ごす。
 そんな流れを幾度となく繰り返した。
 波蝕の鎧は他にも幾つかの攻撃方法を持っていた。追尾機能を持つ光球を放ったり、手をかざして槍の雨を降らせたりした。しかしそれぞれの動作が大きいため、動きを確認してからでも充分躱すことが出来る。
 最初の予想とは裏腹に、戦いはナッシュ達の圧倒的な有利さで進められた。
 鎧は全体的にヒビが入り、中から緑色に光る液体が所々漏れ出している。他にも大きく凹んだり歪んだりする箇所が徐々に増え、鎧自体の動きも鈍くなってくる。
 最初は遠く思えた勝利の二文字が、皆の前にちらつき始めたその時
「みんなー! ちょっとどいて!!」
 ソンソンが、自らの武器である棒を思い切り上へ放り投げた。
「……?」
 皆が一斉にその棒の行方を目で追う。投げ上げられた棒は、しばらく空中でバトンの様にくるくると回っていたが、見ているうちに信じられない変化が起こった。
 巨大な波蝕の鎧に負けず劣らずの大きさに膨れ上がったのだ。
「な……ッ。」
 驚いている他の五人には気にもかけず、ソンソンは上に振りかざした両手を勢い良く振り下ろした。
「行ッけぇ──!!」
 掛け声と共に、巨大化した如意金箍棒が、真直ぐ波蝕の鎧の上に落下した。
 鎧は流石に潰れはしなかったものの、こらえ切れず後ろにのけ反る。
 ソンソンの技──天地通貫──に驚いていた他のメンバーはすぐさま我に返り、その隙を突いた。
 リュウとモリガンが同時に真空波動拳とソウルイレイザーを波蝕の鎧にかぶせたのだ。それは相まって鎧の放つレーザーを上回る威力になった。そして──
 結果、ついに鎧の胴体に穴が開いた。直径80cm程の大きな穴が。
「やったか……?」
 一同は固唾を呑んで鎧の様子を窺う。胴体に大きくあいた穴を通して、反対側の壁が良く見える。
 しかし、波蝕の鎧は倒れなかった。
 それどころかまだ尚上体をぎこちなく反らし、突撃の体勢を取ってきた。
「腹に穴が開いてるってぇのにまだ動くのか!!」
 ウルヴァリンが再び爪を引きだし、迎撃体制をとる。しかし一瞬早くその横をソンソンが素早く駆け抜けた。
「──!?」
 驚くウルヴァリンには構わず、波蝕の鎧の足下に滑り込む。それから如意金箍棒を大きく振りかぶった。
「え…ィやぁッ!!」
 大きな掛け声とともに再び巨大化させた棒を思い切り横へ薙ぎ払う。先程放った天地通貫の応用版らしい。
 当然の結果として、真直ぐ突進しかけていた鎧は、脚を払われあえなく床へ突っ伏した──ものすごい音と共に。
 そしてそのまま今度こそ動かなくなった。
「今のがとどめだったみたいよ?」
 拍子抜けしたみたいにモリガンが呟く。六対一、それも必殺技の応酬という派手な戦いだった割に、オチは情けない。
 全員、警戒をしながら徐々に鎧に近付いてみる。だが倒れた波蝕の鎧は全く動く気配を見せかった。
 鎧の隙間からはどろどろと緑色の液体が流れ出し、床に大きな水たまりが出来上がっている。
「あっけないわよねぇ。これでお終い? ──何もかも?」
 モリガンが軽蔑を含んだ眼差しで見下ろした。容易にダメージが与えられなかった当初はどうなる事かと思ったのだが。
「こんなヤツに世界中振り回されたってのか。何かの間違いじゃねぇのか?」
 言いながらガンビットが棒の先で鎧をつつく。カンカンと金属特有の乾いた音が辺りに響いた。
 結局、鎧の意図が見えない。
 波蝕の鎧は世界各地の人々を吸収し、エネルギーを蓄えてきた。正確な居場所をつかませることなくある時は生体エネルギーを、ある時は身体ごと人々を喰い、その得体の知れない不気味なものに世界が震撼した。
 波蝕の鎧の、あの助手の目的は「全ての破壊」──世界を破壊し始まりの海へと還すことだ。
 しかしこの期に及んで鎧は六人を吸収しようともせず、ここまで招き入れて単調な攻撃で戦いを挑んできた。
 むしろ『倒されるため』に一行を招き入れた様な印象さえ受ける。
「気に入らねぇな。」
 ウルヴァリンがマスクを外して吐き捨てたその台詞は、全員の心情を最も良く表していた。
「で、これからどうするんだ? 鎧は倒したものの……出口がない。」
 ふと、リュウが不可解な表情をしたまま聞いた。その台詞に皆きょとんとなる。
「そういえばそうだ。俺達閉じこめられたまんまじゃないか。
 ──なぁ中尉殿、アンタの見た夢に何か隠し通路みたいなのは無かったか?」
「幾つかあったようには思うが……当てにはならんな。存在だけしか知らん。」
「取り敢えず通路を戻ってみて、扉が開くかどうか試してみるのが一番じゃないのかしら。」
 ガンビットとナッシュの会話の横からモリガンが口を出した。他に波蝕の鎧が入ってきた大きな扉が開かないかもう一度試してみるという選択肢もある。
 まずは一番近くにある扉から試してみようという話になり、リュウとウルヴァリンが扉に向かって歩き出した。
 ──その時。
 ぼこん、と緑色の水面が泡立った。
「?」
 ソンソンはしゃがみ込んで水たまりを覗いた。しかし微かに波紋が広がっているだけで、それ以外には何の変化も見られない。
 ──気のせいかな?
 そう思って再び立ち上がると、またぽこんと音がして、波紋が足下へと向かってきた。
「??」
 再び覗き込む。すると今度は見ているところからぽこん、ぼこんと泡が浮かび始めた。次第に泡が増え、端からぼこぼこと音を立てて水面が波立っていく。
「ね・ねぇ、何か変だよ?」
 言っている間にもまるで沸騰した水面のように激しく泡が出来ては弾け、同時にその面積を広げていった。
「わ、わ、わぁ……ッ!」
 液体に触れないように慌てて下がるが、それを遥かに上回るスピードで床が緑色に染まっていく。ソンソンはたまらず尻餅をついてしまった。
「何だよこれは──?」
 あっという間に議事堂の床を覆い尽くした緑色の液体は、変わらずぶくぶくと泡を吐き出し続けている。
 足に触れても特に異常は見られないようだが、あまり気持ちの良いものではない。
 更に倒れた鎧自身にも変化が出て来た。
 液体に触れている部分から細かい泡が噴き出したかと思うと、鎧全体が下へ向かって急速に落ち始めた。そう、正に水に沈んでいく様に──。
 それを見て、はたと我に返った。
 ──波蝕の鎧は「本体」ではない。
「コアを探せ!! ──アビスを!」
 叫びながらナッシュが駆け寄った時には、鎧は兜の一部を残して全て溶けてしまっていた。それ以外には影も形も見当たらない。
「おい、アビスってヤツは一体何処だ?」
 緑色の液体が広がった地面を睨みながら、ウルヴァリンが呟く。液体はくるぶしが浸る位の高さまで広がって、来るときに通った洞穴の様な非常に浅い池を形成した。
「溶けちゃったねぇ。」
 ソンソンが棒で床をつつく。ちゃんと床はある。自分達の足が溶ける様子もない。なのに鎧は消えてしまった。
「……。」
 厳しい顔をして、ナッシュはたった今拾い上げた鎧の破片を見つめた。10cm四方の、兜の一部だ。一見したところ何かしらの金属製で、表面に細かい文字らしきものが刻まれている。溶け切る前に液体から離したが、また下に落とせばあっという間に消えてしまうかもしれない。
 ──何かがおかしい。
 波蝕の鎧は確かに倒した。胴体に大きな穴を開けたにも関わらず、『アビス』に相当する部分は見えなかった。鎧から出て来たのは緑色の液体だけだ。
 そして今はその液体しか残っていない。
 しかし鎧の行方やアビスの存在をゆっくり検証している暇はなかった。
 次に、地面が揺れた。
 地面だけではない。壁が、天井が、全て大きく揺れ始めた。
「気をつけろ!!」
 今まで波蝕の鎧があれだけぶつかっても、わずかに震えるだけでびくともしなかった議事堂が、今は全体的に振動して崩れていく。
 大きな柱が次々と倒れ、階段状の議員席は瓦礫の山へと変貌を遂げる。
 天井は何故か下に落ちて来ず、欠片は渦巻いて上へと吸い上げられていった。
「ちょっと、何なのあの空? ここは何なのよ!?」
 モリガンが見上げて驚きの声を上げる。
 天井が消えた後には緑色の不気味な雲が渦巻いていた。他は何も見えない。
「まだ、終わりじゃないのか──!?」
 リュウは辺りを見回した。
 どれくらいの時間が経ったのか、振動は徐々に収まってきた。辛うじて残った崩れた柱や壁が、議事堂の面影をわずかに残してはいる。しかし議事堂の様子は一転、異空間と化していた。
 全員、無意識のうちに背を内側に向けて円陣を組んでいた。緊張のまま次の変化を待つ。
 また泡の弾ける音が遠くで響いた。かと思えば近くで一つ。先程までの勢いに比べれば緩やかだが、その代わり随分と大きい。
 それは様子を見る六人の周りで2・3回弾けた後、不意にガンビットの足下に現れた。
「う…わッ!?」
 今度の泡は弾けずに彼を包み込み、大きな球体となって空中に留まる。
 閉じ込められたガンビットは何かを言いかけて、
「……!」
 ごぼん、と口から大きな気泡を一つ吐き出した。中は液体がそのまま詰まっているらしい。
「ガンビット!」
 いち早く球体の下に入り込んだナッシュが、サマーソルトシェルを繰り出し叩き割った。直後、投げ出されたガンビットをウルヴァリンが受け止める。
「しっかりしやがれケイジャン!」
「──スマン。」
 解放されたガンビットは咳込んで答えた。閉じ込められたのはわずかな時間なのだが、案外ダメージは大きい様だ。
 その間にも床からは球体が断続的に生成され、皆を捉えようとする。
 球体自体はもろく、叩けばすぐ壊れてしまう。ただし、それは外からの話である。一度捉えられると中には粘度のある液体が詰まっており、動く事はもちろん呼吸すらままならないのだ。
 結局、空中へ逃れることのできるモリガンとソンソン以外の男4人は、一度は球体の中身を体験した。
「まさかこれがアビスって言うんじゃねぇだろうな!?」
 例え一度でも球体に捕らえられたのが余程腹立たしかったのか、ウルヴァリンは必要以上に力を込めて目の前に現れた球体を叩き壊しながら吐き捨てる。
 その横でソンソンがやっぱり呑気な雰囲気を漂わせながら、棒を目の前でくるくると回しつつ、聞いた。
「──でもさ、結局アビスって何? どんなの?」
 確かに、この場にいる全員は知らないのだ。アビスが一体何なのか。
 どういう働きをするのかは知っている。この自体の元凶である助手がそれを使って何を企んだのかも判る。だが肝心のアビスの形状は誰も知らないのだ。ナッシュが見たイメージにすら、アビス自体の姿形は出て来ていない。
「……」
 何度目かの沈黙が訪れた。あの厄介な球体は、ウルヴァリンが潰したのを最後になりを潜めている。鎧の中から出て来たのがこの液体しか無い以上、これがアビスだと結論づけるのは容易い。
 ──だが、納得がいかない。
 勘のようなものが、心の奥底で警鐘を鳴らしているのだ。「これはアビスではない」──と。
 非科学的ではあるが……そう思いながらふと顔を上げて、ナッシュは息を呑んだ。
「……!」
 他のメンバーも一点に集中している。
 空中に、それは浮いていた。
 天空に渦巻く緑色の雲の中心辺りに、波蝕の鎧と同じ様な質感を持った黒い球体が。
 大きさは比較対照が無いので良く判らない。だが少なくともバスケットボールよりは大きく見える。そして表面には何かの紋様が、不気味な赤い光を放ちつつ帯状に巻き付いている。
「あれが、アビス──」
 見たことはない。誰かの解説があった訳でもない。
 だが理解した。それが常に存在する世の理であるかの様に。
 空に悠然と浮かぶ黒い球体には、それだけの威圧感と存在感があった。
 それから、不意に消えた。
「待ちやがれッ!!」
 ウルヴァリンが行方を追って駆け出そうとしたが、それは叶わなかった。
 床の液体が突然波立ったかと思うと、丁度人の高さ程の水柱が何本も立ち上がった。それはウルヴァリンの前だけではなく全員を取り囲む形で壁となり、その場からの動きを封じる。
「何だ!?」
 六人が驚いて立ち尽くしている間にも水柱はどんどん形を変え、最終的には見覚えのある形で落ち着いた。
「人形──!!」
 ナッシュやモリガンが戦ったあの人型。それと全く同じものが目の前にずらりと並んでいる。違うのは色だけだ。
 緑色に輝く人型は一斉にこちらを見た。そして──
 笑った。
 腹の底から響くような、しかし甲高く。笑い声が辺り一面に響き渡る。
 そして不気味な笑い声が途切れた瞬間、人型は同時に右腕と思われる部分を六人に向けた。先は手ではない。銃口だ。
「──ッ!!」
 全員が、何とも言えぬ恐怖感を覚えた。
 先程までとは違い、隠れるところの全く無いこのフィールドで。完全体と思われる人型の群れに一斉に照準を合わされ、逃げ場をなくした。
 その刹那。
「シュプリマシオン!!」
 何処からか響いた女の声と同時に、人型と六人の間に再び水柱が立ち上がった。人型とは違い、美しさを伴った透明の水柱はカーテンの様に横へと広がり、人型の放った青白い炎を防ぐ。
「何だ!?」
 敵の攻撃が収まると同時に消えた水の盾の出現に驚いたのも束の間、続いて、言い様のない轟音が空間に響いた。
 何もない空間の一部が砕け散り、分厚い壁を外から突き崩すように侵入してきたその剣のような舳先は、あたかも銀色に輝く巨大な剣の切っ先であった。
「船……!?」
 波蝕の鎧の噂には付き物だった「空を飛ぶ船」が、そこにいた。
 ナッシュやモリガンは空で一度遭遇している。あの時見たものと寸分の違いもない。同じものだ。
 船に驚いたのか、気が付けば人型達は反対側のアビスの消えた方へと固まっていた。まだそこにアビスがいて、それらを護っているかの様にも見える。
 突然の展開に対応できず、全員ただボンヤリと船を見上げていると、甲板辺りから声が降ってきた。
「皆!! 乗って!!」
「春麗!?」
 見慣れないものの中に、突然見慣れた顔が出て来た。間違いなく先程まで一緒にいたICPOの女刑事が、甲板から顔をのぞかせて手を振っている。
「事情は後! 早く乗って!」
 その声と同時に、がらがらと縄ばしごが降りてくる。更に一人が飛び降りてきた。
「もたもたしてると異空間に閉じこめられるわよ! 早く!」
「ローグ!」
 ガンビットが腰を抜かしそうな程驚いた表情を見せた。普段クールが売りな男がこんな表情は珍しい。
 ローグが呆れた顔をした。
「何間の抜けた顔してンのよシュガー。──とにかく早く! 怪我して上れない人は居ない!?」
 今は言う通り謎を追及している暇はないだろう。近いものから皆順に縄ばしごを上り始めた。一方のローグはそれを確認すると飛び上がって一足先に甲板へ戻り、上で引き上げるのを手伝った。
 ソンソン、リュウ、ウルヴァリンと上がって、ガンビットが縄ばしごに手をかけたとき、自分の背中に後続の気配がないことに気付いた。
「ナッシュ! 何してる!?」
 振り返って叫ぶ。
 ナッシュはやや離れたところに立ち、船と反対の方向をじっと見ていた。その視線の先には、モリガンの後ろ姿がある。しかも彼女は徐々に船から離れていっている。ゆっくりと、一歩一歩。
 ガンビットははしごを放し、ナッシュの横へ駆け寄った。
「何やってンだありゃ。」
「判らん。」
 モリガンは飛べるので、ギリギリまで放っておいても構わないといえばそうなのだが──。
 それにしてもどうも様子がおかしい。
「──レミー、これを持って先に行っててくれ。」
 ガンビットに先程拾った鎧の破片を渡すと、ナッシュはモリガンの方へ走り出した。
「早くしろよ!」
 背中から聞こえてくるガンビットの声に軽く手を挙げて答える。
 モリガンに追いつくのは簡単だった。
「──モリガン!」
 モリガンは答えず、振り向きもしない。
「モリガン? 今は撤収だ。早くしないと……」
 言いかけて肩に手をかけようとすると、それを厳しく跳ね除けられた。
「放して。」
「──!」
 その横顔を見て、ナッシュは思わず目を見開いた。
 今までのモリガンとは、全く違う表情。
 これまでも人間離れした表情を見せる事はよくあった。旅客機の中でトラブルに巻き込まれた際も、普通の人間なら絶対見せない様な残虐さと美しさをないまぜにした顔を覗かせたものだ。
 この場合の表情も言葉では表現し難い。しかし何処かで見覚えのあるような光をその目にたたえ、モリガンは半ばうっとりとしてあらぬ方向を見ている。
「私には判るの。この先にあるのよ。大きなエネルギーが。
 美しいわ……。あれがアビス。究極の欲望の塊──。」
 既にモリガンは見えないものを見ていた。ナッシュの視野には緑色の人型達しか存在しない。人型は徐々に近付いていくモリガンに対しては何の警戒もしていない様だ。
「おい……。」
 ナッシュはもう一度呼びかけようとして、ふとその脳裏に思い出されることがあった。
“──だから、お願い。”
 ナッシュはモリガンの前に回り込み、両肩をつかんで揺さぶった。
「リリス! 出て来い!! さもなければまた闇に飲み込まれるぞ!!」
 本来理論的に動く男が、本能で判断した。これは非常に危険な状態である、と。
 本能も、今までの経験からフィードバックされた理論といえばそうなのかもしれないが、今のナッシュは殆ど直感でリリスを呼び起こそうとしていた。リリスを引っ張り出す、その発想自体が直感だった。
 突然、モリガンの表情が変わった。
「ナッシュ……?」
 物憂げに、そしてだるそうに。しかし今までと違い、その瞳にはきちんとした自我が浮かび上がっている。
「リリスか?」
 言われてモリガン──表面化したリリスは黙って頷く。
「立てるか? 走るぞ。」
 ナッシュが肩を貸す形で二人は船に向かって走りだした。
「ナッシュ、早く!」
 船の上からリュウが身を乗り出して叫んでいる。ナッシュがリリスを抱えて縄ばしごをつかんだ瞬間、船が浮かび上がった。
 途端に周りの景色がぼやけ、灰色に溶けて何も見えなくなる。空に渦巻く不気味な雲も、ひしめく大量の人型も、何もかも色あせて消えていった。
 そんな周りを気にする余裕もなく、ナッシュとリリスは皆の協力で甲板に引き上げられた。
 甲板に辿り着いた直後、張りつめていた糸がふつりと消えるようにリリスは気を失った。
 ガンビットが預かった破片をナッシュに返しつつ、いささか訝しげな顔を寄越す。
「何があった?」
「──判らん。気付き次第本人に聞くしかないな。」
 ただ、あの時のモリガンの表情は尋常ではなかった。彼女にとって、普通の状態でなかった事は確かだろう。
 それ以前に色々な事が一度に起こり過ぎて、その展開が全く理解できていない。出来ればゆっくり落ち着きたかった。少なくとも今波蝕の鎧と戦ったメンバーは、皆同じ気持ちだった。
 そんな疲れた面々に、また声がかかった。
「これで、全員だな。」
 あの水の盾を造り出した声と同じものだ。たった今船に乗り込んだ者たちは、声のした方向へ疲れた視線を向けた。
 そこには女が一人。隻眼で、ウエーブかかった長い金髪を何処からか吹く風になびかせたその女は、船の主らしくそれに相応しい威圧感を放っている。
 女は、手を差し伸べて言った。
「我が船へようこそ。──次世代の戦士達。」

 


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